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    <title>FERMAT</title>
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    <updated>2010-08-20T08:09:11Z</updated>
    <subtitle>FERMATは、社会の基底をなすコミュニケーションが変容する間際に示す徴候に照準しながら、未来のビジョンを構想することで、新たな何か＝“X”、の誕生・到来を促します。</subtitle>
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    <title>Facebook Placesをカジュアルにプロモートする</title>
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    <published>2010-08-20T08:05:42Z</published>
    <updated>2010-08-20T08:09:11Z</updated>

    <summary>Facebookの位置情報サービスであるFacebook Placesが発表された。そのプロモーションビデオが紹介されている。 Facebo...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Facebookの位置情報サービスであるFacebook Placesが発表された。そのプロモーションビデオが紹介されている。</p>

<p><a href="http://techcrunch.com/2010/08/19/facebook-places-video/">Facebook’s Apple-Like Places Promo</a><br />
【Tech Crunch: August 19, 2010】</p>

<p>Placesのサービス自体は位置情報を友達に紹介するもので、サービスの名称もPlaces＝場所と味もそっけもない。</p>

<p>プロモーション映像も記事中で短くコメントされているようにAppleのそれにとても近いトーン＆マナーでまとめられている。開発担当者が開発者としての夢を語る形で、それをheart-warmingな雰囲気でまとめている。利用者の日常生活を切り取る形で、逆光の中のバスケットコート、自転車、市場の散策、恋人同士の写真、というように、同時進行する複数の人々の振る舞いの中に、さりげなく位置情報の提示が示される。とてもconfortableな感じのする映像だ。</p>

<p>Placesの内容自体、ただの位置情報提供という無形のサービスだから、その可能性を指し示すプロモ映像は実質的にサービスそのものを表現しているといえる。だから、映像をどう気持ちよく作るかは、少なくともローンチ当初の段階では大事なこと。それゆえ、アップルっぽいという評がでてくることもよくわかる。</p>

<p>ただ、それ以上に、そうしたプロモ映像の大事さをそれとなく理解し、それなりの表現、つまり、ビデオクリップや映画を評するようなカジュアルな感じで紹介する記事が、TechCrunchのような一般的には技術情報サイトの上で記されていることの方が個人的にはとても気になった。日本のIT情報系サイトだとこういう感じの紹介文にはなかなか遭遇しない。もっとも、今回のPlacesの映像のようなトーンのものが日本だとなかなかないから、ということもあるだろうけれど。</p>

<p>こういうカジュアルな映像を見るといつも思うのだけど、アメリカの場合、役者層が多いから素人っぽい玄人予備軍がたくさんいてその人たちがカジュアルな演技をさりげなくやってのける。映像の素材としての人間に幅があるのがなかなかによい。イメージが固定されたタレントや役者では逆に画面が締まり過ぎてしまって、未来性というか、不確定だが無限の可能性のような、ぼんやりとした映像を指示しにくくなる。いい意味で素人っぽさが大事。しかも、それが若者だけでなく相応の年齢層の役者についてもあてはまる。そういうところが、アメリカの、CMに比べてやや長尺の映像を見ると感じることは多い。</p>

<p>それから、Placesのプレゼンとしてうまいと思ったのは、どうやら背景となる都市が、Golden Gate Bridgeの存在からSan Francisco（SF）のようだということ。SFはLAと違って、モータリゼーションが始まる前から都市だったので、NYのように緊密な街づくりがされている。もちろん、有名なケーブルカーもあって、人が人のまま移動できる都市だ。Placesによる親密圏の演出には、広大な都市よりも、密度のある都市のほうが似合っているし、実際、利用も進む。人間どうしの近さを感じさせる場所としてSFは格好の街だ。</p>

<p>無形商品であるサービスでは、その視覚化がとても大事なわけで、実はそうしたサービスの紹介をする側も、そういう見えないものを描く力や感覚が必要になる。その感じを上のTechCrunchの書き手は直感的にわかっているように思う。紹介記事の文体やトーンもこれからは大事になるということだ。</p>

<p>それにしても、映像に出てくるFacebookがいずれもiPhone上であったのは興味深い。Facebook自身、アプリの一つであることがよくわかるし、アプリである以上、他のタブレット、たとえばAndroid Phoneが出てきても、アプリとしての顔つきはFacebookであるわけで、ある意味で、どのメーカーのPCでも画面にはWindowsが映っているのに近い印象を与えてきた。どの機種でもAmazonのKindleが使えるのに近い感覚でもいい。ただ、Amazonと違って、Facebookが提供するのは利用者の人々に過ぎない分、可能性はプラスにもマイナスにも大きく広がる。そうした可能性を示唆するものとしてもこのプロモ映像はよくできていたと思う。</p>]]>
        
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    <title>Scott McNealy は Andrew Carnegie の再来か</title>
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    <published>2010-08-04T07:02:31Z</published>
    <updated>2010-08-04T07:03:35Z</updated>

    <summary>Sun Microsystemsの創始者の一人であるScott G. McNealyが、non-profitの活動に乗り出し、手始めにOpe...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Sun Microsystemsの創始者の一人であるScott G. McNealyが、non-profitの活動に乗り出し、手始めにOpen Source型のデジタル教科書に力を入れている。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/08/01/technology/01ping.html?_r=2">$200 Textbook vs. Free. You Do the Math.</a><br />
【New York Times: July 31, 2010】</p>

<p>OracleがSunを買収することになり、McNealyはCEO職から離れることになった。彼が今、力を入れているのが、無料のテキストブックのハブの役割を果たしているCurrikiというウェブを活用した教育支援プロジェクトだ。</p>

<p>アメリカ全体で年間に80億ドル（約8000億円）から150億ドル（約1兆5000億円）が教科書の購入に当てられているが、これらを全て無料にしてしまえ、というのがMcNealyが考えていることのようだ。なぜなら、「10+10=20」ということは変わらないからだ。</p>

<p>McNealyは初等教育における教科書のことをいっているのだと思うが、個人的に経験した大学の場合、アメリカの教科書は確かに高い。一冊150ドルする位するのが普通で、それが定番となった教科書だと、McNealyも指摘するように比較的短いサイクルで頻繁に改訂される。コロンビア大学では、大学生協が古本としてテキストを買い取り、毎年売っていくということも行っていた。講師は最新版の教科書を指定してくるが、たいていの場合は、二回ほど昔のバージョンでも十分内容的には問題ないことが多い。改訂の多くは事実のup-to-dateなので、理論や考え方の枠組みには影響を与えないからだ。それでも、教科書出版会社、あるいは、ロースクールの判例出版会社などは、ドル箱として頻繁に改訂することで、中古本市場に利用者が逃げるのを防ごうとする。</p>

<p>出版社側の事情は事情でわかるが、しかし、up-to-dateの容易さも含めてウェブで対応すればそうした馬鹿らしいシステムからも逃げ出せるのではないか、というのがMcNealyが考えていることだろう。何故馬鹿らしいかといえば、そのような改訂によって教科書自体が高くなりその分知識習得のための金銭的ハードルが上がってしまい、もともと教科書出版の背後にあった、知識の伝播という目的達成のハードルをも上げてしまうから。</p>

<p>そこで、ウェブを活用して教科書的な知識については広くアクセスできる環境を創ってしまおう、というのがCurrikiで試みようとしていること。こうした知識の伝授機会を増やそうというのは、19世紀末に全米の図書館システムに私財を投入し無料貸し出し制度を確立の貢献したAndrew Carnegieの行為の現代版と言っていいだろう。</p>

<p>あるいは、貧困撲滅などの大義の実現に向けて私財を投じたBill Gatesと比較したとき、McNealyの振る舞いは、各人が自律して対処するための土台＝教育に力を入れよう、というところは、よりOpen Source 的というか、リバタリアン的というか、Sunらしさをよく表現しているようで興味深い。</p>

<p>Gatesが財団活動で国際的な正義の実現に力を入れる一方、Steve JobsはiPad等の投入で企業活動そのもので社会を変えようとし、McNealyはSunの起業精神にあったOpen Sourceの発想を社会問題の解決に活用しようとする。三者三様で社会に対峙しているところが興味深い。</p>

<p>McNealyのリバタリアン的傾向については次の記事の中の彼の発言も参考になる。</p>

<p><a href="http://bits.blogs.nytimes.com/2010/08/02/scott-mcnealy-on-nonprofits-and-bailouts/?src=twt&twt=nytimesbits">Scott McNealy on Nonprofits and Bailouts</a><br />
【New York Times: August 2, 2010】</p>

<p>少なくとも当面は上場企業の経営に携わるつもりもないようだ。間違いなく今日のインターネットの時代を用意した立役者の一人であるMcNealyがnon-profitの世界で何を行っていくのか。GatesやJobsとはまた異なる活動家＝adovocateということか。</p>

<p>何にせよ、資金を出して終わり、とならないところがとても起業家的だ。新しい仕組みを作るところに自らhands-onで乗り出していく。今後も注目しておきたい。</p>]]>
        
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    <title>世界市場に対応するHollywood</title>
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    <published>2010-08-03T10:22:25Z</published>
    <updated>2010-08-03T10:23:57Z</updated>

    <summary>アメリカの国外からの収益を無視しては、早晩、映画ビジネスも成り立たないため、国外市場への対応にハリウッドは追われている。 Plot Chan...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>アメリカの国外からの収益を無視しては、早晩、映画ビジネスも成り立たないため、国外市場への対応にハリウッドは追われている。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704913304575371394036766312.html">Plot Change: Foreign Forces Transform Hollywood Films</a><br />
【Wall Street Journal: July 31, 2010】</p>

<p>アメリカ国内の映画収入は基本的に横ばいであるため、増収のポイントは基本的に国外からの収入が担っている。記事にもあるように、中国やロシアで映画館が増設され、単純にスクリーン数が増大するため、そのは配信（配給）チャネルにいかにしてハリウッド製の映画を埋め込んでいくかがハリウッドの直近の経営課題になっているというわけだ。</p>

<p>そのためにはハリウッド製の映画が国外でも受容され、堅調な需要を生み出してくれるようにしなければならない。そこで、キャスティングやシナリオのレベルで工夫をするに至る。当該地域の俳優が出演するなり、アメリカ人にしかわからないような台詞を外したり、という具合に、商品のレベルで変えてくる。最近であれば『インセプション』に渡辺謙が出演している、というのも日本公開を考えての上のことだと取ってもいいのだろう。あるいは『アバター』のようにCGベースの映画にして現地の吹き替えにしても違和感のないものにし、より普遍度の高いものにする方向もあるだろう。</p>

<p>記事にもあるように、少し前のハリウッドの稼ぎ頭はDVDセールスだった。興行収入よりもDVD収入が重要になる中、映画上映は一面でDVDのプロモーションの機会であり、DVDセールスに繋がるような凝ったプロット開発に向かっていった。DVDに収録されたボーナストラックとしてのメイキング映像や監督やプロデューサーによる解説もすっかり当たり前になった。これらは、映画館ではなく家庭で個人的に視聴することを考えてのことだ。いい意味で「巻き戻して」も見てもらえるだけの工夫が仕込まれている。</p>

<p>ただし、そうした仕込みは第一にアメリカ市場を考えてのことだった。今後はそうした仕込みを国外市場でも通じるようなものにしていかなければならない、ということだ。</p>

<p>一番簡単な対応は言葉や文化を越えて鑑賞可能なシンプルなストーリーラインでアクション中心のものをつくっていくことだろうが、それでは顧客が早晩飽きてしまうだろう。この壁をどうやって作品のレベルで、あるいは、ボーナストラックのレベルで対応していくのか、映画鑑賞の様々なレベルで微に入り細をうがつ工夫が凝らされていくのだと思う。</p>

<p>5年や10年経ったところで目に見えた違いが生じているのかどうか、楽しみにしておきたい。</p>]]>
        
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    <title>iPadでのテレビドラマのpreview展開</title>
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    <published>2010-07-29T23:27:28Z</published>
    <updated>2010-07-29T23:29:19Z</updated>

    <summary>アメリカの四大ネットワークの一つであるFoxが、この秋からのドラマの新シリーズの第一話をVanity Fairを通じてプレビューさせるという...</summary>
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        <![CDATA[<p>アメリカの四大ネットワークの一つであるFoxが、この秋からのドラマの新シリーズの第一話をVanity Fairを通じてプレビューさせるという。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/07/29/business/media/29adco.html?_r=1&ref=media">Fox Uses Heavy Exposure for Previews of ‘Lone Star’</a><br />
【New York Times: July 28, 2010】</p>

<p>Vanity Fairが考えているのは、雑誌本体にDVDを挟み込む手段と、iPadのVanity Fair appで映像配信する手段の二つ。Foxによれば、いずれも新ドラマシリーズの第一話を完全に見せる予定だという。</p>

<p>DVDの挟み込み、というか、記録媒体の挟み込みはCD-ROMの頃から行われていることなので、この場合、ニュース性があるところは次の二点だろう。</p>

<p>● iPadでのプレビュー<br />
● プレビューのフル体験</p>

<p>iPadでのappでなら利用者の属性なども（ある程度）把握することが可能だと考えれば、このプレビューは、文字通りプレビューが行ってきた視聴者の意向の事前リサーチに使うこともできるだろう。</p>

<p>プレビューとして第一話を全て提供するのは、この数年、アメリカではドラマの扱いがテレビの中で微妙になっていることの表れでもある。リアリティショーの普及から、昔のように視聴率を稼げるコンテントとしてドラマに期待することは自明ではなくなっている。また、作品としてエッジの効いたドラマシリーズ、簡単にいえばエミー賞を受賞するようなシリーズは、四大ネットワークではなくケーブルのチャンネルから生まれている、という事態もある。このような、視聴形態の変化の中で、視聴者の関心をどう引き寄せるかが、ドラマ関係者の関心の中心になっている。いわば、テレビドラマが映画並みに人々の関心を掴みにくくなっているということだ。</p>

<p>Vanity Fairという文化誌（といっても政治社会の良質な寄稿も多い）とタイアップするのも、テレビドラマ視聴にも一定の文脈形成によって、関心を維持し続けさせる仕組みが必要になっている、ということの表れだろう。</p>

<p>実際の番組内容も含めて注目しておきたい。</p>]]>
        
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    <title>Facebookの5億人はMembershipかCitizenshipか</title>
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    <published>2010-07-23T07:24:05Z</published>
    <updated>2010-07-23T07:26:11Z</updated>

    <summary>Facebookの登録ユーザー数が5億人を越えた。その様子を国民国家との比較から論じた記事。 The future is another c...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Facebookの登録ユーザー数が5億人を越えた。その様子を国民国家との比較から論じた記事。</p>

<p><a href="http://www.economist.com/node/16646000">The future is another country</a><br />
【The Economist: July 22, 2010】</p>

<p>先日イギリスの首相となったDavid Cameronが、Facebook のCEOであるMark Zuckerbergに対して「実際には握手することができない多くの人々からの期待に応えるにはどうしたらよいのか」と尋ねた、という紹介は、国民国家とSNSを類比的に考えるためのいいイントロだと感じた。</p>

<p>記事中にもあるように、国民としての「一体感」はどうやって構築されるか、という点について、有名なベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』を引きながら説明している。イントロの「握手することができない無数の人たち」との間で一体感を得るには、何らかの形で自分自身が「想像的に」その大きな存在≒国に連なる存在だという感じることが必要になるのだろう。そして、その理屈だけなら、Facebookも国民国家と同じレベルの存在と考えていいのではないか、ということになる。</p>

<p>もちろん、想像だけの紐帯関係では国際法上は国家としてはカウントされない。領土や政府などが必要になる。記事では、国よりも、むしろ、国際赤十字やローマ・カソリック教会のように、いざというときに政府や政府要人に準じる形で、何かの（国際的な）意思決定に関わる力をもつ存在として捉えることも配慮している。</p>

<p>面白いのは、上の記事で紹介されている、人口の多い国とSNSを比較した図だ。</p>

<p>中国、インド、の次にFacebookが位置し、その後に、アメリカ、MySpace、インドネシア、ブラジル、Twitterとなる。驚いたのは、Twitterのユーザー数が日本の人口に肉薄していること。いずれにしても、人口とユーザー数を比較しての順位付けだ。</p>

<p>なぜ面白いかと思ったかというと、10年ぐらい前に流行った見方は、国と企業を、GDPと企業売上で比較したものだったことを思い出したからだ。つまり、経済的な生産量という視点から見ると、たとえば、トヨタのような企業が中欧の国よりも大きい、という位置づけになっていたはずだ。</p>

<p>つまり、経済力、が国際的な舞台における存在感の指標と捉えられていた。</p>

<p>それに対して、今回のFacebookの場合は「人の数」だ。</p>

<p>多くの人を組織して抱えていることが、国際舞台における存在感の源泉の一つになる、という想像力が、Facebookが注目される理由の一つだ。ただ、「人の数」の多さが考慮されるのは、一人一人に一票がある、という考え方からだと思う。その意味で、GDPのような「経済力」に対して「政治力」が評価された結果とも言える。</p>

<p>とはいえ、「人の数」は政治的な意思決定（≒投票）だけでなく、経済活動でも大きな力を持つ。生産や消費に対する影響力もさることながら、知恵を生み出すための「ネットワーク」としての潜在力ももつと思っていいだろう。</p>

<p>だから、以前使われた、「（結果としての、今の）GDP」よりも、「（今後の、可能性を示唆する）人の数」の方が、この先は影響力の源泉として評価されると考えられるのではないか。</p>

<p>そう考えると、Facebookの有り様は、単なる私企業として考えるだけでは足りないように思える。その時、新たな政治経済的な組織体として、企業や国＝政府、あるいは、NPO/NGOのような既存のフレームを越えた存在として位置づける準備も必要になってくるのではないかと感じる。</p>

<p>Facebookは日本ではユーザー数が少ないので何かと黙殺されがちだが、日本の外に少しでも目を向ければ、様々な思考実験の機会を与えてくれる存在だと思う。一体どこまでユーザー数は伸びるのか、果たして私企業として上場するのか、それとも、異なるシステムを作るのか、などの視点から、今後も注目していきたい。</p>

<p>そして、その過程で、ユーザーが単なるmenbershipに止まるか、それとも国並みのcitizenshipを得るのか、あるいは、それらの中間形態（in-between）として新たなカテゴリーを生み出すのか、徐々に明らかになっていくものと期待したい。</p>]]>
        
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    <title>電子書籍は、e-bookか、それとも、book appか？</title>
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    <published>2010-07-20T08:47:09Z</published>
    <updated>2010-07-20T10:49:34Z</updated>

    <summary>過去3ヶ月のAmazonの本の売り上げにおいて、Kindleがハードカバーを抜いたという。 Amazon Says E-Book Sales...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>過去3ヶ月のAmazonの本の売り上げにおいて、Kindleがハードカバーを抜いたという。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703720504575377472723652734.html?mod=WSJ_Tech_INTL_LSMODULE">Amazon Says E-Book Sales Outpace Hardcovers</a><br />
【Wall Street Journal: July 20, 2010】</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/07/20/technology/20kindle.html?_r=1&ref=technology">E-Books Top Hardcovers at Amazon</a><br />
【New York Times: July 20, 2010】</p>

<p>もちろん、本当の意味でポピュラリティを得たかどうか、というのはペーパーバックの売上との関連を見ないといけない。ハードカバーに対する利点は、値段、重さ、購入の容易さ、と簡単に思いつくから。iPadやnook等の他のe-readerによってe-bookの認知が進んだのも結果的にKindleでの購入を促したようだ。</p>

<p>さらにいえば、出版社の方もe-readerも市場の一つとして認識したことによって、e-book化される本が増える傾向にあるのもプラスに働いているようだ。出版社の事情にもよるだろうが、要は、昔あった、LPからCDへの移行やビデオからDVDへの移行によって、過去のアーカイブも再度売り出せるかも、という方向に向かいつつあるのではないか。音楽や映画で起こった「ライブラリー」の移行が、文字通り、本でも起こるということだ。</p>

<p>つまり、Kindleやnook、iPadによって、既存の本がデジタルでも読めるようになる。それによって、アクセス不可能になっていた過去の本＝ライブラリーも現在出版されている本と同じように、ウェブを経由してアクセス可能になる。今のところ、アメリカの電子出版はこのあたりに焦点が当たっている。</p>

<p>つまり、アメリカはe-bookから始まる。<br />
対して、日本は、どうやらbook appに照準が合いそうだ。</p>

<p>簡単にいうと、アメリカ発での世界商品としてKindleやnook、iPadが、さしあたってはe-book readerとして「とにかく機器＝ハードとして」販売されてしまった。まず、その事実が既にある。</p>

<p>しかし、Kindleがもともとe-readerとした開発されたのと違い、日本の場合、e-book化を想定していなかった。だから、そのとりあえず、舶来のe-readerたちをどうやって活用するか、という方向に向かう。</p>

<p>で、結論から言うと、iPadの登場によって、e-bookではなくbook appの方に向かっている。この方向を支持する要素はいくつかあって、先に述べたように、既にハードがある。そして、そのハードの上でアプリを開発するソフトウェア技術者が多数いる。一方、本自体は電子化するメリットが出版社にあまりない。</p>

<p>とりあえず、現在の出版流通制度と現行の本の形態は互いに不即不離の関係にあるとしておく。全国津々浦々で同じ値段で同じ商品が買えるという仕組みは文化財への平等なアクセスという点ではウェブ時代以前には機能した。むしろ、ウェブ以後、というか、社会の情報化以後の問題は、ＩＴの活用によってユーザー＝読者のフィードバックがそれ以前に比べて遙かに容易になったため、結果として、マーケットの声に応える商品が増えてしまったこと。</p>

<p>（よくテレビ番組がつまらなくなったと言われるが、そのとき、テレビ局の人の反応はいや視聴率はとれている、あるいは、これだけの支持を得ている、というもの。つまりは、視聴者＝ユーザーの欲望を実現しているのだから、番組がつまらないというのはあなたにとってつまらないだけだ、という立論が取られることが多い。実際、フィードバックを無視することは難しいので、この手の立論に対して有効に反論することは難しい。むしろ、こうしたフィードバックが満ちた制作体制の中で逃げとして出てきたのが、作家主義やスター主義への回帰で、一度でも大きな成功を納めた人物の登用が企画に不可欠になった。そして、メディア企業からすれば、そうした特定の人物は確率的に登場することに賭ければよい、ということになる）。</p>

<p>つまり、現行の書籍の形態は現行の流通にファインチューンした結果、生まれている。だから、本そのものをe-bookにする動機付けは難しい。けれども、既にハードもあれば技術者もいる。ということで、新しい革袋には新しい酒、とばかりに、新しいなにかを創る方向で、既存業界と新規参入希望者との均衡が取られる。もう一つ、日本の場合、アメリカと違って、エージェントのような作家の権利概念の管理主体が実は曖昧なままになっていた。このことが一連のe-book騒動の報道によって一般に知られることになり、そうであれば、テキストを電子化すること、あるいは、その電子化の際にはちょっと仕掛けを組んでみて「新しいこと、してみましょうよ！」と著作者を口説くための口上も出てくる。</p>

<p>そうしてbook appの方向に向かう。</p>

<p>つまり、従来型の本をそのまま電子化する（＝e-book）のではなく、映像や音声を加えたり、あるいは、インターフェースをいじってみたり、というようにテキスト以外の要素をいろいろと盛り込んで、従来の本の概念とは異なる何かをアプリケーションとして提案する（＝book app）する方向に向かう。</p>

<p>こういう方向でのトライアルがしばらくの間、続くのだろう。</p>

<p>たとえば、本の「土台や見た目」を変える、というのであれば、その極北的存在とし今までもVISIONNAIREのようなものがあった。これは果たして書籍なのか、と疑問に思うような何か。こうした試みがフィジカルにではなく、ソフトウェア的に、つまりは認識のレベルで試みられる、ということだろう。キメラ的存在だが、それが何かに化けてしまう可能性はもちろんある。その一方で、大コケする可能性もある。</p>

<p>*</p>

<p>それにしても、この、先にハードがある、という状況は、日本では常にキメラ的な、その意味でapp開発のような事態を招き寄せる。身近なところで言えば、アメリカでは新聞はちゃんとウェブ版ができたが、先述の出版同様、商品と流通形態が分かちがたく結合していた日本の新聞はウェブが登場してから既に十数年たってもウェブ版に本腰を入れるような事態にはなっていない。</p>

<p>急いでつけ加えると、これは、だから日本の新聞はデジタル化に遅れてけしからん、と言いたいわけではない。単純に、ビジネスの生態系が異なれば全く異なる結果を後日招く、という例として挙げているに過ぎない。つまり、電子出版についても、アメリカの出版社についてはe-bookという既存商品（＝本）のデジタル・ウェブへの移行が粛々と進むのに対して、文庫本と雑誌とコミックがドル箱になっている日本では、デジタル化するインセンティブが出版システムの内部で発見できない、だから、e-bookよりもbook appの方での進化を遂げる、と言うことなのではないかと思う。</p>

<p>繰り返しになるが、そうしたbook appの試みは大化けするかもしれないし、大コケするかもしれない。単純に今の読者は、既存の本の電子版が欲しいだけだった、ということかもしれない。その一方で、book appのようなものは、既存の本の概念を変えて、新しい読者、いや購入者を生み出すかもしれない。</p>

<p>本は買ったものが全て読まれているわけではない。その意味では「売れています！」という本の売れ方はどこか怪しい＝妖しい要素がつきまとう。つまり、売れているから売れている、という以上の理由が見いだしにくい。そう思うと、過去20年間ぐらいは、本の表紙や装丁・帯は相当変わった。簡単に言うと、戸田ツトム的な、表紙にテキストの一部が書き込まれていて、それが平積みにされたとき、読者への誘因になる、というような試みはとても日本的なもので、たとえば、あの手の工夫はアメリカのハードカバーで目にしたことはない。</p>

<p>そういう意味で、戸田ツトム的装丁的なものが、まずはbook appとして登場することが続くのかもしれない。それは、何となく有名どころのデザイナーとソフトウェアエンジニアと出版社のコラボ、ということになるのかもしれない。</p>

<p>テキストや情報そのもの、つまり、書かれたもの自体に関心があるものとしては、単純にまずe-book化して欲しいところだが、しかし、book app的なものが前に出ると、本そのものの消費の仕方が代わり、それによって結果的に本の作られ方も変わると信じたい気持ちもある。</p>

<p>それには音楽のケースが参考になる。ドラマのタイアップや、カラオケの登場、あるいは、最近であればニコ動的MADの登場によって、音楽のあり方が変わった。正確に言うと、音楽の裾野を拡げて今まで音楽に触れなかった人が触れるようになり、その分、ポピュラーな成分が増した。だから、昔ながらの音楽好きはこうした新たな音楽の登場を不快に思う人も当然いるだろう。それがコンテント消費における「ジャンル」という境界線の力だから。</p>

<p>だから、book appによって生じる、キメラな本的なもの、に対して、従来の出版関係者、あるいは、読者、は眉をひそめるかもしれない。私もその一人になる可能性は否定しない。それでも、そのヘンテコなものの出現可能性については信じてみたいと思うのだ。<br />
</p>]]>
        
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    <title>言説の闘技場としてのアメリカン・ジャーナリズム</title>
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    <published>2010-07-01T02:53:31Z</published>
    <updated>2010-07-01T02:55:26Z</updated>

    <summary>Elena Kaganの最高裁判事指名ヒアリングにあたって、現在のRoberts CourtがConservativeに過ぎるという指摘をし...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Elena Kaganの最高裁判事指名ヒアリングにあたって、現在のRoberts CourtがConservativeに過ぎるという指摘をしている記事について<a href="http://www.defermat.com/journal/2010/000818.php">昨日エントリーを書いた</a>。その際に、保守系のWSJは黙っていると記したのだが、案の定、黙っているどころか、デモクラット＝liberalはKaganのヒアリングを通じてRoberts Courtを非難している、と、逆に、WSJがデモクラットを非難する方向で記事を載せている。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703426004575338682461026458.html?mod=djemTAR_h">Confirmed: Hearings Aren't Pleasing Anybody</a><br />
【Wall Street Journal: July 1, 2010】</p>

<p>実はこの記事、もともとは“Democrats Use Kagan Hearing to Criticize High Court”というタイトルであった。最初にメールニュースで配信されてきた記事を見たときはこのタイトルで、実は記事自体ももっと長く、デモクラットがKaganのヒアリングをだしにしてRoberts Courtを非難している、と批判し、あからさまに党派色の強い記事になっていた。</p>

<p>昨日の今日でちょうどいい対比になると思ってブログに書こうと思ってもう一回見に行ったら、上のように、大分穏便な記事になっていることに驚いた。WSJの記事はこういう具合に、時々、筆圧が強い、というか、勢いで書いてしまったものがそのままアップされて、しばらくしたらいろいろと修正されていたりする。この記事のそのケースに当てはまる。</p>

<p>それでも、liberal = NYT、conservative = WSJ という枠組みは知るにはいい例のように思う。このように、アメリカのジャーナリズムは、互いにかなり党派制を出して、良くも悪くも、公論や国論を「二分」しようとする傾向がある。この傾向は昔からあったわけではなく、80年代以降、conservative系のメディアが増えてきてから顕著になってきた。</p>

<p>ある意味で、実際の政治はleftとかrightとか関係なくcenterを歩むことが求められるのが現実的になってきている時代において（なぜなら、center志向であるindependentが選挙におけるキャスティング・ボートを握るから）、言説のレベルでは、むしろ、right/left, conservative/liberal、という具合に対立が鮮明になっている。いわばシャンタル・ムフあたりがいう「闘技的民主主義」を地で実践しているようなところがある。</p>

<p>言説としては二極（bipolar）であることを維持することで、言説上＝空想上は複数想定可能だが、現実的には、最終的にはある時とある場所で一つしか選べない選択肢について、選択上のギリギリのところ＝臨界点を明らかにし続けることが可能になる。選択上の問題点を「二極」を維持することで明らかにすることができる。</p>

<p>裏返すと、アメリカのジャーナリズムメディアはcenterやneutralという立場が取りにくくなってきていることも確か。ちょうどLarry Kingの降板が伝えられているCNNなど、MSNBC = libera/left/Democrat と Fox News = conservative/right/GOP との「二極」の間で取り残される形で視聴率が落ちてきたというのがここ数年のトレンドだった。</p>

<p>ただ、急いでつけ加えると、二極になっているからといって、MSNBCやFox Newsが、プロパガンダ的な、扇動的な伝え方をしているかというと必ずしもそうではなくて、一応、事実と主張は混同させない形で論じられている。つまりargument=立論がきちんとなされている。</p>

<p>なお、しばしばFoxについては扇動的だという非難が起こるが、結局のところ、それはFoxに対立する立場＝liberal/leftの人たち（ジャーナリストを含む）が主張しているものだから、それを全面的に肯定するというのも公平さに欠けるだろう。</p>

<p>だから、大事なのは、闘技的な二極構造が言説レベルで維持されていて、その対決＝競合環境が、ここぞという時の選択肢に対して、問題を臨界点にまで顕わにした議論を可能にさせている、というところだと思う。</p>

<p>裏返すと、客観報道とか不偏不党とかとは異なるところに、アメリカのジャーナリズムは自らの価値や（職業）倫理を置いているように思う。議論を通じて「本当の問題点」を炙り出していくところに存在意義を見いだしているというか。もちろん、「本当の問題点」は対立する立場では当然異なるが、しかし「本当の～」を希求するという価値は共有している（この点を放棄したら、単なるadvocacy＝活動家になってしまう）。こういうところにアメリカのジャーナリズムの矜持があるように感じる。</p>]]>
        
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    <title>The Roberts Court の時代</title>
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    <published>2010-06-30T08:20:06Z</published>
    <updated>2010-06-30T08:22:50Z</updated>

    <summary>ちょうどElena Kagan が最高裁判事指名に対するヒアリングを連邦議会上院で受けている最中に、現在の最高裁の傾向についてまとめる記事が...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>ちょうどElena Kagan が最高裁判事指名に対するヒアリングを連邦議会上院で受けている最中に、現在の最高裁の傾向についてまとめる記事が出ている。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/06/30/us/30scotus.html?ref=politics">The Roberts Court Comes of Age</a><br />
【New York Times: June 30, 2010】</p>

<p><a href="http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/06/29/AR2010062905209.html">Roberts led Supreme Court through assertive term</a><br />
【Washington Post: June 30, 2010】</p>

<p>いずれも現在の最高裁トップであるJohn G. Roberts判事の影響か強くなってきたこと、また、liberalとconservativeで判事の意見が割れそうな裁判についてRoberts判事の判断がキャスティング・ボートを握る場面が増えてきていることを指摘している。その意味で「Robertsの最高裁」が形成されてきているという。</p>

<p>Roberst Courtでは、選挙資金について企業の献金の上限を設定するのは「表現の自由」にもとるという判断をしたり、銃の所有についてもそれを認める方向の判断をしたりと、どちらかといえばconservativeと取られる方向で判断が定められることが増えてきている。</p>

<p>冒頭に記したようにちょうど今Kaganのヒアリングをしているわけだが、そこではliberarl色を減らしてできるだけmoderateな人物であるという印象を醸成しようとKaganは試みている。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/06/30/us/30kagan.html?ref=politics">Kagan Follows Precedent by Offering Few Opinions</a><br />
【New York Times: June 29, 2010】</p>

<p><a href="http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/06/29/AR2010062900840.html">Kagan makes bipartisan appeal in Supreme Court confirmation hearings</a><br />
【Washington Post: June 30, 2010】</p>

<p>こうした状況を考えると、むしろRoberts Courtそのもののconservtativeな傾向性を指摘することで、最高裁全体でバランスを取るためにKaganのような人物を認めようではないか、と指し示しているようにも見えてくる。ちなみにマードックに買収されて以後、conservativeへの傾向性が目立つようになったWSJではRoberts Courtのことはとりあげられていないようだ。</p>

<p>多様な価値軸が乱立しているアメリカでは、最高裁の判断は、そうした価値軸の重心がどこにあるのかを指し示す意味で重大な社会的役割を果たしている。Roberts Courtの重心が奈辺にあり、その重心をKaganがどの程度バランスさせるのか。そのような発想で上の記事を読んでみるのは頭の体操になる。</p>]]>
        
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    <title>雑誌Rolling Stoneの復活</title>
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    <published>2010-06-29T11:15:16Z</published>
    <updated>2010-06-29T11:18:41Z</updated>

    <summary>ハードな政治問題について果敢な分析記事（時に告発記事）を立て続けに扱うことで、雑誌Rolling Stoneの人気が復活しているという。 A...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>ハードな政治問題について果敢な分析記事（時に告発記事）を立て続けに扱うことで、雑誌Rolling Stoneの人気が復活しているという。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/06/28/business/media/28stone.html?ref=media">A Magazine Back on a Roll</a><br />
【New York Times: June 27, 2010】</p>

<p>60年代から70年代にかけてのカウンターカルチャー全盛時に、当時の若者の不満を代弁した同誌だが、その後の80年代、90年代にかけては往年の輝きを失っていた。とりわけ90年代のビル・クリントン時代には、クリントン自身がベビーブーマー世代ということもあり、いわばカウンターカルチャー自体がメインストリームの中にとけ込んでしまい、すっかりヌルくなってしまっていた。</p>

<p>そうした状況は、911とその後のブッシュ時代にひっくり返された。再び政治の時代になり、再びリベラルが巨悪を暴くというフレームが復活した。そうした時代環境の中でRolling Stoneは再び注目を集めるようになっている。</p>

<p>実際、上の記事にあるように、アフガンや金融危機については告発に近い形のprovocative（議論喚起的）な記事を続々と掲載している。Matt Taibbiというジャーナリストに、Goldman Sachsに関する政府との関わり、あるいは、NYとDCの繋がりについては、挑戦的な記事を書かせていた。</p>

<p>こうした編集方針もあって、週刊誌が低迷している時代にあって、発行部数を伸ばすまでに至っているという。どうやら、隔週誌という形態も、中身のある分析記事を掲載し、かつ、その記事が文字通りprovocativeな状況を生み出すのに十分な「タメ」の時間を作っているようだ。隔週誌が好調というのはVanity Fairにも当てはまっているとのこと。</p>

<p>中身がある分析記事を記せば読者はついてくる、といえばそれまでだが、実際はそれほど簡単ではない。アメリカにおいて政治的な話題がクリティカルになっていること、個々の話題が2年ごとに直接的に選挙の争点にもなりうること、話題の流通はウェブを通じてあっという間に広まること。こうした状況の中で、タイムリーに、しかし、読者に訴える記事を書いていく。編集者もジャーナリストも相応のリスクを覚悟していることは間違いないと思う。</p>

<p>その一方で、記事として伝えられる中身の深刻さだけでなく、それらが、読ませる記事になっていることも確認しておくべきだろう。Rolling StoneにしてもVanity Fairにしても、件の政治的な記事を載せながらも、より通俗的な、ゴシップ的な記事も同時に扱っている。そういう読書環境の中で、読み応えのある文章で、分析的記事を扱う。ある意味で文芸ジャーナリズムに近いことをしている。もちろん、扇情的な挿絵込みの記事なので、決して上品とはいいきれないが（特にRolling Stone）、しかし、その分力はある。</p>

<p>議論を着火させるという点でRolling StoneやVanity Fairの動きはウェブ時代だからこそ注目する意味があると思う。</p>]]>
        
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    <title>NYU, Venture Capital を組成し起業促進へ</title>
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    <published>2010-06-28T11:45:28Z</published>
    <updated>2010-06-28T11:46:42Z</updated>

    <summary>New York University（NYU）が学内に2000万ドルのVenture Capital fundを立ち上げ、R&amp;Dからの起業...</summary>
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        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>New York University（NYU）が学内に2000万ドルのVenture Capital fundを立ち上げ、R&Dからの起業を促す。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704569204575329692106711952.html?mod=WSJ_Tech_LEFTTopNews">NYU Plans Tech Fund</a><br />
【Wall Street Journal: June 28, 2010】</p>

<p>NYUはまず200万ドルを用意し、残りの1800万ドルはこれから出資者を募るようだ。ITやバイオの分野のスタータップに対して10万ドルから100万ドルの規模で出資を行う予定だという。</p>

<p>大学がVCを組成する動きは他所でも出ており、上の記事ではthe University of Wisconsin,やPurdue University などが紹介されている。前者は州立大学、後者は私立大学なので、公立・私立の分け隔てなく始まっていると思ってよい。</p>

<p>話の流れとしては、先日New York CityとColumbia University とともに参加したNYC Media Lab に対して、NYUが具体的に貢献するための手段として今回のVCが出てきたようだ。NYC Media Lab は、大学の研究機関とメディア企業やテクノロジー企業との間の協働を目指している。</p>

<p>NYはテクノロジーの街としては今ひとつな印象があったのだが、Web 2.0以後の、ソフトウェアが中心になった状況ではむしろNYの人的密度が上手く機能するようになってきており、たとえば、最近ではfoursquareの起業が見られたりするようになっている。NYC Media Lab はこうした動きを加速させようとするもののようだ。もちろん、New York Cityが関わっているところから、起業→成長、という流れで、NYCでの雇用を増大させようとする意図はある。</p>

<p>お金の回し方にしても、起業支援のあり方にしても、NY的な感じがする。NYUだけでなくNYC Media Lab も含めて今後の動きに注目したい。</p>]]>
        
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    <title>Google, Viacomにまずは勝訴</title>
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    <published>2010-06-27T00:00:13Z</published>
    <updated>2010-06-27T00:04:31Z</updated>

    <summary>Google(YouTube)に対してViacomがコピーライト侵害で訴えていた訴訟だが、一審である連邦地方裁での判決はGoogleの勝訴と...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Google(YouTube)に対してViacomがコピーライト侵害で訴えていた訴訟だが、一審である連邦地方裁での判決はGoogleの勝訴となった。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/06/24/technology/24google.html?ref=technology">Judge Sides With Google in Viacom Video Suit</a><br />
【New York Times: June 23, 2010】</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704629804575325191988055312.html?mod=WSJ_Tech_INTL_LSMODULE">Google Wins Key Copyright Ruling</a><br />
【Wall Street Journal: June 23, 2010】</p>

<p>Google(YouTube)はViacomがコピーライトを有する作品から利益を搾取している、という理由で三年前にGoogle(YouTube)に対してViacomは訴訟を起こしていた。これに対して連邦地裁の判断は、Google(YouTube)はDMCA（Digital Millennium Copyright Act：アメリカのデジタルコピーライト法）にある"safe harbor"に該当するため、コピーライト法違反には当たらない、という判断をした。</p>

<p>一審の判決なのでViacomは提訴する方向にある模様。</p>

<p>今回の判決に対してはインターネット企業は安堵しメディア企業は難渋する、というのがわかりやすい見方と思われるかもしれない。しかし、Viacomの提訴から三年の間に、インターネットの利用環境も変わっている。</p>

<p>わかりやすいところでいえば、iPadの登場によって有料コンテント配信が「公式」に始まりつつある。CGMの土台となるSNSについてはFacebookが数億人の登録ユーザ数をもつまでになった。マイクロペインメントに対する技術開発も鎬が削られている。</p>

<p>状況は常に動いている。技術もユーザー利用も三年経てば三年分変わる。三年立てばChris Andersonの“FREE”も出てくる。事態は推移する。</p>

<p>こうした現実の事実化によって、「インターネットはクリエイティブ産業の浮沈に関わる」というViacomに代表される見方も、では、その当のクリエイティブ産業とは誰を指すのか、どこまでを指すのか、という疑問を惹起しないではいられない。</p>

<p>こういう時、個人的にいつも思い出すのは、日本でプリクラが登場した頃の話として、某有名タレント事務所はお抱えのタレントの映像提供にナーバスになったけれど、その一方で、当時売り出し中の事務所のタレントは真っ先にプリクラに画像提供をしていたこと。その売り出し中のタレントは、その後、テレビドラマなどにも登場して人気を博していた。</p>

<p>つまり、人気＝有名性の獲得や制御こそが、クリエイティブ産業のビジネスの本質で、その根底にあるのは、結局のところ、ユーザー＝ファンへの浸透と支持の調達、ということになる。ありていにいえば、お客さんが大事、ということ。</p>

<p>もっとも、ラディカルな立場として、有名性ではなく匿名性、つまり匿名的集合制作物がコンテント制作のフロンティアだ、というものもある。実際、MADに代表されるサンプリングやそれへのコメントを含めた創作行為が事実性を帯びているのも確か。</p>

<p>そう考えると、現実的には、有名性、匿名性、の二つの道が明らかになってきている、という捉え方をざっくりとしておけばいい。そして、いずれにしても、利用者の支持や支援、が最初の要素になる、ということだろう。</p>

<p>さて、仮にViacomが上訴した場合、二審までの間にそれ相応の時間が過ぎることだろう。その近未来の事実性は、Viacomにプラスに働くのか、マイナスに働くのか。そうした視点でこの裁判の続きを気にかけたい。</p>]]>
        
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    <title>WEBRONZAの一件で考えたこと</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000802.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.802</id>

    <published>2010-06-25T06:18:02Z</published>
    <updated>2010-06-25T06:19:57Z</updated>

    <summary>WEBRONZAというサイトからリンクを当サイトに張られた件については、前のエントリーで記した。追記で書いたとおり、今ではリンクは解除されて...</summary>
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        <category term="COMMENTARY" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>WEBRONZAというサイトからリンクを当サイトに張られた件については、<a href="http://www.defermat.com/journal/2010/000801.php">前のエントリー</a>で記した。追記で書いたとおり、今ではリンクは解除されている。</p>

<p>ただ、担当者とのやりとりで気になったことがいくつかある。いずれも今回の件に止まらない要素を持っているように思うので、いい機会だから記しておこうと思う。</p>

<p>一つは、最初のメールで、リンクを張るが問題があれば言って欲しい、という趣旨で、フリーリンクならびにオプトアウトの発想でメールが書かれていたこと。</p>

<p>フリーリンクというのはリンクを張るのは原則自由、ということ。オプトアウトというのは、デフォルトで適用されることが決まっており、適用を望まない方が望まない旨、声を上げるなり、手続きを自力でするのが、正当な手順になる、ということ。</p>

<p>つまり、このルールに則ると、リンクを張られた側が張られた後にそのリンクを取り下げる要求をしなくてはいけない、ということになる。</p>

<p>もちろん、個人利用のブログの間でなら、リンクやトラックバックの形でこういうことは普通だし、とやかく言うものではないと思うのだが、しかし、同じ原則を新聞のような言論機関を自称するところが無自覚に前提とするのはどうなのか、素朴な疑問は生じる。</p>

<p>今回の例に則していえば、WEBRONZA(朝日新聞)のような大新聞（読売に次ぐ発行部数第二位の新聞だからこう呼んでもおかしくはないだろう）が、多くは個人が個人の資格で書いているブログをとりあげるという時点で、両者の間に言論提供者としては非対称な関係が生じている。</p>

<p>したがって、この非対称な関係において、フリーリンクとオプトアウトの原則が無限定に採用されると、個人でブログを書いている人、あるいは、フリーのジャーナリスト、ライター、の側が、オプトアウトを実行しなければならなくなり、いささか厳しいのではないか、と思う。</p>

<p>こうした非対称性を新聞記者の人たちはどうも忘れがちなのではないか。</p>

<p>こう書くのは、当方がリンクを外して欲しい旨を伝えたことへの応答として、「FERMATサイトは内容が充実しているから紹介したかったのに残念」というように、あたかもこちらがリンクを外して欲しいと伝えたことの方に問題があった、という書かれ方をされたためだ。</p>

<p>端的に、論点がすり替えられている。</p>

<p>自分が書いているものを褒められて悪い気がする人がいるはずはない。だから、ポイントは、あくまでも、事前に相談をしてもらえなかったところにあった。</p>

<p>こう書いている私だが、過去の経験で何回か新聞記者に取材を受けたことがあり、その都度、あまりいい思いはしなかったということを記しておく。取材はあくまでも「タダ＝無料」であり、取材結果については、「表現の自由」があるから事前にどのような内容なるかは取材された側が知ることはできない。この原則が、新聞記者の場合はわりと厳格に適用される。他方、雑誌記者やライター、編集者はもう少し「人情味のある」対応をする。結局のところ、取材対象との関係性を持つ期間の長短が、そうした「相互信頼」の関係の醸成の程度を決めるのではないか、というのが個人的な経験から得られた実感だ。だから、ほぼ一見さんで終わるような取材対象に対して記者の立場は原則的に強くなる。</p>

<p>こうした原則的な関係性と、フリーリンク×オプトアウトの原則は、記者にとっては相性のよいもののように思える。それゆえ、扱いが難しいのかもしれない。</p>

<p>いずれにしても、「事前に話があれば」上記のように思う必要はなかったわけで、その意味では、単純にビジネスルールの問題だといってもいいのかもしれない。</p>

<p>*</p>

<p>もう一点気になったのは、これは、むしろ、フリーリンクの方と関わる話になるが、「一体どういう文脈で自分のサイトが紹介されるのか」はやはり気にかかる。</p>

<p>あえていえば「紹介のされ方」で、この点は事前に相談を受けていればかなり詳細に聞いた点だと思う。要するに、編集方針に関わるところだ。</p>

<p>自分で文章を書く人は多分多くの人がそうだと思うが、やはり読んで欲しいタイプの人はいる。その一方で、できれば読んで欲しくない人も当然いる。こういう読者層の選択や、その裏返しとしての、読者層にあわせた書き方、というのは、広くコミュニケーションを考える人たちは第一に気にかけているところではないかと思う。</p>

<p>相手によって言うことや言い方、書くことや書き方、は当然変わるのだ。</p>

<p>どうも、こうした所作が、ウェブ登場以後のアグリゲーションが当たり前の状況下で、だいぶなおざりにされているように思う。あえていえば、鈍感、になっている（そして、だからこそ、多くの書きものがつまらなくなっているのではないかと感じている）。</p>

<p>その意味で、文脈を常に逸脱させうるフリーリンクというのは私は苦手だ。もう少しタメがあってもいいのでないかと思う。そして、このフリーリンクという発想は、なんでもいいからPVが取れればいい、という点で、実はとてもマスメディア、それも、新聞やテレビの発想に近いものだと感じる。中身は問わない、レートがとれればいい。発行部数がかせげればいい。しかも数百万単位で。</p>

<p>もしも私の書いたものがリンクされるのであれば、どういう企図で選択されたのか、その説明は事前に欲しいと思う。どういう人が、どういう文脈で読むのか。</p>

<p>なぜなら、Botが何かを書いているわけではないから。</p>

<p>*</p>

<p>終わったことをくどくどと書いたのは、今回の一件は、単に連絡ミスということでなく、それ以上にウェブや新聞一般についても当てはまる問題点を含んでいたように思うからだ。</p>

<p>その意味では、こうしたことを実感させてくれたWEBRONZA担当者の方にも感謝したい（これは皮肉でありません、念のため）。</p>

<p>なにか根深い問題が潜んでいるように思える。それはこの国においてアメリカのようなウェブ・ジャーナリズムが生まれてこないこととも奥底で関わっていることのように思える。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>【お知らせ】　WEBRONZAとは関係はありません</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000801.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.801</id>

    <published>2010-06-25T01:00:31Z</published>
    <updated>2010-06-25T04:34:23Z</updated>

    <summary>6月24日にWEBRONZAというサイトがスタートし、そのトップページの下段にある「注目のブログ」という欄に、本ブログ（FERMAT - C...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>6月24日にWEBRONZAというサイトがスタートし、そのトップページの下段にある「注目のブログ」という欄に、本ブログ（FERMAT - Communications Visionary-）が他の四つのサイトとともに紹介されているのですが、当方、これは昨晩（6月24日夜）、WEBRONZA担当者からメールではじめてリンクを張った旨、伝えられました。</p>

<p>事前に全く連絡はなく、既にリンクを張った後にメールで通知された次第です。</p>

<p>したがって、WEBRONZAがどのようなサイトなのか全くわかっていません。</p>

<p>有料サイトということのようですが、少なくとも当方とはリンクによる金銭の授受は一切ありません。</p>

<p>事情もわからないまま、有料サイトのトップページからリンクを張られるのは得心がいかないので、とりいそぎWEBRONZA担当者にはリンクを外して欲しい旨メールで昨晩返信しました。</p>

<p>（6月25日午前10時00分現在、リンクはまだ維持されています。）</p>

<p>以上、事情の説明のために記しておきます。</p>

<p><br />
****</p>

<p>追記</p>

<p>WEBRONZA担当者からリンクを外した旨、連絡が来ました。</p>

<p>6月25日午後1時30分現在、リンクが外れているのを確認しました。</p>]]>
        
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    <title>11月の中間選挙に向けた、GOPの変質？</title>
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    <published>2010-06-23T06:42:32Z</published>
    <updated>2010-06-23T06:44:07Z</updated>

    <summary>11月に行われるmid-term election（中間選挙）で、South CarolinaのGOP（共和党）からのGovernor（州知...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>11月に行われるmid-term election（中間選挙）で、South CarolinaのGOP（共和党）からのGovernor（州知事）の候補に、インド系女性で州議会議員を務めているNikki Haley が選出された。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/06/23/us/politics/23elect.html?src=twt&twt=nytimes">Nikki Haley Is Winner in South Carolina Runoff</a><br />
【New York Times: June 22, 2010】</p>

<p><a href="http://voices.washingtonpost.com/thefix/governors/nikki-haley-wins-south-carolin.html">Nikki Haley wins South Carolina primary, Rep. Bob Inglis loses</a><br />
【Washington Post: June 22, 2010】</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704853404575323523669539524.html?mod=WSJ_WSJ_US_PoliticsNCampaign_2">South Carolina's GOP Voters Take Fresh Tack</a><br />
【Wall Street Journal: June 22, 2010】</p>

<p>South CarolinaはGOPに傾斜した州なのでHaleyが首尾よく選挙に勝った場合は、South Carolinaとしては初めての女性州知事、全米では二人目のインド系州知事になるという。</p>

<p>そういう意味ではHaleyが候補になったことはやはり驚くべきことだ。<br />
なんといっても、</p>

<p>南部＝South Carolinaで、<br />
マイノリティ＝インド系の、<br />
女性が、<br />
GOP推薦の<br />
州知事候補</p>

<p>になったわけだから。</p>

<p>George W. Bush大統領の頃は、南部でGOPといえば宗教右派が中心勢力だった。つまり、白人のプロテスタントが中心の支持者で、それは主にマイノリティの権利拡大（いわゆる公民権運動）に対するノーが政治的には動員の動機として活用されていた。マイノリティの支持者はもっぱらデモクラット、というのが相場だった。</p>

<p>ところが、Obama大統領の登場からそういうわかりやすい対立構図だけでは選挙には勝てないということが明らかになってきた。宗教右派の行きすぎに対してGOPの中の穏健派の支持者であった層がindependentに展じObamaに投票したから、というのが2008年の大統領選挙の結果を非常に単純に説明するものだ。</p>

<p>浮動票となるindependent（概ね中道支持者）をどうつかみ取るか、また、FacebookやTwitterがコミュニケーション＝動員ツールとして活用される状況では、わかりやすい言葉だけでは支持を継続させることはできない。ある程度の長さと密度を維持できるコミュニケーション回路の下では、言葉の強さだけではなく理性的な要素も必要になってくる。端から見るとGOPが急激にマイノリティや女性の候補者に対して寛大になってきているように見えるのも、それくらいの「細やかさ」は、理性的であることを装う上でも、実際の支持を取り付ける上でも重要だということになったということだろう。</p>

<p>今回のNikki Haley の予備選勝利もそうしたアメリカの政治状況＝選挙環境の変質を表すものと捉える方がよいと思う。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>スマートフォンはカメラではない</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000796.php" />
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    <published>2010-06-23T05:44:50Z</published>
    <updated>2010-06-23T05:48:52Z</updated>

    <summary>デジタルカメラ機能が装備された携帯に対して、デジタルカメラ業界が自分たちこそがカメラであると主張する広告キャンペーンを展開しているという。 ...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>デジタルカメラ機能が装備された携帯に対して、デジタルカメラ業界が自分たちこそがカメラであると主張する広告キャンペーンを展開しているという。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704853404575322794209091082.html?mod=WSJ_Tech_LEFTTopNews">The Best Shot: Cell or Camera?</a><br />
【Wall Street Journal: June 23, 2010】</p>

<p>キャンペーン自体はたわいのないものだが、ちょっと面白いと感じたのは、スマートフォンのような融合商品＝ガジェットが出てくるときに、わざわざ「呼び出し音がなるならそれはカメラではない」というように、商品のアイデンティティを正面から確認するような表現を展開するところ。そうやって、商品カテゴリーの「維持」に力を入れる。</p>

<p>認識が商品を構成する、という具合に、何が特定の商品カテゴリーを形成するか、に注力し、その縁取りを言葉を活用することで明確にしていく。非常に微妙な感覚なのだけど、こういうところはとてもアメリカ的だなと感じる。商品のスペック的なものの拡張と、それを一つのイメージに閉じ込める言葉＝概念、との間できちんとバランスを取ろうとする。</p>

<p>そういうことを日頃しているからこそ、逆に、iPadやKindleのような従来カテゴリーからはみ出してしまうような商品を「コンセプト」レベル＝言葉として創り出してしまって、その言葉の指し示した方向に具体的な商品を象ってしまう。裏返すと、「コンセプト」という言葉が文字通り商品の概要をイメージさせるものとして立ち上がることになる。</p>

<p>日本ではコンセプトというと、何か関係者を納得させたり、その前段階として理解を調達するための「お手軽な方便」として利用されることの方が多いと思うが、そういう使われ方はしない、ということだと思う。もっといえば、日本での商品開発の多くは、言葉が何かを生み出すことはまれで、むしろ、スペックアップやユーザーの声という事実性がなし崩し的に商品の開発方向を何となく指し示してしまうように感じる。</p>

<p>もっとも、上のWSJの記事が比較しているのは、ソニー・エリクソンの携帯電話とパナソニックのデジカメだから、むしろ、日系企業が北米で広告コミュニケーションしようとするとこんな感じになる、という理解をする方が適切なのかもしれない。</p>

<p>ただ、認識が商品をつくる、その認識のために言葉を選択する、というベタなことをベタにやれるところがアメリカ的だという見方はいろいろと有効な見方ではないかと日頃感じている。むしろ、そのフレームがあったからこそ上の記事が目にとまってしまったのかもしれない。</p>

<p>「命名する力」を信じ活用する、といってもいいのかもしれない。</p>]]>
        
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    <title>FCCのインターネットへのアプローチ</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000785.php" />
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    <published>2010-06-20T02:20:32Z</published>
    <updated>2010-06-20T02:23:44Z</updated>

    <summary>FCCにおけるインターネットの位置づけを変更し、FCCが規制できるようにする。その方向にFCCは舵を切るようだ。 FCC Split as ...</summary>
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        <name>junichi ikeda</name>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>FCCにおけるインターネットの位置づけを変更し、FCCが規制できるようにする。その方向にFCCは舵を切るようだ。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704289504575312742566475122.html?mod=WSJ_Tech_LEFTTopNews">FCC Split as It Launches Internet Regulation Effort</a><br />
【Wall Street Journal: June 18, 2010】</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/06/18/business/18fcc.html?ref=technology">F.C.C. Moves to Expand Role in Broadband</a><br />
【New York Times: June 17, 2010】</p>

<p>具体的には "a lightly regulated information service" から "a telecommunications service" へとインターネットの位置づけを変える。そうして、従来の電話網と同様に公益性の高い事業としてFCCの監督下に置くようにしようとする。</p>

<p>もっとも「FCCの意思」といっても、意思決定機関である委員会の投票で3対2で決定したので、FCCの外部での議論はしばらく尽きないと思われる。というのも、3対2という投票結果が、結局のところ、デモクラット対GOP（民主党対共和党）と党派的に分かれたから。ただし、こうした分断はFCCではそれほど珍しいことではない。</p>

<p>党派的に分かれてしまった以上、FCCの外部でも同じく党派的に本件が議論されることは間違いないだろう。既に連邦議会の担当委員会で法改正を含めて検討する動きもあるようだ。</p>

<p>FCCは表向きはindependent commission（独立行政委員会）、すなわち大統領府所属の各省（国務省や財務省など）とは一線を引いた存在で、議会の監督の影響は強い。その一方で、意思決定機関であるcommissionの委員らの任命権は大統領にある。そのバランスを取るためのルールの結果、5人の委員は3対2に分けられる。したがって、FCCは、ホワイトハウス対連邦議会、デモクラット対GOP、という対立軸を抱え込みがちになる。</p>

<p>しかもメディアや表現に関するテーマが多いため、ジャーナリズムやアドボカシーグループからの意見も多くなる。</p>

<p>ということで、本件は長丁場の議論に転じるのではないかと思う。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>世界が求めるfrugal innovation</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000781.php" />
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    <published>2010-06-18T08:04:35Z</published>
    <updated>2010-06-18T08:48:21Z</updated>

    <summary>技術革新の矛先が変わったようだ。 In praise of techno-austerity 【The Economist: June 10...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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        <category term="COMMENTARY" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>技術革新の矛先が変わったようだ。</p>

<p><a href="http://www.economist.com/node/16321516?story_id=16321516&source=hptextfeature">In praise of techno-austerity</a><br />
【The Economist: June 10, 2010】</p>

<p><a href="http://www.economist.com/node/16295708">Power from thin air</a><br />
【The Economist: June 10, 2010】</p>

<p>上のEconomistの記事にもあるように、技術開発の成果を単線的に埋め込んでいくだけの、スペックアップだけが目標とされる、従来の商品開発の発想はこれからの時代では通用しない。</p>

<p>また、マーケットインの発想と言いながら、当該商品の最大のヘビーユーザーでその商品の「ファン」であるような開発者が提案するような「マーケティング」発想もここでは通用しない。</p>

<p>ファンとは自己愛を当該商品に投影し自らの有り様をその商品に合わせるような人であり、そこにはファンと商品との間で鏡像的な関係を築くばかりである。もっぱらPOSデータから得られる情報を元に商品開発を行うことが当たり前になった現代日本では、断片的に得られたデータを「最も商品に適合的に」統合することのできる、商品のことがよくわかった人物が重宝される。それには、その商品の利用を通じて成長した社員が最も有益だ。ここにおいて、マーケットインの発想は、当該商品のファン＝社員の商品愛が投影された商品となる。つまり、商品で育った人々が商品の愛好者としてその商品の「世代交代」を行うことになる。この点は日本だけに限らない。先進国共通に見られる傾向だ。</p>

<p>だが、こうした「マーケットインの開発」は、Economistが伝えるfrugal innovationの時代には機能しない。端的に、そこには、その商品を知らない、あるいは、その商品を（経済的に）保持できない、しかし、その商品が提供する機能や役割を求める人たち、つまり「他者」に対する想像力が必要となるからだ。その意味で単なるマーケティングとは別次元の発想が求められるようになる。</p>

<p>G20のサミットを目前にして考えさせるテーマだ。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>NPRとジャーナリズムの未来</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000780.php" />
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    <published>2010-06-17T06:32:52Z</published>
    <updated>2010-06-18T08:39:14Z</updated>

    <summary>D8 ConferenceでNPRのCEOであるVivian Schiller がインターネット・ラジオについて語りながら同時にジャーナリズ...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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    </author>
    
        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>D8 ConferenceでNPRのCEOであるVivian Schiller がインターネット・ラジオについて語りながら同時にジャーナリズムの未来について語っている。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704764404575287070721094884.html">Why Online Won't Kill the Radio Star</a><br />
【Wall Street Journal: June 7, 2010】</p>

<p>なお、Vivian Schiller については以前に次のエントリーを記している。ご参考まで。</p>

<p><a href="http://www.defermat.com/journal/2009/000386.php">次代のジャーナリズムの星？としてのNPR</a></p>

<p>NPRという非営利法人の利点を最大限生かして、現在劣勢に立たされている既存のメディアやジャーナリストとの間で連携を組もうとしている。端的に言って、20世紀のジャーナリズムは大衆消費社会の回路と上手く組むことで経済的基盤を気付くことができた。その回路はウェブによって再編されようとしている。その移行期においてはNPRのような存在が一種の駆け込み寺のような機能をしばらくは引き受けるということなのだろう。その過程で、ジャーナリズムを再度作り直すことが行われていくことになる。</p>

<p>ジャーナリズムと言った場合、実は同床異夢ともなるような様々な意味合いがある。日常の報道から調査報道まで、一般的に「社会的出来事」と思われているものの進捗について知らせる。そこでは、大きな意思決定に関わるような「政治関連」の記事、あるいは、人々の日常生活に影響を与える経済現象ならびにそれへの対処法などの「経済関連」の記事がある。これらは「知りたい」というよりは「知らないと意思決定に携われない（携わった気がしない）」というものだ。もちろん、この他には「何となく知りたい」と思うような趣味的なものに関わるものもある。</p>

<p>こうした何となくいままで一緒くたにされてきたものが、一旦ばらばらにされ、それぞれの流通を必要とする人々によってファイナンスされるような方向を目指すことになるのだろう。そして、そのための移行場所としては「人々に広く情報を届ける」ことを社是とするNPRのような存在が機能することになるのだと思う。</p>]]>
        
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    <title>D8のSteve Jobs</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000779.php" />
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    <published>2010-06-02T13:54:10Z</published>
    <updated>2010-06-03T10:53:06Z</updated>

    <summary>Steve JobsがWall Street Journalのデジタル欄であるAll Things Digital主催のカンファレンスに登場...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Steve JobsがWall Street Journalのデジタル欄であるAll Things Digital主催のカンファレンスに登場し、最近の一連のAppleの動きについて語った。<br />
 <br />
<a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703961204575281401946573926.html?mod=WSJ_Tech_INTL_LSMODULE">Apple's Jobs Takes On Rivals Adobe, Google</a><br />
【Wall Street Journal: June 2, 2010】</p>

<p><a href="http://d8.allthingsd.com/20100601/steve-jobs-session/">Apple CEO Steve Jobs Live at D8</a><br />
【All Things Digital: June 1, 2010】</p>

<p>発言のポイントは：</p>

<p>○AdobeのFlashを使わずHTML 5を採用したのはHTML 5が優れていると判断したからでFlashがHTML 5と遜色ない速度を示すようになったら是非見せて欲しいと伝えている、という。</p>

<p>「前に進もうと思ったら適切な馬を選ばないといけない。」「ユーザーもiPadを購入し利用することでAppleの判断を支持してくれている。」とのこと。</p>

<p>○Googleとの関係がぎくしゃくしたのはGoogleがmobile phoneのターフに侵入してきたから。とはいえAppleとしてはGoogleの独壇場である検索市場に出て行くつもりはない、という。</p>

<p>「検索はAppleが知悉する分野ではないし、あまりケアしてこなかった分野だ」とのこと。</p>

<p>○iPhoneの携帯通信パートナーであるAT&Tの接続の悪さについては、AT&Tの企業努力を擁護する一方で、他の無線通信キャリアとのパートナー化の可能性を臭わせた発言をしている。</p>

<p>○iPadによるメディアコンテント（新聞や雑誌）の掲載については、iPadが間に入ることで、電子新聞や電子雑誌として収益化が図れることを強調していた。電子コンテントについては「ブロガーの国」ではなく「編集監督が行き届いた」ものにしたいという。</p>

<p>つまり、玉石混淆の無秩序状態で結果的に収益を生むのが困難な状態にするのではなく、iPadが介入することで質の管理を行い収益化に結びつけることができるという。</p>

<p>この他に時価総額でAppleがMicrosoftを抜いたことについてのコメントもあったようだ。</p>

<p>総じて絶好調のAppleを象徴するような強気な発言が多かった。</p>

<p>*</p>

<p>一点、上のWSJの記事の記述として興味深かったのは「Adobeとの間でPublic Relationsの戦いをしている」という表現の部分。</p>

<p>このPublic Relationsという表現は、しばしば日本語訳として使われる「広報」という言葉よりも、文字どおり「人々の関係性（関係づくり）」という意味で取った方がわかりやすいこと。</p>

<p>つまり、PRと呼ばれるものは、アメリカにおいては、一方的な情報提供になりがちな「広報」ではなく、幾重ものコミュニケーションを「人々」との間で往復してやりとりすることで関係性を築くこと、というぐらいの意味になる。</p>

<p>そして、その対象がPublic＝人々であるのは、今のユーザーだけでなく、潜在的なユーザーを含むので「広く一般の人々」が対象になるわけだ。</p>

<p>より多くの人に知らしめて理解を得て、できれば賛同まで得る。</p>

<p>これはもっぱらデータマイニングによって特定のユーザーに対するターゲティングが当たり前になってしまって「広告」と好対照の役割ではないだろうか。不特定多数の人々に到達することを第一の目的とする。</p>

<p>であれば、実は一昔前までに言っていた「マス広告」というのは、これから先はむしろPublic Relationsが担うことになると考えるのはどうだろうか。ただし、そこではマス広告のように商品を伝えればいいわけでない。会社や会社の開発思想を語ることにある。そうした立ち入った会社の知恵や顔を作る機能は、PRを「広報」などと訳してわかったつもりになっている間はおそらくは果たすことができないだろう。</p>

<p>もちろん、このD8カンファレンスのような場にSteve Jobsのような企業トップが現れ肉声でAppleの魅力を語るのも、PRのための重要な表現機会の一つとなる。</p>

<p>だから、ただ単にJobsの受け応え方に痺れているだけではダメなのだ。こうした場でのプレゼンテーションのもつ含意そのものを、上述のように、コミュニケーション戦略＝PRの一環としてカウントし評価することこそを私たちは学ぶべきだと思う。</p>]]>
        
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    <title>Newsweekの売却先候補が徐々に明らかに</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000778.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.778</id>

    <published>2010-05-31T03:32:19Z</published>
    <updated>2010-05-31T03:34:09Z</updated>

    <summary>以前に記したように、Washington Post Co.はNewsweek部門の売却意向を公表した。徐々に買い手の候補があがり始めてきたよ...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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    </author>
    
        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p><a href="http://www.defermat.com/journal/2010/000770.php">以前に記したように</a>、Washington Post Co.はNewsweek部門の売却意向を公表した。徐々に買い手の候補があがり始めてきたようだ。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703957604575272581942971608.html">Newsweek Deadline Draws Near</a><br />
【Wall Street Journal: May 29, 2010】</p>

<p>上のWSJの記事で取り上げているのはTV Guideを所有するOpenGate Investment という投資会社。TV Guideはいうまでもなくテレビ欄を集約させた雑誌。OpenGate Investmentは投資会社なので基本的には転売目的でメディア資産を所有するに止まる。Newsweekを所有しても第一にそれは転売が目的になる。場合によると、TV Guideとあわせての転売もありえる。</p>

<p>買い手の候補としてもう一つ紹介されているのは、保守系の月刊誌であるNewsmaxを発行しているChristopher Ruddy氏。その場合、TIMEに比べればリベラルと言われていたNewsweekの誌面が最終的にどう変わるのか、という問題は生じる。つまり、Newsweekに今いるスタッフが離反するという可能性もある。</p>

<p>昨年McGraw-HillからBloombergに売却されたBusinessWeekは、編集方針が変わり、誌面構成や記事の書かれ方まで大幅に変わってしまったことを踏まえるとNewsweekにも同じことが起こる可能性は高い。</p>

<p>そのBloombergやFast Company、U.S. News & World ReportはNewseekには関心がない旨を公表しているようだ。</p>

<p>さしあたって、今週水曜が、買収希望者がその意向を示す期限ということなので、今週末までにはもう少し具体的な話が明らかにされることと思う。</p>

<p>NewsweekはTIMEと並び称される英語週刊誌として、私が中学や高校の頃、英語の教師に紹介されたことを思い出すと、その誌面が変わる可能性が大である今回の売却話にはいろいろと考えさせられることは多い。</p>

<p>まずは今週水曜以降の動きを気にかけておきたいと思う。</p>]]>
        
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    <title>Open-Source流の新薬開発</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000777.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.777</id>

    <published>2010-05-26T06:02:15Z</published>
    <updated>2010-05-28T09:12:56Z</updated>

    <summary>国際的な製薬会社大手のGlaxoが、新薬開発のためにOpen-Source流の、情報公開による協業体制を試みるという。 Glaxo Trie...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>国際的な製薬会社大手のGlaxoが、新薬開発のためにOpen-Source流の、情報公開による協業体制を試みるという。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703341904575266583403844888.html?mod=WSJ_Tech_RIGHTTopCarousel">Glaxo Tries a Linux Approach</a><br />
【Wall Street Journal: May 26, 2010】</p>

<p>Glaxoが公開するのはマラリアに対する研究成果やデータ。公開するに至ったのは、マラリアは、今日では、実質的には最貧国で頻繁に生じる病気であるためのようだ。他の新薬開発と同じようにクローズドの研究体制でパテントを得たとしても、先進国での販売のように、新薬の収益で研究開発費を回収し収益を上げるという道筋を付けることができない。それであるなら、いっそのこと、開発成果を公開し、関心のある研究者ならびに研究機関や、その成果を薬品として製造し必要な地域に頒布することを考えている政府機関やNPO/NGOの手に委ねた方が望ましいと考えたからのようだ。</p>

<p>Glaxoのデータは、三つのウェブサイトで公開され、そのうちの二つはアメリカと欧州の政府のサイトとなる。残りの一つは、シリコンバレーにある、Collaborative Drug Discovery Inc. (CDD)という会社のサイトだという。CCDは同じく製薬会社大手のEli Lilly & Co からのスピンオフで、Bill & Melinda Gates FoundationからとベンチャーキャピタルであるFounders Fundからの出資を受けている。いうまでもなく、Bill & Melinda Gates Foundationはマイクロソフトの創業者であるBill Gatesが設立したFoundationで最貧国の健康維持プログラムへの資金援助者としては世界有数の存在となっている。</p>

<p>WSJの記事によれば、このCDDのサイトは、Facebookに似たSNS的なサイトで、オラクル型のデータベースを用意しているという。そのサイトに登録したものは、Glaxoが用意したデータを無料で見ることができる。利用者が自分の手元になる公開不能の情報と組み合わせたい場合はその情報は非公開にすることもできる。</p>

<p>Glaxoとしては、このマラリアに関する公開データから生じた成果についてはパテントを取得するつもりはないという。そして、他の研究者もマラリアのようなneglected diseases（無視された病気）、つまり先進国を主要市場とする製薬会社が無視せざるを得ない病気の治療薬に関わるパテントについては、共同利用できるパテントプールに提供して欲しいと思っているようだ。</p>

<p>もっとも、その研究成果から、neglectされない病気、つまり、先進国でも十分販売可能な薬の開発に繋がるような成果が出た場合は、パテント取得のことも考慮に入れるかもしれないということで、この点は、今回のOpen-Source流の試みが継続されうるのかどうかを決める要素になると思われる。</p>

<p>*</p>

<p>元祖のOpen-Sourceでは、ソースコードに自由にアクセスできる代わりに、そのソースコードを用いて新たに出来上がった成果についても、同様に無料でのアクセスを保証することが求められていた。そういう意味では、最初にソースコードを公開した人の意思が大きく影響し、また、その精神に共鳴する人たちのみが成果を拡大させることができた。その裏返しとしてパテントという軛から解放されて、知的成果物の自由な交換ができる、というのがポイントだった。</p>

<p>Open-Sourceがfor-profitとソフトウェア会社と伍していく過程で、ソフトウェア自身には課金をせず、そのソフトウェアを使って特定のサービスを行う人たちに対して、その役務の対価を支払うタイプのモデルが考案されていった。ベンチャーとしては、LinuxベースのRed Hatなどがそうだし、大手企業ではIBMがそういう選択を行った。</p>

<p>つまり、Open-Source流と言うとき、ソフトウェアの世界では、道具としてのソフトウェアは無料だが、それを活用したアプリケーションやそこから生じるサービスについては対価が発生する、という、ある意味で、有料・無料の「ダブルスタンダード」が作り上げられていった。</p>

<p>おそらく、今回のGlaxoのケースも、こうした「ダブルスタンダード」を製薬業界においていかにして作り上げていくか、が課題になるのだろう。Neglected diseasesのような、少し前なら、南北問題として扱われていた圧倒的な経済格差の中で生じた問題が、Gates Foundationのような資金回収装置を介してようやく対処されるようになった、というのが現状だからだ。こうした活動原資が大口の財団に頼っている間は、自立してシステムが回っているとは言えないという意味で、Open-Sourceとは言えないことになるからだ。</p>

<p>とはいえ、今回のGlaxoの試みは、パテントに代表される知的所有権の扱いを国際的にどう調整するか考えていく上で、一つの具体的な試みになっていると思う。その上で、Open-Sourceという情報産業で生まれた流儀が、他の知識集約型のハイテクに本当に適用できるのかどうか、という試みでもある。つまり、情報産業の流儀がどこまで製造業に適用可能かという課題に対する試行錯誤のケースとなる。そういう高い視点からの検討も忘れないでおきたい。</p>

<p>*</p>

<p>しかし、それにしても、今回の動きではっきりしたのは、パテントはただ持っているだけでは何の意味ももたない、ということだ。具体的な製品に利用されてそれが相応の対価を市場で得られればこそ初めて「資産＝Asset」としての意味を持つようになる。裏返すと、商品にならないパテントはただの「知的成果」に過ぎない。商流なり金流なりのフローの中に呑み込まれてこそ金銭的価値が発生する。</p>

<p>ちなみに、GlaxoSmithKlineはイギリスの製薬会社。いうまでもなくイギリスとアフリカは浅からぬ歴史的繋がりを持つ。欧州とアフリカ、アングロサクソンとアフリカ、という歴史的文脈から本件を捉えることももちろんできる。その場合、他の欧州諸国以上に、アフリカで影響力を増す中国のことも関わってくる話なのだろう。</p>

<p>そういう具体的な文脈の中で、Open-Sourceというアイデアが異なる意味合いを持つようになる、というのもなかなか含蓄のあることだと思う。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>アメリカ連邦議会、96年通信法見直しへ？</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000775.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.775</id>

    <published>2010-05-25T04:51:32Z</published>
    <updated>2010-05-25T05:00:25Z</updated>

    <summary>アメリカでようやく96年通信法（Telecommunications Act of 1996）の改正の動きが出てきたようだ。 Communi...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
        <uri>http://www.defermat.com/</uri>
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        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>アメリカでようやく96年通信法（Telecommunications Act of 1996）の改正の動きが出てきたようだ。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/05/25/technology/25broadband.html?ref=technology">Communications Law to be Reviewed</a><br />
【New York Times: May 24, 2010】</p>

<p>発案者は連邦議会の上院・下院でそれぞれコミュニケーション産業分野を担当する委員会のリーダーである、John D. Rockefeller IV上院議員とHenry A. Waxman下院議員。それぞれ、上院のSenate Commerce, Science and Transportation Committee、下院のthe House Committee on Energy and Commerceの議長を務める。いうまでもなく二人ともデモクラット。</p>

<p>見直しのきっかけは、ここのところ問題になっていた、net neutralityを巡る裁判判決、ならびに、それを受けてのFCCの対応。</p>

<p>FCCがComcastに対してブロードバンドのトラフィックを使途別に制御するのはnet neutralityの原則にもとるという理由で変更命令を出したのだが、Comcastはそれに反論し法廷で裁判として争うことになった。この裁判は二審（連邦巡回裁判所）でComcastの勝訴となった。理由はFCCにそのような命令を行う権限はないというもの。</p>

<p>FCCは最高裁への上告をとりやめ、インターネット接続サービスの「分類換え（reclassification）」をして電話のようなユニバーサルサービスとして位置づけ、従って電話のように通信の内容には通信会社は関与しない、というコモンキャリアのルールを適用させること考えた。</p>

<p>ということで、インフラ会社（電話＋ケーブル）とFCCの間でいたちごっこが始まっていた。</p>

<p>（以前に書いた次のブログも紹介しておきます。</p>

<p><a href="http://www.defermat.com/journal/2010/000763.php">FCC vs 連邦裁判所：インターネット管理の権限の所在を巡る争い</a></p>

<p><a href="http://www.defermat.com/journal/2009/000557.php">FCCルールは裁判によって覆され得る： ケーブル会社Comcastのシェア上限規制の場合</a></p>

<p>）</p>

<p>今回の、連邦議会の担当委員会トップの議員の動きは、まずは、今後想定されうる混乱状況を回避するために議会も腰を上げるぞ、というメッセージだと思う。もともとFCCの動きも、オバマのホワイトハウスと連邦議会から発案されたNational Broadband Planという、全米にブロードバンドを整備しようという政策に呼応して始められていた。</p>

<p>もっとも、実際の法案審議は11月の中間選挙以後ということになるだろうから、今、この話題が出るというのは、通信法の改正、をデモクラット側は選挙の争点の一つとして登録したいと考えているのかもしれない。この話を真っ先に伝えているのが、親デモクラットのNYTというのも、そういう一種の選挙対策案件と思わせる理由の一つでもある。</p>

<p>96年通信法については、インターネットが本格普及する前の世界＝市場認識に従って立法されていたため、随分前から改正の必要は語られてきていた。実際に手を加えるとなればnet neutralityをはじめとして、インターネットないしブロードバンドの根幹を定めるルールになるだろうし、そのルールの上でアプリケーション開発を担うソフトウェア会社やウェブ会社の経営環境にも大きな影響を与える。つまり、「プラットフォームとしてのウェブ」が大々的に法の下に位置づけられるかどうか、という、アメリカに限らず世界中のウェブ産業にも余波を与えずにはいられないルール・メイキングになると見込まれる。</p>

<p>選挙対策としての観測気球かどうか、というところも含めて、続報に注意していきたい。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>Amazon、外国文学の英訳に力を入れる？</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000773.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.773</id>

    <published>2010-05-19T13:57:08Z</published>
    <updated>2010-05-19T13:58:40Z</updated>

    <summary>Amazonが非英語圏の書籍の英訳事業AmazonCrossingに取り組む。 Amazon Branches Out with Publi...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Amazonが非英語圏の書籍の英訳事業AmazonCrossingに取り組む。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703957904575252731076614288.html?mod=WSJ_Tech_LEFTTopNews&mg=com-wsj">Amazon Branches Out with Publishing Arm</a><br />
【Wall Street Journal: May 19, 2010】</p>

<p>さしあたっては文学を中心に始める模様。基本的にはKindleでの販売が目的のようだが既存のリアルの書店にもリアルな本として流通させるという。</p>

<p>要するに、Amazonが英語圏の顧客に販売できる書籍の量を増やす試みの一環ということだ。記事中にもあるように、主にはコストの問題からアメリカでは非英語圏の書籍の翻訳はあまりなされていなかったという。外国文学を翻訳してもそもそもの話題づくりの部分から始めないといけないため、敬遠されてきたようだ。Amazonはそうした慣習を変えようとする。</p>

<p>興味深いのは、非英語圏の作家として一定の地位を築いている人として、ウンベルト・エーコに加え、村上春樹が指摘されているところ。なにげない事例として名前が出てくるあたりが、村上春樹が本当に英語圏読者の中に作家名として刻まれているということの表れと考えていいだろう（少なくともこのWSJの記者はそう思っている）。</p>

<p>村上春樹の名前が出たのでいささか飛躍した発想をしてみれば、将来的には、日本の作家がこのAmazonCrossingという会社を通じてAmazonのチャネルに乗ることによって世界で読まれる時代が出てくるのかもしれない。あるいは、日→英、の翻訳者の育成がリアルに望まれる時代が来るのかもしれない。</p>

<p>そうした状況下では、日本の書き手は書き手の作法として、諸外国の都市の様子をリアルに知ることが必要になるのかもしれないし、それとは逆に（村上春樹が試みてきたように）抽象的で普遍的で寓話的なシチュエーションを設定することで、英語圏の人も入り込みやすい物語の創作が望まれるのかもしれない。</p>

<p>仮にそういう状況が生まれるならば、翻って日本文学のフォーマットや、日本文学を立ち上げるリアリズムのあり方も徐々に変わっていくのかもしれない。</p>

<p>いずれにしても確実なのは、AmazonやGoogleのような会社の試みによって「書きもの」の流通範囲だけは原理的に「世界中」に広がってしまうかもしれない事態が生まれていることになる。</p>

<p>しばしば日本は世界随一の翻訳文化の国といわれる。その場合の翻訳とは、もっぱら外国語→日本語のものであった。20世紀初頭において、そうして日本語化された外国文献が中国や台湾などの東アジアの国々の人々に参照されたこともあったようだが、もっぱら日本語に翻訳されたものは日本にとどまってそこから外国に流れることはあまりないとされる。しかし、そういう状態に対してAmazonCrossingのような試みは、将来の日本人の何割かには英語を通じた読書の仕方を進めるのかもしれない。</p>

<p>どうやら、2010年代のIT化は、今回の書籍のように個別領域で手間のかかるものにまで手を付けることで進められていくようだ。その結果徐々に生じる文化の相互浸透（といっても英語側が有利なのは自明だが）がどうなるのかについては、いろいろと思案できそうだ。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>連邦最高裁判事に判事未経験のElena Kagan氏が指名される見込み</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000772.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.772</id>

    <published>2010-05-10T05:15:36Z</published>
    <updated>2010-05-10T05:31:38Z</updated>

    <summary>引退を表明した最高裁判事のJohn Paul Stevens氏の後継者に、判事未経験のElena Kagan氏が指名される見込みのようだ。 ...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
        <uri>http://www.defermat.com/</uri>
    </author>
    
        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>引退を表明した最高裁判事のJohn Paul Stevens氏の後継者に、判事未経験のElena Kagan氏が指名される見込みのようだ。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/05/10/us/politics/10court.html?ref=politics">Obama Is Said to Select Kagan as Justice</a><br />
【New York Times: May 9, 2010】</p>

<p><a href="http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/05/09/AR2010050903489.html">Obama picks Elena Kagan as Supreme Court nominee</a><br />
【Washington Post: May 9, 2010】</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704307804575234301943175776.html?mod=WSJ_WSJ_US_PoliticsNCampaign_2">Obama to Nominate Kagan to Court</a> <br />
【Wall Street Journal: May 10, 2010】</p>

<p>オバマ大統領からの正式な発表は、アメリカ時間で5月10日になってからのようだが、既に上に紹介したように、報道各社ともKagan氏の報道を始めている。</p>

<p>Elena Kagan氏については次のような情報が流れている：</p>

<p>●New YorkのUpper West Side生まれ。<br />
●ユダヤ系。50歳。（NYのUpper West Sideはユダヤ系住民が多い地区として有名）。<br />
●女性の法律家。学部はPrinceton Univ. 。J.D.はHarvard Law School。イギリスのOxfordUniv.で修士号も取得。<br />
●オバマ政権でSolicitor Generalを務める。Solicitor Generalというのは、連邦政府の法律問題の助言を行う。司法省長官(Attorney General)の補佐役で、連邦政府が関わる訴訟の主任弁護士の役割。<br />
●Harvard Law School のDean（法学部長）を6年務めた。同校初の女性Dean。<br />
●クリントン政権の政策スタッフ。<br />
●現副大統領のJoe Bidenの上院議員時代、政策スタッフに。<br />
●オバマ大統領とはU of Chicago　Law Schoolで教員として同僚だった時代あり。<br />
●民間の法律事務所で弁護士経験あり。</p>

<p>裁判所の判事としての実務経験がないことが、上院での承認過程での争点の一つになりそうだが、実はクリントン政権末期に連邦裁判所判事として指名されたのだがGOPの議員に阻止されたことがある。また、Solicitor Generalは、政府が当事者とならない最高裁での検討事件については、最高裁判事から意見を求められることもある。だから、判事の実務経験がないといっても、最高裁判事が何をするかわからないわけではない。</p>

<p>判事としての実務経験のなさが問題となりそうなのは、デモクラットとGOPで争点が分かれる案件についてKagan氏の考えを公に記した資料が少ない、ないし、ない、ため、承認を検討するための材料に欠けると思われているからだ。</p>

<p>Kagan氏をオバマ大統領がピックアップしたのは、Harvard Law SchoolのDean等の経験から、幅広い法的議論やその議論の立案者を最高裁周辺に呼び集めることができ、「多様性」の確保を期待できると考えたからのようだ。</p>

<p>もし承認されれば現在の最高裁では三人目の女性判事となる。また、50歳という年齢は最高裁判事として長く務めることが期待され、その分、今後の最高裁の雰囲気・空気を作っていく上で重要な役割を果たすと見込まれているようだ。</p>

<p>女性であることや判事以外の経験が最高裁に多様性をもたらすというのは確かかもしれないが、しかし、その一方で、またもやHarvard 出身者か、という意見もある。最高裁判事の出身校がIvy League、とりわけHarvardに傾斜していることは、多様性確保の方針に反するという指摘がなされることだろう。</p>

<p>それ以上に驚くのは、Kagan氏が承認されると、最高裁判事の9人のうち、3人がユダヤ教、6人がカソリックの信者となり、プロテスタントの判事はゼロになるという点だ。むしろ、このことのほうが、アメリカの司法の最高峰としてはバランスを欠く、という議論に繋がりそうだ。様々な意味で、アメリカの法曹界が抱えている一つの問題が炙り出されているように思える。</p>

<p>また、多様な意見や人材を最高裁に引き寄せるために、判事出身ではなく、ロースクールのDeanを務めた人物を採用したい、というオバマ大統領の意向も、よくよく考えれば、それほど、最高裁内の意見の割れ方が、リベラルと保守で二極化してしまっていることの現れでもあると思われる。この点は、過去20年ほどの司法の見直しに繋がると思われる一方で、最高裁自体が、より様々な政治思想が飛び交う、その意味で「政治的」な場に変わる可能性も秘めていると思われる。</p>

<p>まずは、Kagan氏指名の正式発表を待った上で、デモクラット、GOP、の各議員の動きに注目したい。</p>]]>
        
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    <title>『1Q84』BOOK3はゼロ年代をリセットする。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000771.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.771</id>

    <published>2010-05-08T04:59:40Z</published>
    <updated>2010-05-08T10:28:06Z</updated>

    <summary>以下は、5/6にジュンク堂新宿店で行った、福嶋亮大さんとのトークセッションに向けて用意していたメモに基づいたものです。トーク用のメモのため、...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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    </author>
    
        <category term="REVIEW" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>以下は、5/6にジュンク堂新宿店で行った、福嶋亮大さんとのトークセッションに向けて用意していたメモに基づいたものです。トーク用のメモのため、もともとは箇条書きの、文字どおり「メモ」でした。そのため、個々の論点の間のつながりは読み物としては緊密さに欠けていると書いた本人も感じています（苦笑）。予めご了解いただきたく。</p>

<p>*</p>

<p>村上春樹の『1Q84』BOOK3（以下Q3と表記。Q1、Q2についても同様）を読んで、最初に感じたことは、それがとても現代風だということだった。現代風というのは、発刊された2010年4月の空気をまとったものという意味だ。多分、そういう印象自体は、本のタイトルが示唆する1984年＝過去の日本の回顧、というイメージとずれてしまうものだが、しかし、そう感じてしまったのだから仕方がない。</p>

<p>以下、そう感じたワケを記していく。</p>

<p>*</p>

<p>最初に指摘すべきは、Q3は、村上春樹批評のキーワードのクリシエ化とそれによる葬送を試みているように思えたことだ。</p>

<p>Q3が発刊されるまでの間、Q1、Q2については、多くの語り、批評が紡がれた。「村上春樹インダストリー」というべき現象が起こっていて、そこでは、過去の村上春樹作品との比較による善し悪しや、現代の他の作家、作品との比較で、Q1、Q2を位置づけようとするものがあった。</p>

<p>その全てをレファーする余裕はないし、そもそもブログまで含めれば全ての村上春樹語りをフォローすることなど不可能と断言していい。だから、いくつか見かけたもので典型的なものを記すと：</p>

<p>●「さきがけ」という存在は、オウム事件との連関を想像させる、云々。<br />
●「ふかえり」という登場人物は、エヴァンゲリオンの綾波レイのようだ、云々。<br />
●「天吾」は、その受動性から美少女ゲーム（エロゲー）の主人公のようだ、云々（その延長線上で、ふかえりもエロゲーに出てくる女子のようだ、云々）。<br />
●「青豆」は、戦う女子≒戦闘美少女で、かつ、自ら酒場に男を探しに行く、肉食系女子、だ、云々（物語内描写からすれば、青豆が「美的」かどうかは今ひとつわからないが、おいておく）。<br />
●「小松」という編集者は、村上春樹担当の「あの」編集者がモチーフか、云々。<br />
●『1Q84』は、あからさまにジョージ・オーウェルの『1984』のパクリだ、だからXXが似ている、似ていない、云々。<br />
●『1984』のビッグブラザーは、『1Q84』ではリトルピープルという形に変えていて、それは今日的監視社会の隠喩だ、云々。<br />
●そして、この監視社会話は、村上春樹がエルサレム賞講演で引用した現代的システムの隠喩だ、云々。<br />
●青豆の章と、天吾の章が、交互に進み、当初は平行線のように独立して進んでいた話が途中から互いに交叉していく物語構成は『世界の終わりとバードボイルドワンダーランド』以来の村上春樹流の物語構成だ、云々。<br />
●夢≒異界、を設定することで、登場人物たちは時空の違いを易々と超えて相互交信してしまうのは、河合隼雄流のユングの集合無意識の反映だ、云々。<br />
・・・</p>

<p>こういう具合だ。</p>

<p>そして、こういうことが多数指摘できるところから、Q1, Q2は村上春樹作品の長大な模造品≒シミュラークルだ、という評も出てくる。</p>

<p>実際、私自身も、Q1, Q2を最初に読んだ印象はこういうもので、確かにこれは村上春樹っぽい作品だと思った。今風にいえば春樹フラグが随所に多数たちまくり、とでもいえる構成といっていい。だから、村上春樹自身が村上春樹作品を素材にして「二次創作」した、という、当世風の解釈の仕方にも頷けるところがあった。</p>

<p>もっとも、私は『ノルウェイの森』以来、村上春樹を、というか、村上春樹だけは、コンスタントに読んできた方なので、村上春樹的すぎるから嫌だ、とか、なんだかなぁ、と嘆息することもなかったことは記しておく。十分楽しめたし、それでいいのではないかと思った（要するに、わざわざケチを付ける動機が私の中には見当たらないのだ）。</p>

<p>何で読んだかは忘れたが、確か加藤典洋か誰かが書いた村上春樹評として、村上春樹は「男女共学の私大の文学」とあって妙に納得した記憶がある。もちろん、それは、私自身が早稲田で学んだということも影響しているという自覚はある。その意味で、『ノルウェイの森』は、早稲田の文学部のある戸山キャンパス、都電、和敬塾、高田馬場、新宿、など、早稲田アイコンが多数あって、それだけで、『ノルウェイの森』の帯にあった「リアリズム120％（ちょっと記憶は曖昧）」という惹句にころっとだまされていた（笑）。</p>

<p>何が言いたいかというと、要するに私は普通に村上春樹ファンなので、このエントリで記されていることは、そういう方向にバイアスがかかったものである、ということだ。ご了解下さい。</p>

<p>昔から村上春樹を読んできた人間からすると、もう少し強く言えば、村上春樹こそが小説を読む際の参照点になってしまう読み方をしてきた人間からすると、『1Q84』が村上春樹作品のデジャビュで満たされていることはよくわかる。それに、折に触れて村上春樹自身による文学評や、あるいは、彼が手がけた翻訳作品（カーヴァー、フィッツジェラルド、チャンドラー、等）の解説の中に埋め込まれた村上春樹の文学観に触れてきた感じからすると、『1Q84』で何をしたいのか、は、たとえば、「カラマーゾフの兄弟、のような総合小説が書きたい」、そのためには「三人称で書きたい」という村上の希望の表明を踏まえると何となくわかった気がしていた。</p>

<p>だから、『1Q84』がQ1,Q2では完結しないだろう、というのも容易に想像ができたし、実際、Q3は発売された（そして、Q3の読後感からすれば、おそらくQ4も出ることだろう）。</p>

<p>*</p>

<p>とまれ、上に記したQ1,Q2評がひとしきり流通した中、Q1,Q2の発行から約一年後にQ3は発刊された。</p>

<p>（1巻、2巻が同時に発売され、それから時をおいて3巻目が発刊されるのは、無論、『ねじまき鳥クロニクル』の反復に見えるが、それは脇に措いておく）。</p>

<p>そのQ3を読んでの印象は、上で記したようなQ1,Q2評を覆すもののように思えた。Q1,Q2であからさまに記された過去の村上春樹作品や村上春樹評のためのガジェットを村上春樹自身が自覚的に記し、自覚的に宙づりにしているように見えたからだ。</p>

<p>Q3では</p>

<p>●「さきがけ（≒オウム事件成分）」も「ふかえり（≒エヴァ・エロゲー成分）」も後景に退いていて、物語の中核にはでてこない。<br />
●自発的幽閉状態にある青豆にかわって牛河（！）が狂言回し的に物語を駆動する役割を担うことになった。対位法的な展開が微妙にずれていく。<br />
●Q3の最後の方で、作中で自覚的にユングが参照されている。</p>

<p>特に、ユングが直接参照されているところで、私自身は、Q3という作品は、それが2010年に入って刊行されたという事実とあいまって、過去の＝ゼロ年代までの、村上春樹評のクリシエを禁じ手にし、それらクリシエによらず新たな言葉で村上春樹作品を評してみせろ、と村上春樹が挑戦してきたように感じられた。</p>

<p>そう考えると、Q1,Q2があからさまに過去の村上春樹作品のシミュラークルであったのも、村上春樹自身が過去の村上春樹作品に一定のリスペクトを払いつつも同時にレクイエムにしようとしていたようにも思える。葬送、送りの儀式として。</p>

<p>だから、「さきがけ」も「ふかえり」もQ3では直接的には物語には関わらない。</p>

<p>しばしば「95年断絶説」として参照されるものは、95年に起こったオウム事件、阪神淡路大震災、という二つの歴史的事件によっている。それは、また、95年が終戦後50年を経たものであったということにもよっていた。ゼロ年代と呼ばれる2000年代の言葉は、世紀が911事件という世界的事件で始まったこともあって、圧倒的に「崩落」感とともに語られるようになった。</p>

<p>想像するに、村上春樹は、そういう形で出来上がってしまった、日本の「ゼロ年代の（文学もしくは表象の）風景」をいったんリセットしないことには、2010年代の創作ならびに批評は始まらないと思ったのではないだろうか。</p>

<p>オウム事件が私たちに一種の集合的記憶として登録されたのは、もちろん、多数の報道活動の結果紡がれた無数のイメージによっているわけだが、その中でも村上春樹自身が記した『アンダーグラウンド』に代表されるオウム事件（の被害者・加害者）に関するノンフィクションは出色だった。カポーティが『冷血』で示したような、ニュージャーナリズム的な、文学的記述と現実描写が交叉するような表現的挑戦を、村上春樹自身が行ったものだった。</p>

<p>この村上によるノンフィクションは、95年断絶説を言説として補強するには恰好の証言集であったことはほぼ間違いない。だから、村上からすると、オウム事件の持つ「言説的磁場」を強化するのに結果的に加担してしまったことに対する、一種の責任のようなものも感じていたのかもしれない。</p>

<p>村上自身は、既に『神の子どもたちはみな踊る』の中で、95年断絶説のもう一つの象徴である阪神淡路大震災の爪痕を、物語的体験＝想像力を経由して間接的に癒やそうとしていた。このことを踏まえると、『1Q84』は同じことをオウム事件について行おうとしているのかもしれない。そして、それは、『神の子どもたちはみな踊る』の中で、当の地震のあった時に、その場所に居合わせなかった人たちの日常的所作を描くことで、地震の記憶の絶対化と相対化を同時に行い、宙づり状態にすることで、その場に居合わせなかった人たちの言説を少しだけ軽くすることを試みたように。</p>

<p>決してその事件を忘れることはない、けれども、それに囚われることもない。</p>

<p>そういう状態を現出させることを『1Q84』で企図したのかもしれない。</p>

<p>（もちろん、多くの人々の声を聞き、それをあたかも霊媒師のように記していく作業には、精神的に相当の負荷をかけることは、カポーティが『冷血』脱稿後に示した精神の不安定を知れば、想像することは容易だ。村上にもそういうことがあったのかもしれない）。</p>

<p>「さきがけ」に比べれば「ふかえり」の後景化はもう少し小さな事件かもしれない。それは、ゼロ年代において、エヴァンゲリオンとか美少女ゲームとか、そのようなフォーマットで日本のポップカルチャーが語られること自体を、村上は戯画的に＝パロディとして扱いたかったのかもしれない（そのフォーマットで村上春樹作品も読み解かれてしまうわけだから）。むろん、パロディだから、これもまた否定でもなく肯定でもなく宙づりにする対象として取り出すところに眼目がある。「ふかえり」を主題化することによって美少女成分で語ることをしばし禁じ手にしようとする。そうすることで、その手の成分で語ろうと思っていた人たちの語りもしばし封じてしまう。そういうことなのかもしれない。</p>

<p>（もちろん、Q4において、「さきがけ」や「ふかえり」が再度表舞台に上ってくる可能性もある。ただ、その時は、オウムや綾波の類似で語るのが憚れるような、物語的変奏を仕掛けてくるのではないだろうか）。</p>

<p>*</p>

<p>ユングに自発的に言及したことも大きいと思っていて、この部分によって、『1Q84』は、村上春樹作品に頻繁に登場する、異界＝夢＝井戸・地下体験、を物語内で直接的に自覚的に取り上げる用意がある、ということの作者による表明ととれる。この点において、『1Q84』は、村上春樹自身による村上春樹作品の「批評」とも読めるわけだ。</p>

<p>裏返すと、批評家は、この作者自身による自作の批評フォーマットにいかに対処するかが求められる。なぜなら、作者自身による批評は、創作を触発する契機がどこにあるかという点で創作行為そのものと直結しているので、これを覆す批評は、そうした作者自身の創作行為を更に鼓舞するようなものでなければならないはずだから。そして、これは、そもそも通常の批評文の形式で対応することができるのか、という問題を孕むことになる。</p>

<p>この点について、批評ではなく小説の形式で、村上春樹評が抱えていた問題に対して一定の答えを出そうとした試みが、東浩紀による『クオンタム・ファミリーズ』だと思っている。つまり、東は村上とほぼ同時期に村上春樹評やゼロ年代の批評風景に対してそこからの脱出策の一案を小説という形で示したことになる。「95年の分水嶺」や「村上春樹は美少女ゲームのオリジンだ」という見方の流布に東は大きな影響を与えたと思うが、東自身は、そうした見方がもたらす罠に対しては『QF』を通じて率先して対応したのだと思っている。</p>

<p>このことは、5/6のトークショーで福嶋亮太が、作品だけでなくコンテキストを含めて立ち上げているという意味で、『神話が考える』はコンセプチュアルアートだ、と述べていたこととも通底することだと思っている。</p>

<p>つまり、批評はそれ自身、一種の作品≒物語としての強さを持たないと、そもそも読み物として立ち上がらない、ということだ。それは、福嶋の「批評にはツイストが必要だ」という言葉にも表れている。</p>

<p>批評は、自らが読まれるコンテキストをも同時に支持しなければならない。人々の印象を整理集約させたような、その意味で現状の社会状況のミクロコスモスが反映されたとするようなものではもう通用しない。むしろ、人々の意識の半歩先、一歩先を（嘘でもいいから）導くようなものでなければならない。そして、人々の意識の向かう先を先回りして水路づけるという点で、それは小説的で虚構的なものに近くなる。さらにいえば思弁的フレーバーも増えることになる。</p>

<p>*</p>

<p>ということで、Q3は従来の村上春樹産業が紡いできた常套句を禁則にする作品だと思っている。これに対して、いわゆる文芸批評の人たちがどう対処してくるかは楽しみなところだ。</p>

<p>（そして、この点で『新潮』6月号に掲載された安藤礼二による『1Q84』評は興味深いと思っている）。</p>

<p>さて、この話とは別に、Q3について気になったのは、Q3の中身と言うよりも、Q3が受け止められる環境の方についてのものだ。</p>

<p>これは、トークショーの時にも触れたことだが、Q3が、Q1+Q2との間に刊行時期の時差があったことは、それだけでとても面白いと思っている。あたかもアメリカのテレビドラマシリーズ、たとえば『24』や『LOST』でいうところの、シーズン2がQ3で始まったように思えたからだ。</p>

<p>それは、端的に、Q2の最後の場面で、ピストル自殺するとばかり思われていた青豆が、Q3の冒頭であっさり、それも自発的な意志でその自殺を取りやめてしまった、という、だらしない繋がり方（笑）によっている。なーんだ、やっぱり、ジャック・バウアー生きてたか！、という感じのお決まり感。いや、もちろん、主人公が死んでしまったらそもそも話が進まないので、これは当然の措置といえば措置なのだが、しかし、これは、Q1+Q2とQ3の間に、刊行時差があればこそ、成立する物語的手法、というか、シリーズ構成法（笑）なわけで、これは、とても今日的にみえる。</p>

<p>つまり、時差の間には、上に記したように多くのQ1+Q2評が溢れるわけで、その存在が、Q3をシーズン2にも、あるいは、二次創作にも見させてしまう効果がある。sequel（続編）にもderivative(二次創作)にも感じさせてしまうし、当然、そうすると、spin-off（派生別物語）の可能性すら想像してしまう。</p>

<p>こういう『1Q84』を起点にしたマルチ展開が自然と想像されてしまうのは面白い。小説の読まれ方として実は新しいのではないかと思う。ウェブを含めた間テキスト性の網を十分に意識した刊行の仕方として。</p>

<p>*</p>

<p>今日的環境、という点でもう一つ。当然、『1Q84』は、もはや最初から諸外国語に翻訳され、流通させられることが容易に予期されるので、刊行当初から「世界文学」としての位置づけもされてしまう。このことも見逃せない。</p>

<p>その国際的な流通性の確保＝国際的なわかりやすさ、という点でジョージ・オーウェルの二次創作のようなタイトルを付けたのだろうし、その素材として、ともすれば外国ではほとんど知られていない日本の1984年という、バブル経済突入直前の時代を取り上げているのも当たり前のことながら、様々な想像力を喚起する。</p>

<p>不動産バブルの影はQ1の頃から既に語られているし、作中重要な役割を果たすエヌエチケーは個々人の生活に戸別訪問しあわよくば侵入しようとしてくる国家的存在の隠喩ともとれる。</p>

<p>もしもQ4が書かれるならば、それは、時代設定的には1985年のパラレルワールドになるはずであり、その年は、プラザ合意がなされた年。先進国の合意によって、円高が急激に起こる世界で、その数年間の富の集約は端的に東京の景色を変えてしまった。その変えてしまった世界の後に今の日本の都市風景、生活風景があるわけだから、この点で『1Q84』が直近の日本の歴史を諸外国の人々に振り替えさせる良い機会となる可能性もある。当然、一昨年のリーマンショックを踏まえれば、不動産バブルというシステム的暴力は、世界中の知的読者が関心をよせるテーマで、その点からの『1Q84』読解も当然あり得るだろう。</p>

<p>そう考えると、広い意味で『1Q84』という物語は、村上春樹がエルサレム賞受賞講演として触れた「システムとたまご」の話の具現化ともとれる。</p>

<p>おそらく、Q4では、天吾＝「天≒世界は吾なり」と、青豆＝「青い豆のように何かを生み出す」、という名前が、文字どおり、物語を動かすのだろう。気になるのは、二人が同調し続けるのかどうか。何せ、片方は物語のマスターで、もう片方は物語内で何かを生み出すわけだから。</p>

<p>*</p>

<p>最後に、もう一つだけ手短に。</p>

<p>村上春樹は『海辺のカフカ』を発表後、ウェブサイトで読者からメールを受け付け、それに対して返信するという作業をしていた。その記録は『少年カフカ』として書籍にもまとめられている。これを読むと、いかに読者という存在が勝手に物語を読んでしまうかがよくわかる。村上春樹はよくこんなことをしたものだと感心しないではいられない。常々、村上は、自作の批評は読まないと公言しているが、その彼が、読者の声に、それとわかる形で応えようとしたのがこのウェブサイトの試みだった。</p>

<p>この試みが、その後の彼の作品にも影響を与えたのではないかと思っている。つまり、『1Q84』はこの試みを大なり小なり反映・反省した上で書かれたものではないか。この過程で巷に溢れる村上春樹評の更新が必要だと感じたのではないかと思っている。なぜなら、『少年カフカ』に掲載された読者からのメールを見ると、思いの外、紋切り型の、その意味でどこかの評論家が書いたことの引き写しのような評や質問が散見されたからだ。読者と作者である自分との間に存在するもの（その代表が批評・書評文）を一端更新する作業を、それとわからずに自然と行ってしまう。そのことを『1Q84』は実は第一に行おうとしたのではないか。その意味で、『1Q84』は実は、村上が執筆開始当時から触れてきた、日本的な文学環境に対する、2010年代の挑戦であったのでないだろうか。この点で村上春樹は一貫している。</p>

<p>エルサレム賞講演の冒頭で、村上は「嘘語り」する存在として作家である自分を位置づけている。そして、作家のみが大きな嘘をつくことで賞賛される特権的な存在だということにも。</p>

<p>『1Q84』もそうした大嘘として真面目に受け止めつつ笑い飛ばすべし。</p>

<p>村上は既にその読み方をも指示してくれている。</p>

<p>だから、『1Q84』もコンセプチュアルアートなのだ。<br />
</p>]]>
        
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    <title>とうとう売りに出されるNewsweek</title>
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    <published>2010-05-07T13:10:56Z</published>
    <updated>2010-05-07T13:24:41Z</updated>

    <summary>Washington Post Co. が傘下のNewsweek部門を売却すると発表。売却理由はNewsweekの収益回復がどうにも見込めそ...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Washington Post Co. が傘下のNewsweek部門を売却すると発表。売却理由はNewsweekの収益回復がどうにも見込めそうにないという、徹底して経済的な理由からだという。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703961104575226121517486204.html">Washington Post Aims to Shed Newsweek Magazine</a><br />
【Wall Street Journal: May 6, 2010】</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/05/06/business/media/06newsweek.html?ref=media">Newsweek on Block as Era of the Newsweekly Fades</a><br />
【New York Times: May 6, 2010】</p>

<p><a href="http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/05/05/AR2010050502285.html">Washington Post Co. puts Newsweek magazine up for sale</a><br />
【Washington Post: May 6, 2010】</p>

<p><a href="http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/05/06/AR2010050601527.html">Newsweek's hazy future</a><br />
【Washington Post: May 6, 2010】</p>

<p>売却の方針は決まったものの、買い手のイメージはまだつかないということ。このあたりは、昨年、同じようにマグロウヒルから売却方針を示されたBusinessWeekとは状況が大分異なる。</p>

<p>BusinessWeekについては売却方針が示された段階で想定買い手としてBloombergが挙げられており、実際、そのようになった。BusinessWeekは今では雑誌タイトルを“Bloomberg BusinessWekk”として発行されている。</p>

<p>そのような、買ってメリットのある企業が、Newsweekの場合、見あたらない。一般紙で週刊誌という点が、ケーブルニュースやインターネットでのニュースへのアクセスが当たり前になった現状では、ビジネスとしてリアリティに欠けるためのようだ。そのため、上の記事にもあるように、Newsweekの編集者らスタッフによるMBOがもっとも想定できる買い手の一つのようだ。しかし、それはもちろん、事業自体の見直しに直結するものではない。</p>

<p>Washington Postについては<a href="http://www.defermat.com/journal/2010/000766.php">先日のエントリ</a>で取り上げたように、政治記事を中心にインターネット時代、TwitterなどのReal-time Web時代に備えようという動きが起こっている。そうした動きにNewsweek自体は対応できなかったようだ。</p>

<p><a href="http://www.defermat.com/journal/2009/000429.php">以前のエントリーでも紹介していたように</a>、アメリカのニュース週刊誌の窮状は一年前から既に明らかだった。したがって、今回の売却決定が企業の意思決定として早かったか遅かったのか、という議論も今後は起こってくるだろう。</p>

<p>一つ言えるとすれば、経済合理的に考えれば結論はこうなるだろう、ということは概ねその方向に向かうものだ、ということ。そうした見込みに対して時間的余裕が多少はあるうちに何をするかが大事になる。</p>

<p><br />
アメリカではサブプライムやリーマンショックによる景気後退については底を打ったという認識はあるようだ。その有事から平時に少しずつ戻ろうとする中、今回のNewsweekの件のように、従来メディアがいよいよインターネット時代に本格的に対応する（そのためリストラも行われる）フェーズに入ることになるのだろう。</p>

<p>2010年はそういう意味でシビアな年になりそうだ。</p>]]>
        
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    <title>AppleはSmartphone時代のMicrosoftになるのか？</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000768.php" />
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    <published>2010-05-05T13:44:06Z</published>
    <updated>2010-05-05T13:45:16Z</updated>

    <summary>アメリカの独禁法当局であるFTCと司法省反トラスト局がAppleに対して調査を始めるようだ、と伝えるWSJの観測記事。 Apple Draw...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>アメリカの独禁法当局であるFTCと司法省反トラスト局がAppleに対して調査を始めるようだ、と伝えるWSJの観測記事。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703612804575222553091495816.html?mod=WSJ_Tech_INTL_LSMODULE">Apple Draws Scrutiny From Regulators</a><br />
【Wall Street Journal: May 3, 2010】</p>

<p>iPhoneでのアプリケーションの審査などの部分で優越的地位の濫用について嫌疑がかかっているようだ。</p>

<p>10年ほど前、Microsoftが司法省反トラスト局と争い、危なく企業分割命令を出されるところだった。それくらいMicrosoftは圧倒的なシェアをOSで保持していたから。裏返すとAppleはシェアが下がり苦しい時期が続いていた。まさか10年経ってAppleが反トラスト法違反の嫌疑がかけられるような事態が生じるとは思わなかった。</p>

<p>Microsoftの訴訟については、技術革新の早さからOSでのシェアが独占的であることがそのまま市場取引に影響を与え消費者便益を損なえてしまうような事態は生じない、ということで反トラスト法違反という判決には至らなかった。したがって、Appleについても単に市場環境による推測からでは反トラスト法違反ということにはならないだろう。上の記事のように、具体的な取引関係において優越的地位の濫用に当たる事実が出てくるかどうかにかかっていると思う。</p>

<p>現在はまだ可能性が取り沙汰されているだけのようだ。仮に反トラスト法違反となれば、Smartphone市場の取引や産業構造について多大な影響を与えることになる。まずは、FTCならびに司法省反トラスト局の動きに注意しておこうと思う。</p>]]>
        
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    <title>メディア産業株は景気の先行指標であり続けるのか？</title>
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    <published>2010-05-03T23:31:28Z</published>
    <updated>2010-05-03T23:33:14Z</updated>

    <summary>アメリカでは広告不況が底を打ち、メディア産業関連株の評価が戻ってきていると伝えるWSJの記事。 Sprightly Old Media Ar...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>アメリカでは広告不況が底を打ち、メディア産業関連株の評価が戻ってきていると伝えるWSJの記事。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704342604575222470942086324.html?mod=djemheard_t">Sprightly Old Media Are Still Elderly</a><br />
【Wall Street Journal: May 3, 2010】</p>

<p>基本的には伝統的なマスメディア関連企業（Discovery やCBS）の取引株価の評価が、インターネット関連企業（GoogleやYahoo!）の株よりも高めの評価を受けている、と伝えている。</p>

<p>基本的には、「足下の企業の業績（利益やEBITDAのようなキャッシュフロー的指標など）」と「取引株価」との間の「比」をとり、その比が大きいほど期待は高い、という見方をしている。</p>

<p>そうした比で見ると、伝統的マスメディア企業の評価の方がインターネット企業の評価よりも高くなるため、記事中では「BIの時代」に戻ったと触れている。BIとはBefore the Internetの略（どうやらBCに模したようだ）。</p>

<p>もっとも比の取り方は企業毎に扱いを微妙に変えているので、詳しくはWSJの記事で確認してください。</p>

<p>ただ、同じ指標できっちり言わないところは、時間のせきたての中で報道を続ける投資関連ではよくあること。むしろ、この書き手は、伝統的マスメディアkぎょうの業績は短期的には回復基調にあるから、伝統的マスメディア企業の株はBuyだと言外に伝えたいのかもしれない。</p>

<p>ただし、業績が回復というのは、正確には最悪の事態を抜けた、ということにとどまる。その点は記事中でもきちんと留保が付けられている。</p>

<p>つまり、今回の株価の上昇は、あくまでも最近まであった過剰なsellモードからの回復が行われているに過ぎない、という見方のようで、引き続き、長期で見た場合、インターネット企業という直接の競合や、ウェブの利用頻度が上がった消費者の行動の集合的変化によって、メディア産業のビジネス慣行や収益ルールは変わるだろう、と捉えているようだ。</p>

<p>メディア産業セクターでは多くの企業が広告費で収益を上げており、広告費の増減は個別の企業の業績に依存する。したがって、従来は、メディアセクター企業の業績の復調は、広告費収入の回復を意味し、それはまた、総体としての企業業績≒景気の回復を示唆すると捉えられていた。つまり、広告費は景気の先行指標として取らえられてきた、ということだ。</p>

<p>上のWSJの記事も、短期的にはこの視点に立脚していると思われる。だから、次に気になるのは、実際に、一定の回復を見た後、従来のマスメディア企業とインターネット企業との間でどのような対立/協働モードが見られるようになるのか、ということだと思う。</p>

<p><br />
*</p>

<p>それにしても、この記事を書いている人の感覚で言うと、アメリカの経済は回復基調にあると捉えているようで、それが本当ならば、アメリカの経済運営の経験値の高さには感心してしまう。</p>

<p>2000年代初頭のITバブルが弾けてからの回復も見た目には2003年からの回復基調にあって、その余波で2004年夏にはGoogleが上場を果たしていた。</p>

<p>（もちろん、その回復基調のベースには、今から見ればサブプライムの罠が仕込まれていたわけだが、それは後付の知恵でしかないので、今は脇に措いておく。）</p>

<p>同様の回復を行えるのかどうか、にも関心をよせたい。もちろん、メディア産業株が景気の先行指標となり続けるのか、という問題意識とともに。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>ニュースサイトはコアカテゴリーを前面に出すのが得策となる。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000766.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.766</id>

    <published>2010-05-01T23:05:17Z</published>
    <updated>2010-05-01T23:06:12Z</updated>

    <summary>Washington Postが政治関係のニュースだけを&quot;Post Politics&quot;という一つのカテゴリーとして一見すると独立したサイトに...</summary>
    <author>
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        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Washington Postが政治関係のニュースだけを"Post Politics"という一つのカテゴリーとして一見すると独立したサイトに見えるような形でリニューアルしてきた。</p>

<p><a href="http://www.washingtonpost.com/wp-srv/sectionfronts/politics/index.html">Post Politics</a></p>

<p>今までは他のニュースカテゴリーと同じテンプレートで政治関係ニュースをサイトにアップしてきていたわけだが、それを変えてきた。試しにWashington Postの他のニュースサイトに行ってみれば、サイトの「見た目」の違いがわかる。</p>

<p>たとえば、TwitterアカウントもPost Politicsだけで独立したものになっている。</p>

<p>*</p>

<p>単にサイトの顔つきを変えただけの、たわいのない動きとも取れるのだが、それでもこの変化はいろいろと徴候的だと思う。</p>

<p>思いつくままに列挙すると：</p>

<p>●サイトの顔つきを変えることで「視覚的」イメージによる認知の違いを強調する。情報の海に埋もれないようにする。</p>

<p>●新聞は一般紙という固定観念は、ウェブの上で通じない。ジャンル毎の専門サイト群がむしろ直接の競合になる。</p>

<p>●Washington Postの場合、アメリカの連邦政府のあるDCを情報源としてカバーしており、その情報にこそオリジナルの情報がある。その特性を前面に出すことで他紙との差別化、というか、「浮上化」を試みる。おそらくは、Politicoのようなサイトを意識していると思われる。</p>

<p>●Twitterのオリジナルアカウントの設置のように、コアカテゴリーに流入する「ユーザー」（あえて「読者」とはいわない）をしっかり捕まえることを第一にする。おそらくはサイトへの流入数を検討した上で、まず、Politicsにピンを立てることを選択したのだと思う。</p>

<p>●これからアメリカは11月の中間選挙に向けて選挙戦略や戦術に関する報道が増える。その多くは、時間の制約の中でのせめぎ合いの中で「消費」されるので、ニュースサイトの中で流入先を明確にする方が得策だと思われる。</p>

<p>とりあえず、こんなところか。</p>

<p>もう少し目線を上げて見れば、こうした動きをすることで長い目で見れば、</p>

<p>一般紙 ＝ Σ 専門誌群    （Σは総和のこと）</p>

<p>という形にウェブ上の新聞の情報単位を一度分解する方向に向かうということ。</p>

<p>その上で、専門誌群の中からコアとなる情報クラスターを前面に出していく、と言うことになるのだと思う。</p>

<p>こうした分解というか細分化が実際に進むのはおそらくはTwitterによって断片化されたフロー情報の伝播速度が格段に増えたからだろう。だから、実際には、専門のTwitterアカウントを作るのなら、いっそのことサイトの顔つきも変えてみよう、ということだったのかもしれない。</p>

<p>実際、Twitter上でRTを繰り返されることでサイト側は何もしなくても潜在的なサイト訪問者の数を増やすことができるし、ユーザーの流入数が間歇的に増えるのは、情報の鮮度や内容、分析力、総合力、のような、個別記事のもつポテンシャルに大きく依存するからだ。もちろん、その情報が現在の社会的状況の中でどのように「縁取」られているのかにもよる。</p>

<p>もちろん、上でも指摘したように11月に中間選挙が行われるというスケジュールの影響もあるだろう。</p>

<p>ということで、今回のWashington Postの変化は、情報の密度や速度が格段に増した状況での「ジャーナリズムの流通方法」の更新、という点でなかなかに示唆に富む動きだと思っている。</p>]]>
        
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    <title>FCC vs 連邦裁判所：インターネット管理の権限の所在を巡る争い</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000763.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.763</id>

    <published>2010-04-20T09:04:23Z</published>
    <updated>2010-04-20T09:06:36Z</updated>

    <summary>FCC（Federal Communications Commission: 連邦通信委員会））にはインターネットの管理権限はないと、アメリ...</summary>
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        <name>junichi ikeda</name>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>FCC（Federal Communications Commission: 連邦通信委員会））にはインターネットの管理権限はないと、アメリカの連邦裁判所が判決を下した。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/04/19/opinion/19mon1.html?ref=opinion">The F.C.C. and the Internet</a><br />
【New York Times: April 18, 2010】</p>

<p>問題の裁判は<a href="http://www.defermat.com/journal/2009/000557.php">以前にも紹介した裁判</a>だ。</p>

<p>ケーブル会社大手のComcastが、自社が提供するケーブルインターネットにおいて、インターネットの用途に応じて回線容量の割り当てを制御したのだが、それをFCCがnet neutralityの原則にもとる、という理由でやめさせようとしたもの。</p>

<p>具体的には、Comcastは自社のケーブルインターネットでBitTorrentでダウンロードするユーザーが利用できる容量を制御しようとした。Comcastからすると他のユーザーの容量を圧迫するだけでなく、そうやってダウンロードされるもの（映像や音楽のソフトなどがありえる）によって、ケーブルチャンネルやPPVの解約に繋がる可能性があるため、そうしたユーザーの利用を制御しようとした。</p>

<p>FCCはこうしたComcastの動きをやめさせようと命令を出したわけだが、今回の裁判所の判決によれば、ことの是非はともかく、そもそもFCCにはインターネット利用に対する管轄権がない、したがって命令は無効だ、ということになった。</p>

<p>この「管轄権がない」という判決によって、FCCは過去何回も命令を覆されてきた。裏返すと、電話会社やケーブル会社による法務戦略の常套手段ともいえる。識者によっては、そんなことをしているから、アメリカのインターネットやブロードバンドの配備は他国に対して後塵を拝することになってしまったのだと指摘する人もいるくらい、実に頻繁に起こる。</p>

<p>とはいえ、この状況を放置すると、果ては先日FCCが発表した全米ブロードバンド配備計画（National Broadband Plan）の実現にも赤信号が点る可能性すらあるため、対応は必要になる。FCCとしては、上告はせずに、合法の範囲でComcastの行動を制御しようとするようだ。これもまた法務戦略となる。</p>

<p>一番わかりやすいのは、連邦議会によってFCCにインターネットの管理権限を与える旨立法化してもらうことだが、これは立法措置のための議論を待たねばならないし、加えて最近のGOPの議会の動きを見れば何にでも反対をしかけてくる可能性はある。少なくとも今年の11月の中間選挙を待たないことにはことが進まないだろう。残念ながら、ヘルスケア改革法の立法過程で大荒れに荒れ、かつ、上院で圧倒多数の60議席を失ったデモクラットからすると、優先順位の高い政策案件は他にも多数あるからだ。</p>

<p>したがって、さしあたってはFCCの権限の範囲で命令が出せるようにする方法が検討されることになる。</p>

<p>上のNYTのOp-Ed（論説）にもあるように、その中で一番簡単な方法は、インターネット接続事業を、現状の「高度情報サービス」から電話のような「コモンキャリア」に分類枠を変えてしまうことだ。つまり、インターネット接続事業を、従来のような電話網という物理的な回線の上で、プロトコルによって論理的に実現された「付加価値サービス網」とするのをやめて、インターネット回線そのものを物理的な網と見なし、電話網に対してFCCが持ち続けてきている権限をそのまま当てはめてしまおう、とする手になる。</p>

<p>この手直し的作業がどの程度容易に行えるのかにもよるが、もしもこうした再分類が可能であるならば、逆に、意外とこれはNational Broadband Planを進める上では都合のいい方向になるのかもしれない。</p>

<p>というのも、コモンキャリアとしてインターネット網、あるいはブロードバンド網が、電話並みの基盤通信網として位置づけられれば、ユニバーサルサービスファンドと呼ばれる、電話料金の平準化のための補填ファンドを、ブロードバンド網の整備に活用することもできるようになるからだ。また、net neutralityのような原則も導入が容易になる。その一方で、どこまで電話網で確立された原則がブロードバンドにおいても適用可能であるのか、あるいは、新たな法概念が必要になるのか、検討は必要になると思われる。</p>

<p>そうすると、今回の判決は勝っても負けてもFCCにとっては次の手を打つ上で有効だったということもできる。第一に法整備の必要性が明確になる、第二にFCCルール内でのカテゴリー変更に着手する動機が得られる、第三に仮にそうしたルール変更がさらに法廷で覆されれば（これは大いにあり得る）、いよいよ立法措置に訴えるしかなくなり、ホワイトハウスにしても連邦議会にしても本腰を挙げざるを得なくなる。</p>

<p>このように、本件は、今後のアメリカのブロードバンド整備の方向を占う上で、後から振り返れば、分岐点となった判決となる可能性もあるということだ。引き続き注目していきたい。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>「私たちは皆図書館の中で生きている」～Twitterの図書館所蔵の話の続き</title>
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    <published>2010-04-16T07:51:31Z</published>
    <updated>2010-04-16T07:56:46Z</updated>

    <summary>昨日のエントリーをアップした後、Twiter上で 「今回の呟きの所蔵は、過去・現在・未来の140文字のテクストが、知識や真実の貯蔵庫や情報蓄...</summary>
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        <category term="COMMENTARY" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p><a href="http://www.defermat.com/journal/2010/000758.php">昨日のエントリー</a>をアップした後、Twiter上で</p>

<p>「今回の呟きの所蔵は、過去・現在・未来の140文字のテクストが、知識や真実の貯蔵庫や情報蓄積の場としてのポジション確立の1歩となる?」</p>

<p>という質問を頂いた。一端Twitterで簡単に回答したものの、興味深いテーマなので、その時の呟きをもとに加筆修正したものを記す。</p>

<p>*</p>

<p>Twitterが「知識や真理の貯蔵庫」としての蓄積の場の第一弾として選ばれたことは間違いないが、Twitterが唯一かどうかはわからない。</p>

<p><a href="http://www.defermat.com/journal/2010/000758.php">昨日のエントリー</a>で連邦議会図書館の“Web Capture”というプロジェクト、というか指針を紹介したが、今後、連邦議会図書館自身が、ウェブ化やデジタル化による社会全般の情報化潮流に合わせ、自らを、デジタルかアナログかに関わらず、情報の蓄積の場として位置づけていくことはまちがいない。であれば、次に出てくるTwitter的なサービスをもさらに取り込んでいくと思うので、Twitterが究極ということはないのではないかと。</p>

<p>それから、テクニカルなことをいえば、Twitterのミラーサーバーなどを用意するのかどうかにもよるが、基本的には、連邦議会図書館がTwitterのサーバーのアクセス権を保有する（←このあたりの所有概念は正直詰めると難しい話）ことになると思う。</p>

<p>だから、重要なのは、Twitterの呟きが、いわゆる図書館法による扱いを受ける対象になると言うことだと思う。図書館の利用者に対しては、利用履歴の秘匿など、プライバシー保護に関して独自の、確立されたルールがある。また、そうした地位を法曹界の人たちにも認められている。</p>

<p>そうした図書館利用者にまつわるルールが、Twitterの利用者にも適用されるパスができたということではないだろうか。</p>

<p>*</p>

<p>Twitterの後続もアーカイブ対象になるものが出てくると思われるが、それでも、このTwitterのアーカイブ化がもたらすインパクトというものもあるだろう。</p>

<p>Twitterのアーカイブ化では、フォークロア的に、雑踏のざわめきをなす声を全てを取り込むような形で、呟き群が1対1の写像としてアーカイブされてしまう。こういうイメージが確立される方が影響としては大きいのではないか。</p>

<p>ちょうど写真がスチルからデジカメになって誰もが視覚イメージを切り取って記録することができる、ということを皆が信じるようになったら、写真に対して記憶を重ね合わすことが随分と減ったように感じるのと似ている。セピア色で憂う、という感覚を、デジカメかスチルかを問わず一般の写真に持ちにくくなった感覚。もちろん、スチルといってもプロではなく素人によるものに限るが。</p>

<p>もっとも、これは、「音声会話のようなテキスト交換＝コミュニケーション」の交換と考えれば、既にチャットが登場したときからそうした感覚は浮上していたのかもしれない。</p>

<p>*</p>

<p>こう考えると、Twitterによらず、Social でReal-timeなWebサービスは、ゆくゆくはアーカイブ化対象になるのかもしれない。</p>

<p>しかし、そうするとすべからく私たちがウェブ上で何か情報的なものをやりとりした場合、それらは自動的に図書館に所蔵されるという事態が生じるのかもしれない。</p>

<p>そして、上で記したように、図書館という存在が現代社会の中で持つ特異なポジション、つまり、中世の駆け込み寺的空間であったアジールのように、こと情報の摂取・交換については、その履歴を開示する必要に迫られない、という特異なポジションに、まずは組み込まれることによって、さしあたってはプライバシー問題の是非、のようなものが議論対象ではなく、絶対保護原則からスタートすることができる。</p>

<p>これは、資本制社会の中では興味深い話ではないだろうか。</p>

<p>私たちは、皆図書館の中で生活している、という事態。</p>

<p>もちろん、連邦議会図書館の今後の動きを見ながら今記したものの当否についてはゆっくり考えていかなければいけない。</p>

<p>それにしても面白い事態が進行することになったものだ。</p>

<p>*<br />
追記</p>

<p>なお、質問を頂いたのは @ yfvelocity さんでした。ありがとうございました。<br />
</p>]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>Twitterの呟きが連邦議会図書館の所蔵対象に。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000758.php" />
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    <published>2010-04-15T10:18:44Z</published>
    <updated>2010-04-15T10:36:19Z</updated>

    <summary>連邦議会図書館がTwitterの呟き（tweets）をデジタルアーカイブの対象とすることを決めた。これにより、著名人をはじめとするTwitt...</summary>
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        <name>junichi ikeda</name>
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        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>連邦議会図書館がTwitterの呟き（tweets）をデジタルアーカイブの対象とすることを決めた。これにより、著名人をはじめとするTwitter上の呟きは連邦議会図書館に所蔵され、歴史的文書の一部となる。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/04/15/technology/15twitter.html?ref=technology">Library of Congress Will Save Tweets</a><br />
【New York Times: April 14, 2010】</p>

<p>Library of Congressによる発表もある。</p>

<p><a href="http://www.loc.gov/tweet/how-tweet-it-is.html?utm_source=twitterfeed&utm_medium=twitter">How Tweet It Is!: Library Acquires Entire Twitter Archive</a><br />
【April 14, 2010】</p>

<p>連邦議会図書館（Library of Congress）は210年の歴史をもつ図書館で、名前の通り、連邦議会の業務に資するよう書籍をはじめとする資料を収集している。コピーライト法による献本でアメリカの知の集大成となる場として機能している。</p>

<p>所蔵対象物は210年の歴史の中で、法律に関わる文書・書籍から一般書籍へと対象を拡大し、メディア技術の刷新に伴い、映画や写真、音楽なども所蔵対象としてきた。</p>

<p>今回のTwitterの件は、インターネットの普及を受けて連邦議会図書館が進めていた“Web Capture”という、ウェブ上の表現物を収拾するプロジェクトの一環としてスタートするようだ。ウェブのニュースやブログなどが既に対象となっていた。</p>

<p>所蔵される予定のTwitter上の呟きは、Twitterが創業された2006年3月まで遡って全呟きを収蔵するという。基本的にはプライバシー保護に配慮し、公けにされた呟きが対象となる。</p>

<p>つまり、これはいわゆるfolklore的な発想からのアーカイブ化、その時代の普通の人々の様子を後年に生き生きと伝えるためのプロジェクトにあたる。そのために広く一般の人の呟きも所蔵されることになるというわけだ。</p>

<p>*</p>

<p>しかし、この連邦議会図書館の決定はとても興味深い。</p>

<p>一つ一つの呟きがTwitter上に流れる傍から歴史が刻まれることになる。呟いた傍から未来の人々の参照に資する「テキスト」になっていく。</p>

<p>Twitterはタイムライン上に流れていく呟きの流れ、フローが不思議な「今」感を出しているわけだが、流れていくことで、それらの呟きは自動的に消失していくと想定されている。あたかも声による対面の会話が発話した瞬間に消えていくように。</p>

<p>しかし、当たり前のことながら、ウェブ上でデジタルに記されたものは基本的には蓄積可能だ。TwitterのユーザーならTwilogのような、自分が呟いたtweetsを後で見返すサービスを利用している人もいるだろう。呟いた傍から「log=ログ」としてアーカイブ化されることは既に実践されている。</p>

<p>ただ、Twilogのようなアーカイブはあくまでも個人の利用、そして一部フォロワーの利用に供されるようなもので、極めてローカルな仲間内、あえていえば「小さな共同性・公共性」の中で参照されていたにすぎない。Twitterの呟きは、福嶋亮大『神話が考える』の中で言われていたephemeral（エフェメラル＝つかの間に消えてしまう）なものなのだ。</p>

<p>それが今回の連邦議会図書館の動きによって、アメリカ政府＝国家という存在が、直接それらTwitterのlogを半永久的に「保存」することを選択したことになる。いわば固定されたテキストとして残されることになる。もはや制度的に「エフェメラル」でいられない。</p>

<p>こういう状況を踏まえると、Twitterについては、メディア論的視点できっちり考える必要があるように感じている。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>地理情報入力は地域性の強い場所から始まる。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000757.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.757</id>

    <published>2010-04-14T14:59:18Z</published>
    <updated>2010-04-14T15:04:20Z</updated>

    <summary>Financial TimesがFoursquareを使って大学街でオンライン版のプロモーションを行う用意があるという。 FT Deal W...</summary>
    <author>
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        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Financial TimesがFoursquareを使って大学街でオンライン版のプロモーションを行う用意があるという。</p>

<p><a href="http://paidcontent.org/article/419-ft-deal-with-foursquare-lets-users-unlock-paywall/">FT Deal With Foursquare Lets Users ‘Unlock’ Paywall </a><br />
【PaidContent: April 9, 2010】</p>

<p><a href="http://www.businessinsider.com/financial-times-goes-after-younguns-with-new-foursquare-to-unlock-premium-ftcom-subscriptions-2010-4">Financial Times Goes After Younguns With New Foursquare Deal</a><br />
【Business Insider: April 9, 2010】</p>

<p>大学街近傍のカフェを中心にFoursquareを通じた位置情報を知らせ、それに基づいてオンライン版のアクセス権を自動的に解放し、学生による無料購読を可能とする。それによってFTの有用性を知ってもらおうというもの。</p>

<p>アイデアとしては地理情報を使ったアクセス制御だから、それほど新鮮なものではない。気になったのは、単純に記事中で最初に利用が始まりそうな大学としてコロンビア大学が含まれていたから。</p>

<p>というのも、確かにコロンビア大学内の学生ラウンジやカフェを中心にFinancial Timesが毎日山のように積まれて、それを手にとって読んでいたことがあるから。要するに、学生向けの購読キャンペーンということ。</p>

<p>ビジネススクールや公共政策大学院のようなプロフェッショナルスクールではWall Street Journalは購読するのは当たり前として、それに加えて、Financial TimesとThe Economistの購読が強く勧められていた。というのも両方ともイギリス系の金融誌・紙で、とにかく金融情報にまつわるものは、国家財政から企業の決算まで非常に詳しく伝えられていて、また、主に国際金融の観点から余波の大きいと思われる政治的出来事についても十分な取材と分析がなされていたから。</p>

<p>とはいえ、そういわれて皆が購入するというわけではない。とりわけ、WSJやNew York Timesを既に購読している場合、それに加えて新聞を取るのは学生にとってはそれなりに厳しいものがある。</p>

<p>ということで、先述のように、学生ラウンジにFT紙を無料体験させるべく置いておく。山のように積まれ、とはいったもののもちろん朝の、コーヒーやベーグルを買って教室に向かう時間帯にはほとんどなくなっていた。</p>

<p>そういう学生向けに行っていたリアルの新聞のプロモーションをオンライン版について行ってしまおう、というのが今回のFoursquareを使った試み、ということ。</p>

<p>*</p>

<p>この試みが面白いと思ったのは、位置情報を使ったプロモーションと言ったときに、さしあたっての入口が、特定の人の集まる場所、つまりは、リアルな場所の傾向や属性に依拠することになるところ。今回の大学街のように地域の特徴が「強い」ところが最初の入口になる。利用の契機となる何らかの支持体が必要になるということ。支持体とは可視的なものだったり、有名性のあるものだったりということ。</p>

<p>つまり、そうした「強い」地域性のあるところをきっかけにしてリアルの情報を位置情報というグリッドを通じて文字どおり座標化するための入力作業がしばらくは続くということ。</p>

<p>上で書いたように、FT紙の無料新聞は、たまたまその時コロンビア大学にいる、学生でない人も手にすることができる。アクセス権はあくまでも地域性によっている。そのようなアクセス機会は大学構内には多数ある。外部では有料のものが無料になる、自由に（平等に）アクセスできる、という点では、一種のアジールともいえる。逆に、特権的な利用空間という点でgated communityということもできる。</p>

<p>裏返すと、Foursquareに代表される地域情報に基づいてアクセス権を任意に設定することにより、従来は空間に付随したアジール性やgated community性をかなり緩い形でたちあげていくことができることになる。</p>

<p>ここから一足飛びに建築や都市計画のようなところにまで思考を飛ばすのは時期尚早だと思うが、そのような問題意識で状況を見守っていきたい。もちろん、AR（Augmented Reality）のアプリケーションの一分野という視点にも心がけるつもりだ。<br />
</p>]]>
        
    </content>
</entry>

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    <title>ProPublica、ピューリツァー賞を受賞。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000756.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.756</id>

    <published>2010-04-13T14:45:11Z</published>
    <updated>2010-04-13T14:48:57Z</updated>

    <summary>先日発表されたピューリツァー賞で、はじめてnon-profitのオンラインサイトが受賞を決めた。 Washington Post Leads...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>先日発表されたピューリツァー賞で、はじめてnon-profitのオンラインサイトが受賞を決めた。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052702303828304575180172255471544.html">Washington Post Leads in Pulitzers</a><br />
【Wall Street Journal: April 13, 2010】</p>

<p><a href="http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/04/12/AR2010041202071.html">The Post wins four Pulitzers; Bristol, Va., paper wins for public service</a><br />
【Washington Post: April 13, 2010】</p>

<p>受賞したのはProPublica。上の記事にあるように、New York Times Magazineと共同で受賞した。</p>

<p><a href="http://www.defermat.com/journal/2009/000546.php">以前のエントリー</a>でも触れたように、ProPublicaはnon-profitでオンラインの調査報道（investigating report）を専門とする機関。</p>

<p>調査報道とは、主に政府や大企業の不正に照準して時間をかけて実態を明らかにするタイプの報道活動。最も有名なのはウォーターゲート事件を取り上げたWashington Postによるもの。Bob Woodwardを一躍ジャーナリストの神にしたこの調査報道は確かにそれ以後のアメリカの政治状況を大きく変えたという点でアメリカ史に残るもの。Bob Woodwardに憧れて報道記者になったという人は多いという（実際、そういう報道プロデューサーの講演をNYで聞いた）。</p>

<p>このようにアメリカのジャーナリズムの中核であり良心とも呼べる調査報道だが、ここのところ、徐々に手薄になってきているというのが一般的な理解だ。というのも、昨年から顕著になったように現在、アメリカの新聞社は経営不振にあえぎ、やむなく記者を含めたリストラを継続中で、長期にわたる取材活動が必要な調査報道チームがその対象になりやすいからだ。</p>

<p>ProPublicaの受賞の背景にはこうした時代状況がある。オンラインであることやnon-profitであること以上に、調査報道という分野の現状を歴史に刻むという点で、ProPublicaに注目が集まったと見ることもできるのではないだろうか。</p>

<p>アメリカのジャーナリズムの変質の兆候となるような、その意味でメルクマールとなる受賞だったと思われる。</p>

<p></p>

<p>*****</p>

<p>受賞者の詳細は以下が詳しい。</p>

<p><a href="http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/04/13/AR2010041300604.html">2010 Pulitzer Prize winners and finalists</a><br />
【Washington Post: April 13, 2010】</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/04/13/business/media/2010-Journalism-Pulitzers.html?ref=media">2010 Pulitzer Prizes for Journalism</a><br />
【New York Times: April 12, 2010】</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/04/13/business/media/2010-Arts-Pulitzers.html?ref=media">2010 Pulitzer Prizes for Letters, Drama and Music</a><br />
【New York Times: April 12, 2010】</p>]]>
        
    </content>
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<entry>
    <title>Washington Post、コメント匿名性を再考する。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000755.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.755</id>

    <published>2010-04-12T09:06:21Z</published>
    <updated>2010-04-12T09:07:15Z</updated>

    <summary>Washington Postがニュースサイトのユーザーからのコメントについて、従来堅持してきた匿名性維持の原則を見直す方向にあるという。 ...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Washington Postがニュースサイトのユーザーからのコメントについて、従来堅持してきた匿名性維持の原則を見直す方向にあるという。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/04/12/technology/12comments.html?ref=technology">News Sites Rethink Anonymous Online Comments</a><br />
【New York Times: April 11, 2010】</p>

<p>インターネット上で「情報はfree=自由であることを望んでいる」ということと同じ程度に、インターネット上でanonymous＝匿名であることは、インターネット初期からのネットのルールと見なされてきた。</p>

<p>上の記事によれば、Washington Postは向こう数ヶ月の間に、匿名性原則に関して見直しを図るという。</p>

<p>考えられる対処方法としては、たとえば、ニュースサイトは事前登録制にして、ユーザーが見る分には引き続き匿名のコメントであり続けるが、サイト側はコメントユーザーをトラックできるようにすることが挙げられている。その上で、ユーザーからランキング投票を集めて、その結果でコメントの掲載順序をつくる。</p>

<p>このランキングシステムは、リベラル系のブログアグリゲートサイトであるHuffington Postが先行して採用しようとしているとのこと。HuffPoの主催であるArianna Huffington女史（この人はリベラルの論客として有名）によれば「これはユーザーの教育プロセスだ」と、とてもリベラルっぽいコメントをしている。</p>

<p>ニュースサイトで匿名コメントの見直しをするのは、荒らし的な野卑なコメントをできれば避けて、コメントを含めたニュースサイトへの広告出稿のことなどを考慮してのようだ。とはいえ、「情報は自由」「表現は自由」を原則的に重視するアメリカの報道機関の場合、自発的に検閲行為のようなことはしたくないこともあって、できればユーザー同士のランキング、つまり承認行為によって状況を好転させたいと考えているのだろう。検閲的行為は自分たちの報道信条にも関わるので。ここは難しいところだ。</p>

<p>それにしても、freeといい、anonymousといい、従来のインターネットではデフォルトのルールのようになっていたものの見直しが少しずつだが確実に行われてくるようになった。</p>

<p>アメリカの法制度は、こうしたルールを政府が頭ごなしに決めるようなことはしない。むしろ、一つ一つの法律事件を通じて一歩一歩状況のルール化を進めるのが通常。しかし、裁判にならない限り司法を通じたルール化、あるいは問題提起はなされない。</p>

<p>となるとWashington Postなどの報道機関はできるだけユーザーとの緩やかなやりとりをしながら共有できるルールを醸成していくということになるのだろう。そのプロセスは、報道機関特有の現象になるだろうから、しばらく気にかけておきたい。</p>

<p>それにしても、微妙なルール形成方法だと思う。</p>]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>【お知らせ】　文芸誌『新潮』5月号から連載を始めました。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000754.php" />
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    <published>2010-04-07T12:01:14Z</published>
    <updated>2010-04-07T12:03:50Z</updated>

    <summary>本日4月7日発売の『新潮』5月号から連載を始めました。 連載タイトルは： 『アメリカスケッチ2.0　ウェブと文化の未来を考える』 そして、第...</summary>
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        <name>junichi ikeda</name>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>本日4月7日発売の『新潮』5月号から連載を始めました。</p>

<p><br />
連載タイトルは：</p>

<p>『アメリカスケッチ2.0　ウェブと文化の未来を考える』</p>

<p><br />
そして、第一回タイトルは：</p>

<p>「地続きになったアメリカ」</p>

<p><br />
連載タイトルにある通り</p>

<p>・アメリカ<br />
・スケッチ<br />
・2.0<br />
・ウェブ<br />
・文化<br />
・未来</p>

<p>について、連載を通じて考えていきたいと思います。</p>

<p><br />
ご関心のある方は是非『新潮』5月号を手にとっていただき、ご高覧いただければ幸いです。</p>

<p>よろしくお願いいたします。</p>]]>
        
    </content>
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<entry>
    <title>メディア論的視点から見た「iPad問題群」</title>
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    <published>2010-04-05T06:06:52Z</published>
    <updated>2010-04-05T06:08:47Z</updated>

    <summary>先週末にアメリカで発売が開始されたiPad。主要な新聞や雑誌（のサイト群）では、この10年ほどAppleが新商品を導入するたびに行われてきた...</summary>
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        <category term="COMMENTARY" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[<p>先週末にアメリカで発売が開始されたiPad。主要な新聞や雑誌（のサイト群）では、この10年ほどAppleが新商品を導入するたびに行われてきたように、ユーザーから熱狂的に受け入れられている様子が多数報道されている。</p>

<p>その熱狂ぶりについては大手の新聞サイトを見てもらうとして、気になるのはiPadが商品として、コンピュータとして、実際、どれほど革新的なのか、というところ。もちろん、Appleの場合、「革新的」というのは、単に技術仕様が上がったというだけでなく、「いかにユーザーの利用体験を変えるのか」という問いへの、驚きを伴う回答が含まれなければならない。</p>

<p>そのようなiPadの革新性について、ベテランのギークがレビューを寄せている。</p>

<p><br />
WSJのWalt Mossbergによるレビュー。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052702304252704575155982711410678.html">Laptop Killer? Pretty Close</a><br />
【Wall Street Journal: April 1, 2010】</p>

<p>Steven Levyによるレビュー。</p>

<p><a href="http://www.wired.com/reviews/product/pr_ipad_first">Apple iPad</a><br />
【WIRED】</p>

<p><br />
Mossbergは主に自身による試験的利用の結果経験したことをまさにレポートとして記している。一方、Levyは（<a href="http://www.defermat.com/journal/2010/000752.php">昨日のエントリーで触れた</a>）AltairとEd Robertsから書き始め、コンピュータ文化全体の変容の中でiPadの革新性を明らかにしようとしている。</p>

<p>いずれも具体的で面白い記事なので読んでみることを勧める。</p>

<p>で、以下では、そうしたレビュー内容を含め、iPadについてメディア論的な問題意識の下で、つまりは人々や社会への余波という点で、気になっていることを記しておく。</p>

<p><br />
●バーチャルキーボードを含む文字入力様式について</p>

<p>書字様式は人々の思考や振る舞いを決めるという、キットラー的なメディア論（メディア史観）から見た場合、iPadはどのように位置づけられるのか。</p>

<p>ペンマンシップ　→　タイプライター　→　指一本タッチスクリーン？</p>

<p>このあたりは、一足先にワープロ/パソコンの登場で、抜本的に日本語の書き方、というか、文字どおり日本語の文字の入力の仕方が抜本的に変わってしまった日本とは異なる文化的衝撃をもたらすのかもしれない。</p>

<p>欧米人の場合は先行してタイプライターによる「書き方」が定着していて、パソコンのキーボードも基本的にはそれを継承していた。日本語などアルファベット以外の文字、特に表音文字ではなく表意文字を利用している国と違って、キーボードはまさに打鍵すればそのまま文字群＝単語や文章が打ち込めた。</p>

<p>それに対して、たとえば、日本の場合は、キーボードを含めてどのような方法で文字を入力するか、そして変換するか、ということがPCの導入期から問題とされてきていた。</p>

<p>たとえば、ローマ字変換を使うかカナ変換を使うかという入力方法の問題については、キーボードの軛から解放されたケータイではかなり自由度のある入力方法が採られた。文字セットとして絵文字が加えられるような事態も生まれた。つまり、通常の感覚でいえば、文字以上図未満、のような「符合」が文字として扱われるようにもなった。</p>

<p>また、日本語変換については、単なる辞書データからの一対一変換に止まらず、文節、文章単位での変換が軽いAI機能を伴いながら工夫された。手紙の冒頭の時候のあいさつを全て入力する人はもはやいないだろう。さらには、先日リリースされた「Google日本語入力」のように、ウェブ上でリアルタイムで打鍵される単語群をコーパスとして用いることで、従来であれば、しかるべき専門家によって用意された辞書データをラディカルに自動生成し、その変換順位を利用頻度に応じて提案してくるようなシステムまで開発されている。人々が現時点で最も共有している文字利用のされ方がその都度提示されるわけで、無意識とは言語によって構成されている、という見方をそのまま実践してしまったような感じすら受ける。そのような事態にまで至ってる。</p>

<p>（一部ではこうした利用変換装置を、まさにそれがプログラムであるが故にハッキングできることをいいことに、新しい言葉の組合せを生み出すような装置として生み出すまでに至っている。少なくとも今日の日本における「文字列接触経験」には大きな影響を与えている）。</p>

<p>日本語のような非アルファベット文字圏で、このようなラディカルな文字入力機構の変容があったのに対して、欧米、とりわけ、英米圏では、タイプライター時から文字入力様式自体は変わらず、従って、入力様式そのものを反省的に捉える必要はほとんどなかっただろう。</p>

<p>だから、今回のタッチスクリーンはそうしたタイプライター文化からはみ出る文字入力経験を欧米の人々に与えるのかどうかはとても気になるところだ。</p>

<p><br />
●クラウド化の促進効果について</p>

<p>iPadは、全体的にウェブ資源の利用に照準したガジェット。そして、ウェブ資源に照準するということは、コミュニケーション×メディア利用が中心になることを意味する。具体的にはe-mail, chatなどの個人間通信、Twitter, Facebook等のSocial Web、ブログやメディアサイトなどの閲覧/観覧、が中心になる。</p>

<p>その場合、Twitterが既にそうだが利用者が呟いたテキストは利用者の手元の機器ではなくTwitterのサーバーに直接蓄積される（だからこそ、ケータイからもPCからも、Windowsマシンからもマックからも任意にアクセス可能になる）。つまり、コミュニケーション×メディア利用が中心であるならば、iPadは入力/出力端末でしかない。関わったデータはウェブ側に存在する。こうしてクラウド化が徐々に当たり前になる。というか、ユーザーの利用資源の多くがクラウド的に提供されるものになる。</p>

<p>Cloud computingとSocial Webは、いわばハードとソフトのような、裏表の関係にあるので、両者は相互に利用を促すことになるのだろう。その時、従来マスメディアが確固たる存在として想定されていたときに主張されてきた「インタラクティブ性＝双方向性」のような意味も溶解していくのだろう。双方向である以前に多方向であるし、クラウドを前提にすれば、いわば全方向に潜在的にリンクは張れる。つまりSocial Graph的な発想でメディア財の消費や生産を捉えることができる。</p>

<p>こうした動きが全面展開したとき、おそらくはマスメディアの意味することも変わってしまうはず。</p>

<p><br />
●デジタルメディアにおける「外観」について</p>

<p>多くのメディアがiPadの発売とともに、新聞や出版などの活字メディア企業がiPadで商品を提供することになったことを伝えている。2009年は景気後退の余波から広告不況に突入し、多くの活字メディア系企業で新聞・雑誌・書籍の実売の低下とウェブを含めた広告収入の低下にあえぎ、活字メディアの将来が真剣に憂えられた年だった。そのこともあってiPadへのメディア企業の参加は、本格的なデジタルメディアへの移行＝ビジネスモデルの転換と捉えられている。そして、報道ももっぱらどの会社がAppleと組んだとかいう話が中心になっている。</p>

<p>もちろん、そのような話も重要なのだが、そうしたデジタルへの移行が既定路線に見えるようになったところでむしろ気になってくるのは、iPadへの移行で、新聞や雑誌のiPad上の「紙面/誌面」はどうなるのか、ということ。</p>

<p>Web 2.0移行、多くのメディアサイトが技術やウェブインターフェースの設計ルールに最適化した結果、どこも似たような形のサイトになってしまい、少なくとも視覚的な印象レベルでは没個性的なサイトで溢れてしまった。ただでさえ情報が無料になっているように見える状況で、サイトそのもののコモディティ化に拍車をかけるような外観が相次いだ。</p>

<p>だから、iPadではデジタルになって初めて多様なメディア財の外観がデザインされるかどうかこそが鍵のはず。情報が溢れる中でどうやって人々の注視＝アテンションを集めるか、そのための「外観」競争が、従来の雑誌文化のように展開するのかどうかは、iPadがメディアビューアーとして革新的であったどうかを後日決めるポイントであると思う。</p>

<p>*</p>

<p>以上、iPadについてさしあたって現在、メディア論的に気になっている点を記した。</p>

<p>もちろん、以上は単なる思いつき的アイデアで終わる可能性はある。反対に、iPadが普及していく中で、上とは異なる視点で捉えなければならない問題が生じる可能性もある。</p>

<p>従来のcomputingの様式を更新する動きとしてiPadには注目していきたい。</p>]]>
        
    </content>
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<entry>
    <title>電子ガジェットの始祖であり今日のハッカー文化の源泉ともなったAltairの開発者Ed Robertsの死去</title>
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    <published>2010-04-04T04:52:33Z</published>
    <updated>2010-04-04T04:54:08Z</updated>

    <summary>現在のプログラム可能な個人向けコンピュータの元祖であるAltair8800の開発者であったEd Robertsが亡くなった。享年68歳。 P...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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    </author>
    
        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>現在のプログラム可能な個人向けコンピュータの元祖であるAltair8800の開発者であったEd Robertsが亡くなった。享年68歳。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052702304871704575159680960424558.html?mod=WSJ_Tech_LEFTTopNews">PC Pioneer Inspired Microsoft Founders</a><br />
【Wall Street Journal: April 3, 2010】</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/04/03/business/03roberts.html?ref=technology">H. Edward Roberts, PC Pioneer, Dies at 68</a><br />
【New York Times: April 2, 2010】</p>

<p>Bill Gatesによる追悼はこちら。</p>

<p><a href="http://blogs.wsj.com/digits/2010/04/02/bill-gates-remembers-personal-computer-pioneer/">Bill Gates Remembers Personal Computer Pioneer</a><br />
【Wall Street Journal: April 2, 2010】</p>

<p>1975年にMITS社（Robertsの会社）が開発したAltair8800に魅了されたのがMicrosoftの創業者であるBill GatesとPaul Allen。二人がAltair向けに開発するBASICがMicrosoft起業のきっかけであった。この、当初はホビイスト向けに開発された、つまり文字どおりの「ガジェット（おもちゃ）」であったAltairに触発されて思いついた「単機能のコンピュータをプログラム可能にする」発想が、後年、IBM互換機＝今日のWin-tel機（MicrosoftとIntelが仕様を決めるPCマシン）を生み出す流れのきっかけになった。その意味でRobertsのAltair8800は今日のPC/ウェブ文化の源泉の一つといっていい。</p>

<p>上のWSJの記事にもあるように、Robertsはもともとアメリカ連邦空軍のエンジニアで、除隊後1969年にMITS社を創業した。ホビイスト向けのおもちゃのロケットキットの開発と販売が当初のビジネスだった。つまり、科学・工学の成果を身近なおもちゃに応用して販売するというのが出発点の発想だった。Altairもそうした発想の延長線上で開発された。</p>

<p>だから、文字どおり「電子ガジェット」を現実化した会社だったといえる。先端的な工学の成果が詰め込まれた機器を趣味の対象として＝ガジェットとして売り出す。ガジェットに惹かれるホビイストは、出来上がったガジェットで楽しむだけでなく、そのガジェットを背後で支える構造にも関心を寄せる。</p>

<p>つまり、今日のハッカーに通じるようなハッキング＝リバース・エンジニアリングの視線を生み出すきっかけを与えたものの一つがAltairであった。ガジェットにおいてはできあがったプロダクト以上に、それが「ある技術の成果を体現したもの」であることが大事になる。ある意味で、「工芸における職人の技能を愛でる視線」に近いのだが、工芸と異なるのは、その背後にある技能が普遍的な技術の塊であるところだ。それゆえ、その技術を学ぼうとすればほぼ習得可能であるし、その技術を使ってさらに新たな成果物＝ガジェットを生み出すことができる。</p>

<p>だから、そうしたガジェットに関わるホビイストたちは、大衆化された工芸職人であり、その技能は普遍的であるが故に基本的にはオープンアクセス可能なものである。もっとも、その結果、ガジェット自体は、技術のための技術として、自己目的化した開発に向かう側面もあるのだが。</p>

<p>いずれにしても、AltairによるホビーとしてのPC文化は今日まで連綿と続いているし、そのホビー＝ガジェットの精神がある意味で純化された結果生まれたのが、ハッカーの世界＝文化であったり、オープンソースの世界＝文化でもある。開発が自己目的化して行われるにも関わらずどこかで外部に開かれている、それはもともと「趣味の一つ」でしかなかったから、ということになる。</p>

<p>Altairのホビー性が今日のハッカー/オープンソース的な世界と繋がっていると捉えてみると、やはり注目せざるを得ないのはRobertsがもともと空軍のエンジニアとして先端技術の片鱗に触れていたことだろう。そして、彼が起業したのが1969年というアメリカ史の中でもっとも政治的に激しい運動が起こっていた時期ということだろう。</p>

<p>以後、ホビーとして自走する正確を持つコンピュータ技術については、Robertsは空軍時代の経験に多くを負っていることだろう。そして、当時の空軍といえば、NASA同様、空の防衛のために多額の連邦予算が投入されたところだ。そして、69年というのは、冷戦や公民権運動などアメリカ社会が激震していたときだ。</p>

<p>そういう時代状況の頃に、アメリカ南西部の、ニューメキシコ州アルバカーキーでMITS社を起業してガジェットを開発し売り出すというのは、いわば大きな世界の話から「降りる自由」をRobertsは実践したようにもみえる。</p>

<p>アルバカーキーは、近年は、アリゾナのフェニックスとともに、南西部におけるハイテク産業の拠点都市となって全米でも注目を集めるようになっている。だが、南西部の発展そのものが、冷戦時代になって空軍を中心に大西洋側の防衛ラインを固めるために連邦政府の予算が投下されたことによって始められた性格は強い。いわば、様々な意味で軍や国家という存在のスピンオフが南西部の経済的な発展を支えた駆動因の一つであった。</p>

<p>MITSを起業しAltairの開発に至ったRobertsの振る舞いも、今日の視点から振り返ってみれば、このような錯綜した60年代的な時代状況の産物だといえなくもないだろう。</p>

<p>しばしばPC文化の起源はAppleにありと語られるし、ウェブ文化の起源はシリコンバレーにありといわれるが、それだけにきれいに収まるものでもない。Ed RobertsとAltairのことを振り返ることで、PC/ウェブ文化の幅の広さを確認することができる。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>『神話が考える』は長門有希のトリセツである。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000751.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.751</id>

    <published>2010-04-01T13:52:18Z</published>
    <updated>2010-04-01T23:33:11Z</updated>

    <summary>福嶋亮大の新著『神話が考える』を読んだ。 ユリイカ連載時のものとは大きく異なり、福嶋自身言うようにマニュアル本的な装いになった。マニュアル本...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
        <uri>http://www.defermat.com/</uri>
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        <category term="REVIEW" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>福嶋亮大の新著『神話が考える』を読んだ。</p>

<p>ユリイカ連載時のものとは大きく異なり、福嶋自身言うようにマニュアル本的な装いになった。マニュアル本といっても実用書のようなお手軽なものという意味ではない。簡単にいうと、前から順番に読んでいけば一通り福嶋の言いたいことは素直に読めてしまう、という意味だ。</p>

<p>裏返すと、これは筆者である福嶋が最初に想定読者を頭に描きながら全体の内容構成の組み替えに試行錯誤した後書かれた本、ということ。つまり、デザインが行き届いた本。あえていえば建築物のような本。住む人がどんな人で、その人達の生活様式はこんな風で、だから、使い勝手はこうした方がいい、というようなことを予め想定し（あるいは読者と対話し）図面が書かれた上で、部材の選択や工期、時代状況を含めて作り上げられたもの。その意味で、「2010年現在」の「今」を多分に読み込んだ本になっている。</p>

<p>構成は非常に明快で、ある意味でとても英語的、というか、アングロサクソン的な本の作りになっている。前から読めばわかる。重要な概念は繰り返し主張される。読者の便を考えて、キーワード一覧も添付され、レファランスもしっかりしている。「はじめに」の構成に従って読めば素直に読める。本論から外れた内容で、しかし重要と思われるものはきちんと注に封印されている。</p>

<p>裏返すと文芸批評にありがちな韜晦で晦渋な記述、たとえば<a href="http://www.defermat.com/journal/2010/000689.php">前に少し触れた前田塁『紙の本が亡びるとき？』</a>のような持って回った書かれ方はされていない。あえてわかりやすくいえば、蓮実重彦的な、あるいは、フランス人文思想や批評にありがちな書かれ方はこの本では排除されている。その意味で、とてもアングロサクソン的と上で形容したわけだ。</p>

<p>このように、この本はとにかく読みやすい。ここまで読みやすさに目が行き届いているということは、つまり、この本を使って、皆、「神話」を紡ぐことに全面的に取り組もうではないか、という具合に、単なる神話肯定を超えて、人々に働きかける本＝マニフェストを企図したのではないかとまで思えてくる。</p>

<p>*</p>

<p>なぜ、このように『神話が考える』の記述の容易さから書き始めたかというと、この本の「結構」そのものが、この本のベースとなった雑誌ユリイカ連載時の原稿と大きく様変わりしているから。そこに何らかの状況の変化を感じずにはいられないからだ。</p>

<p>ユリイカの連載は、2008年8月号から2009年8月号まで続けられた。連載初期では、「神話」という一見奇異なテーマを立ち上げるために、「神話」「神話素」「神話の演算」など、神話という創造物生産エンジンの概要に関する記述から筆が起こされている。そこでは、おそらくは福嶋自身が当初着想を得たであろう、レヴィ・ストロースとロラン・バルトがまず参照され、記述のスタイルも、この二人の影響からか、自問自答しつつ論を訥々と進めていく、書き手の思考の流れがそのまま記されているような、フランス人文的（と私が日頃感じている）な淀みを伴った文体で書かれていた。行きつ戻りつ書き進める、書きながら思考を整理しようと試みている、という感じの書かれ方だった（関心のある人は実際に連載原稿に当たってみてください）。</p>

<p>ところが、今回上梓された『神話が考える』では、こうした淀みは綺麗に除去されている。この本では、冒頭で、</p>

<p>神話＝文化における情報処理の様式（方式、アルゴリズム）</p>

<p>と極めて明快に、いわば公理のように定義されている。</p>

<p>この「神話」の項は、他のいくつかの用語、たとえば、「ハイパーリアリティ」「感情資本」「集団言語」などの言葉とともに巻末のキーワード解説に収められている。むしろ、このキーワード解説を常に念頭に置きながら、本文の記述相互間の整合性を高めるように、つまり、できるだけ公理・定理的な体系＝システムとして『神話が考える』という本は記されたと考えていいと思う。</p>

<p>これはシンクタンクやコンサル・ファームなどで一定のボリュームをもつ報告書作成作業をしたことがある人なら了解できることだと思う。客観性を担保するために全体をどう構成するか、細部の記述の間に矛盾が生じないようにするためにどうするか、そして、全体が前からよどみなく読めるよう、承前関係をどう設定するか、書き手としての「私」をいかに消去するか、など。こうした客観文書にするための「バグ取り」作業が、この福嶋の本でもかなり丁寧に行われたような印象を私は持っている。</p>

<p>*</p>

<p>福嶋のブログによれば、こうした記述の変化は、神話という様式によって現代日本（＋世界）を語る根拠を、レヴィ・ストロースとロラン・バルトのようなフランス人文学の碩学から、ノルベルト・ボルツやグレゴリー・ベイトソンのような、生態学・システム論者へとシフトしたためだという。実際、福嶋自身ネタ本と言っているボルツの『世界コミュニケーション』を開くと、そこでは、ルーマンやハーバート・サイモンが召還されていることに気付く。</p>

<p>つまり、『神話が考える』は、サイバネティックスの古典にまで遡り、正統に今の情報化社会の背後にあるロジックを炙り出そうとしたことになる。</p>

<p>補足すると、サイバネティックスという学問体系はおおよそ1930年～50年代に、当時の通信工学、制御工学、人類学、神経生理学、応用数学、などが過激にクロスオーバーすることで立ち上げられた。第二次大戦後、こうした分野の一線の研究者を集めてNYで開催されたメイシー会議が発端と言われる。福嶋が今回参照したベイトソンも『精神の生態学』の中でメイシー財団を通じた異分野の学者との交流が彼の「サイバネティックス」に関する思考の出発点であったと記している。</p>

<p>時代の先後を踏まえれば、レヴィ・ストロースやバルトも、ベイトソンらが開いたサイバネティックス＝情報通信科学・工学の世界観、情報を中心に据えた世界観の影響を受けた中で彼等の思考を進めたと考えていいだろう。たとえば、ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』のプラトーはベイトソンを参照しているという具合に。</p>

<p>一方、ハーバート・サイモンは、人工物工学、すなわちデザインの工学を打ち立てて、その後の経営工学や認知工学に多大な影響を与えた学際的な学者。サイモン自身、ノーベル経済学賞を受賞しているし、彼が拠点としたカーネギー・メロン大学は、スタンフォードとMITに並び称されるアメリカの情報工学のメッカだ。人間の認知限界に注目し「限定合理性（bounded rationality）」を提唱したのもサイモンだ。その意味で今日興隆著しい行動経済学の始祖の一人でもある。</p>

<p>*</p>

<p>こうしたサイバネティックスの流れにまで遡って2010年代の情報化が行き渡った（と了解される）現代社会の文化現象を捉えよう、そして、その動きを肯定し、徹底させよう、というのが、福嶋の意図のように思えてくる。</p>

<p>もちろん、連載時の2008年（着想時の2006-07年？）と比べて2010年現在では、TwitterやUstの興隆によって、実際にウェブ上では神話変換のような方法で生成された文や創造物が圧倒的に増え、それを日々経験することが可能になってしまった。こういう状況の変化＝事実も、ボルツへの戦略転換を後押ししたのだろう。</p>

<p>福嶋の新著はこうした2010年日本（そして世界）の「事実性」を徹底的に認めている。</p>

<p>おそらくは、ボルツ本を屋台骨とすることで、ベイトソン、ルーマン、サイモン、らを召還することの見通しが極めてよくなったことが、事実性の肯定を強く打ち出すことを可能としたのだろう。</p>

<p>（むしろボルツ本や過去のユリイカ連載に対して、『神話が考える』で示したハッキングを実践したのが『神話が考える』という本だということもできると思う。その神話の精神＝ハッキングの精神を言祝ぐからこそ、福嶋自身、ボルツ本がネタ本だと公言して憚らないのだと感じる。ネタ本はあって当然、むしろ、そのネタ本からどれだけ遠くに行けるかこそが神話の力だから。そうやって福嶋自身が神話の中にあることを認めているわけだ）。</p>

<p>たとえば、現代社会の描写を、ボードリヤールがかつて指摘した「ハイパーリアリティ」に満ちた消費社会からスタートし、</p>

<p>ポストモダン社会＝情報化社会</p>

<p>と状況肯定型の定義も与えている。</p>

<p>ITをポストモダン社会の最大の駆動因と捉えることで、現代の日本、そして世界を「ポストモダン社会」と名指すことも躊躇せず行われる。</p>

<p>現在の肯定の最たるものは、現代社会をリチャード・ローティのいう「リベラル・デモクラシー」の枠組みを受容したもののして捉えているところ。一人一人が自分の生活様式を自由に（フリーに）選択可能だということを全面的に認めた上で、仮初めにでもその係留点としての生の選択を与えることが必要となる。そのための生の選択機会を見いだすものとして、ルーマン流の、コミュニケーションが基底となる、オートポイエーシス的な自走システムが肯定される（ローティといいルーマンといい、通常は「保守的」と取られる人たちだから、福嶋はそうした「保守性」の更新も企図しているのではないかと感じている）。</p>

<p>*</p>

<p>さて、いよいよ（ようやく？）ここで、</p>

<p>『神話は考える』は長門有希のトリセツである。</p>

<p>という本エントリーのタイトルに移ることになる。</p>

<p>長門有希というのは『涼宮ハルヒの憂鬱』の登場人物の一人（『ハルヒ』についてwikipediaあたりで参照して下さい）。</p>

<p>物語内で長門有希は「宇宙人」として要約的に記されるが、wikipediaによれば、正確には「情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース」という存在（笑）。簡単にいうと、外見がヒトガタの人形。もっとも有機体として組成されているから実質的には人間と変わらない（こういう存在はSFやラノベではよく登場する）。そして、彼女の送り手である「情報統合思念体」が「宇宙」ないし「宇宙人の親玉」として想定されている。さらに長門の創造主であることを考えると一種の「神」と読み替えてもいい。</p>

<p>つまり、</p>

<p>情報統合思念体＝宇宙＝universe＝神</p>

<p>で、この枠組みでいけば、長門はいわば「天使」のような存在と考えてもいいだろう。</p>

<p>（そして、「天使」という位置づけで以下思いついていることはむしろ映画『ベルリン天使の詩』に基づいている。なお、『ベルリン天使の詩』は是非ドイツ版を。ニコラス・ケイジ主演のハリウッド・リメイク版はハリウッドらしいロマンスものになっていていまいち）。</p>

<p>実際、『ハルヒ』の物語の中では長門は「天使」のように、破格の能力者として位置づけられている。彼女のオールマイティーな能力がしばしば予定調和的（ご都合主義的）に、水戸黄門の印籠のように使われ物語が収束することは多く、それがラノベ的読みやすさ（＝予測のたてやすさ）に貢献している。</p>

<p>余談ながら、他の登場人物には、超能力者（古泉一樹）や未来人（朝比奈みくる）がいるものの、超能力者は「超」・能力限定であるがゆえに徒党を組んで組織をつくらないと活動できなし、未来人はテクノロジーは進歩するが人間の本質は変わらない、というある意味で普通の「人間」である。その分、長門の「破格ぶり」は際だつことになる。未来や過去を見通す、目の前の天候を変える、時間遡行する、などなど。つまり、物語世界の基盤に介入し、ハッキングする力を長門は持つ。</p>

<p>・・・とこの話ばかりしていると前に進まない（笑）ので、ちょっとジャンプすると：</p>

<p>長門は、神から遣わされた天使のような存在として「観察者」に徹する。しかし、物語が進む中徐々にその観察者の立場を捨て、自ら能力限定の縛りをかけ人間に近い存在となることを選択していく（その傾向の暴走を描いたのが『消失』。ちなみに映画は未見）。</p>

<p>*</p>

<p>『世界コミュニケーション』の「はしがき」の中で、ボルツはルーマンの社会システム論を紹介している。</p>

<p>社会システム論の枠組みによれば：</p>

<p>●人間は神に取って代わる、人間は超越者になる。</p>

<p>●従来「超越論的」として論じられてきたものは「セカンドオーダーの観察」によって扱われる。</p>

<p>●語られたことは全て観察者が語ったこと、だから、脱構築可能。（ルーマンとデリダの共闘）</p>

<p>●観察の際の「区別」をずらすことで新規の区別が生まれる。</p>

<p>●区別を大事にしシステムを観察している限り、ゴールも終末もありはしない。</p>

<p>要するに、ルーマンによれば、人間の「主体」は後退し（消失し）、コミュニケーションだけが残る。</p>

<p>福嶋もまとめているように、人間は、オートポイエーシス的な再帰性が支配する世界＝ポストモダンの情報ネットワーク社会で、複雑性を縮減するための結節点、係留点になる。裏返すと意志など持たなくても、人間は係留点として神話演算装置の命じるままに自動的に何かを語るし、何かを創り出してしまう。この人間を創造にしむける存在が「神話」となる。環境・情報という豊饒なアーカイブ＝客体が優位になって「神話（こそ）が考える」。だが、その一方で、神話は「人間」という依り代を通じて具体的な形を得る。神話のアーカイブは情報の海であり、そのままでは認識は不可能だ。</p>

<p>この「神話－人間」の関係は、上で記した「情報統合思念体－長門有希」の関係と同相ではないだろうか。</p>

<p>長門は自らの意志を当初もたない。神話同様、「情報思念体が」考え、長門はそのターミナルとして振る舞う。しかし、その一方で長門を通じて情報思念体は「宇宙人」としての形象を得る。</p>

<p>だから、『神話が考える』は長門有希のトリセツだ。</p>

<p>神話というアーカイブ、神話という演算装置の中で私たち人間がどう振る舞うか、その指南書が『神話が考える』であるからだ。</p>

<p>そう考えると、長門が情報思念体の干渉を少しずつ退け、人形から人間へと向かうプロセスには、私たち人間が神話の網の目の中でいかにして振る舞っていけばよいのか、暗示しているようにすら思えてくる。</p>

<p>映画『ベルリン天使の詩』では尖塔からベルリンの街を俯瞰する天使のショットから始まる。天使が眺める下界＝人間の世界は白黒映像の世界だ。しかし、天使が人間になると決断し人間界に飛び降り着地した途端、画面に色彩が戻り、以後カラー映像となる。長門が人間的に振る舞おうと選択するプロセスもこれになぞらえることができるのではないか。</p>

<p>そして、ルーマンのオートポイエーシスな世界で（セカンドオーダーの）観察者こそが超越者の地位を占めることを考えれば、天使＝長門の取る道は、彼等の存在の変容だけでなく、彼等を取り巻く世界の変容をも同時に意味する。垂直方向の高みに超越者がいる世界から、水平方向の同じ地平にいる、隣に立つ存在が超越者となる世界へと、天使＝長門が存在する世界自身が変容していくわけだ。</p>

<p>*</p>

<p>『神話が考える』は現在のネットワーク社会を全面的に肯定している。全面的に肯定することに賭けているといってもよい。その賭けを成立させるために、現状肯定が惹起しか兼ねない陥穽から抜け出す手だてが必要になる。そのために福嶋は二つのスケッチをしている。</p>

<p>一つは、「神話素」による壊乱。</p>

<p>近年、情報ネットワークによる文化が肯定的に捉えられるようになった背景には、ワッツ＝ストロガッツらによって、スモールワールドネットワークの理論が紹介されたことがある。タコツボ化の危機はハブとなる存在が社会にあることで意外と回避される、という見解が、ネットワーク科学の世界から、経験的知見として提示され、それが故に、逆に「タコツボ化してもオッケー！どこかにハブがいてくれるから」ということになっている。スモールワールドネットワークはタコツボ化のいわば免罪符として機能しているといっていい。</p>

<p>「神話素（レヴィ・ストロース）」はこうした「ハブ」を見出す契機となるものだ。神話素は異なる文化圏の間を貫通する媒介項となる。そうした神話素を高速で発し続けることで、異文化間を架橋する契機が得られるのではないか。そのような期待が込められているようにも見える。</p>

<p>神話素は、異文化間で共通に視認可能な存在として、レヴィ・ストロースが『神話論理』などで記述したアメリカ大陸であれば、自然環境に存在する動物がその役割を果たしていた。それに準じるものは、ネットワーク化によって強化された人工環境の現代においては、有名性の高い商品やキャラクター、あるいはその「固有名」となる。つまり、流通可能性の高いものが今日の状況で「神話素」となりうる。誰もが共通に利用できる資源としての「自然」を人工物の中に見いだす。人工物ならびにその人工物を遍在させる流通システムを含めて、人工物が自然と同等の利用可能資源となっている。</p>

<p>この点でも、福嶋は、「ポピュラー」であることを全面的に支持しているように思える（そして、それがゆえに、ともすれば、ハイアート、純文学、のようなハイカルチャーを想起させるフランス人文的なスタイルを回避したように思える。徹底的に線形の記述に拘る、アングロサクソン的な痩せた書き方に徹することで）。</p>

<p>もう一つは、ローティを批判するジジェクに言及していること。この言及が本文の序章と最終章で繰り返されていることを踏まえれば、『神話が考える』で記述した「神話エンジン」について、後日福嶋自らが更新なり刷新を図る戦略があることを示唆していると思う。</p>

<p>ローティに基づくリベラル・デモクラシーでは公私を二層に分ける。これに対して、ジジェクは、カントを引き合いに出しながら批判を加えている。その批判を踏まえて、公私の可能性について、つまり、私的世界に止まってしまうことをともすれば肯定してしまうローティの図式を批判的に検討するプログラムが『神話が考える』の最後に記されている。</p>

<p>ジジェクは、ローティの立場を名指すとき、capitalist liberal democracyというように、capitalistを冒頭に付けることを忘れない。ローティの視点は資本制を全面的に前提にしたものであることの指摘だ。このリベラル・デモクラシー批判は、最近訳出されたジジェクの『大義を忘れるな』でも取り上げられている。</p>

<p>このジジェクの視点を福嶋は意識した上で、仮置きの、第一段階の現代社会の近似像として『神話が考える』と記したのではないだろうか。</p>

<p>当然、続きはあるはずだ。</p>

<p>*</p>

<p>以上、『神話が考える』について。</p>

<p>何故こんなことを書いたというと、やはり『神話が考える』が想像していた以上に読みやすかったことによる。そのわかりやすさから、かえって、単なる一過性の文化事象を追った「状況論」として解釈され消費されてしまうのではないか、ということを危惧したからだ。</p>

<p>福嶋は、この本によって、彼の考える現代文化批評の一里塚、橋頭堡を築いたと思いたい。当然、この後に、日本といわず、東アジア圏をまずは含んだ、ポピュラーカルチャーの高速流通文化圏の可能性について、彼の中国文化の博学な知識に支えられた、現代中国語圏のアクチュアルな状況報告に根ざした文化批評のプログラムが実践されることだろう。</p>

<p>村上春樹や英米のパルプフィクションから中国の武侠小説まで取り込む福嶋の幅広い視野は、従来の西洋、東洋の枠組みを超え出た、Asia-Pacific時代の、環太平洋の文化批評の核となるパースペクティブを提供してくれるものと、私は夢想している。</p>

<p>おそらく『神話が考える』は折に触れ読み返すことになるだろう。</p>

<p>今後も福嶋の言動には注目し続けていきたい。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p></p>

<p><br />
**********</p>

<p>追記（2010/04/02）</p>

<p>『神話が考える』の第5章におけるドゥルーズ『意味の論理学』の解釈を巡って、福嶋亮大と千葉雅也との間でTwitter上で議論が交わされている。</p>

<p>千葉は<a href="http://www.defermat.com/journal/2009/000668.php">前に観覧したフランス大使館シンポジウム</a>にも登壇したドゥルーズ研究者。パリ留学時に師事したマラブー（この人はデリダの弟子）の提唱する「可塑性」の概念を活用しながら、東浩紀『存在論的、郵便的』の問題意識の発展的継承を試みようとしている。千葉の博士論文についても、書籍としての刊行が待たれる。</p>

<p>このように千葉のようなドゥルーズ研究者と議論が生じるところから考えて、『神話が考える』は理論的強度を伴った論争的な本という側面ももつことがわかる。<br />
</p>]]>
    </content>
</entry>

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    <title>ウェブ時代のインフラは崩壊せずに途絶する。</title>
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    <published>2010-03-25T06:41:27Z</published>
    <updated>2010-03-25T06:42:11Z</updated>

    <summary>前のエントリーで伝えたGoogleのアクションの続報。実際にGoogleが中国のサイトを閉めて、香港のサイトに移って以後の様子を伝える記事。...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p><a href="http://www.defermat.com/journal/2010/000743.php">前のエントリー</a>で伝えたGoogleのアクションの続報。実際にGoogleが中国のサイトを閉めて、香港のサイトに移って以後の様子を伝える記事。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704211704575139722132572954.html">Google Braces for Fallout in China</a><br />
【Wall Street Journal: March 24, 2010】</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/03/24/technology/24google.html?ref=technology">Google Faces Fallout as China Reacts to Site Shift</a>【New York Times: March 23, 2010】</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704896104575139742687410862.html">Leaping the Great Firewall of China</a><br />
【Wall Street Journal: March 24, 2010】</p>

<p>正確に言うと、中国国内にいる人がGoogle.cnにアクセスしようとすると、Google.com.hkという香港のサイトにリダイレクトするようになっている。こうすることで、Googleは自ら中国のcensorship rule（検閲ルール）に従うことを回避している。</p>

<p>そのため、香港のGoogleサイトについては中国からアクセスしても検閲は従来通り行われるようだが、その検閲はGoogle自身によって行われたのではなく、中国当局によるものになる。結果的に、広く世界に対して検閲censorshipの存在を知らしめることになっている。</p>

<p>念のため記しておくが、一国のルールをどう定めるかは当該国政府に委ねられているし、そうした主権の行使は国際法的に認められている。だから、当該国のルールに従えないと判断した企業があって、当該国がルールを変更せずその国内企業に対してルールの遵守を求めた場合、その企業はその国から撤退せざるを得ない。Googleの今回の行動はそうした手順に従ったもの。</p>

<p><a href="http://www.defermat.com/journal/2010/000743.php">前のエントリー</a>でも触れたように、Google以外の他の企業はどうするのか、ということはもちろんある。このあたりについては、NYTがリベラル紙らしく、Googleの立場を支持する論説を出している。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/03/24/opinion/24wed2.html?ref=opinion">Google and China</a><br />
【New York Times: March 23, 2010】</p>

<p>ただ、国外に退去するという選択肢を取れない、当該国本籍の企業はどうするのかという問題はあって、現実的にはGoogleの撤退の対応に追われる中国の企業は当たり前のことながら多い。</p>

<p>たとえば、従来サイト機能の一部としてGoogleの検索エンジンを実装していた中国のサイト群は、一斉にそのエンジンを中国の検閲ルールに準じたものに変更しないといけない。</p>

<p>もっとも、そうした動きは、結果的に、どれだけGoogleが中国のウェブサイト群に浸透していたかもわかろうというものだが。</p>

<p>*</p>

<p>さて、ここで一段目線を上げて、ここで何が起こっているのかに目を向けてみたい。</p>

<p>ここで生じているのは、ウェブはソフトウェアの集積体でしかないため、撤収というと、ある日突然、消えるかのごとく目の前のものがなくなってしまうということ。これが物理的な制約を伴う事業活動をしている企業であれば、たとえば、店舗の看板を代えるとか視覚的にわかりやすい情報も生じるし、そうした作業のためには物理的に相応な時間も要する。</p>

<p>だが、ウェブの撤収は、突然、瞬間的に行われてしまう。</p>

<p>しばしば社会的インフラの停止は、建造物の崩壊、あるいは地震、というもので表現されてきたが、ウェブが中心になった世界では、そうした破壊のイメージは伴わず静かに行われる。崩壊ではなく、突然、途絶する。</p>

<p>きっと、建造物の崩壊ではなく、むしろ、電話が突然切れてツー音だけが流れる状態が、これからのインフラ停止の比喩となるのだろう。</p>

<p>ウェブ時代のインフラは崩壊せずに途絶する。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>Googleの待避をきっかけに香港はITビジネスのオフショアとなるのか。</title>
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    <published>2010-03-24T07:07:38Z</published>
    <updated>2010-03-24T07:07:11Z</updated>

    <summary>Googleが中国政府の検閲ルールに従わないことを明確にし、その結果、中国市場からは表向き撤退することになった。表向き、と断ったのは、中国人...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Googleが中国政府の検閲ルールに従わないことを明確にし、その結果、中国市場からは表向き撤退することになった。表向き、と断ったのは、中国人向けのサービスのオペレーションを香港で行うことに決めたからだ。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/03/23/technology/23google.html?ref=technology">Google Shuts China Site in Dispute Over Censorship</a><br />
【New York Times: March 22, 2010】</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704117304575137960803993890.html?mod=WSJ_Tech_LEADTop">Google Stops Censoring in China</a><br />
【Wall Street Journal: March 22, 2010】</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704117304575138223838886964.html?mod=WSJ_Tech_LEADTop">Google's Search for Web Freedom</a><br />
【Wall Street Journal: March 22, 2010】</p>

<p>香港は、1997年にイギリスから中国に返還されたが、返還後50年間、つまり2047年までは「特別行政区」として自治権が認められている。今回のGoogleの決定はその自治権がある香港への待避ということになる。</p>

<p>この決定がGoogleにとって想定内のアクションなのか、それとも苦肉の策なのか、は判断する材料がない。しかし、中国市場から「半歩後退」したに止まるように見える今回の行動は、他のアメリカのIT企業にとっても、あるいは、待避された当の香港にとっても、興味深い結果をもたらすように思える。</p>

<p>今後の動きとしてまず注目されるのは、Googleの動きに呼応してアメリカ国務省がどう対処するのか。Clinton国務長官がfreedom of Internetの確保を国務省の行動原理の一つに据え、しかもそれをアジア外交の主軸に据えようとしている。このことを踏まえれば、国務省が全く動かないということはないだろう。つまり、本件は外交問題として浮上する可能性はかなり高い。</p>

<p>Googleが中国市場からの撤退可能性を公表した際には、同時にハッキングをされていたことも発表している。その後、Googleはアメリカ連邦政府と協力して、cybersecurityの維持に関与すると公表している。実際、そうした動きも始まっている。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704841304575137994061837952.html?mod=WSJ_Tech_LEFTTopNews">U.S. Aims to Bolster Overseas Fight Against Cybercrime</a><br />
【Wall Street Journal: March 22, 2010】</p>

<p>こういう状勢を踏まえればアメリカ国務省が乗り出す可能性は高い。そして、いったん外交問題となれば、アメリカの他のIT企業にもGoogleと同じ問題が生じる可能性が出てくる。その結果、中国での営業活動について、アメリカ政府と中国政府との間に挟まれ、ジレンマに陥る可能性もあるわけだ。随所で報道されているように、中国市場からの撤退はアメリカ企業にとっても、その企業に投資している投資家たち（大手ファンドや投資銀行）にとっても、非常にリスクの高い決断になる。実際、Googleにとっても、アメリカに次ぐ利用者数を中国では抱えているという。</p>

<p>そこで「半歩後退」を維持できる香港の立場がクローズアップされる。</p>

<p>しばしば指摘されているように、香港は返還前から中国への投資の窓口として機能してきた。イギリス系の香港上海銀行のような銀行が控えることで、欧米資本のみならず華僑資本（台湾資本を含む）が中国に流れ込む際のゲートウェイとして機能してきた。欧米資本のアジアにおける最前線として香港は機能してきた。</p>

<p>香港の中国返還後は将来的な政治体制への懸念から、香港に代わってシンガポールがアジアの金融の中心になる動きが生じている。シンガポールについては最近では日本のファンドや起業家も本社機能をシンガポールに移す動きが出てきているくらいだ。</p>

<p>そうしたシンガポールの躍進に対して、香港が、まさに玉虫色であるが故の立場から、アメリカ企業の中国市場における拠点となる可能性が、今回のGoogleの動きによって浮上してきたのではないだろうか。</p>

<p>今日の金融ビジネスは、一皮むけばその実体はITビジネスだ。企業や人々の銀行口座の維持や送金業務によって基本的な顧客情報も抱えるデータバンク事業でもある。そして、ここに今流行のデータセンタービジネスも関わってくる。</p>

<p>ただし、上で記したCybersecurityの問題は、まさにこうしたデータセンター業務、顧客情報を扱う業務のセキュリティに関わる話。この点でも、金融ビジネスとITビジネスは表裏一体だ。</p>

<p>想像するに、イギリス統治領時代の香港は、東洋（＝中国）と西洋（＝イギリス）が交叉する不思議な都市だったのだろう。しかも、米ソ冷戦という国際関係の枠組みがある中で、中国とイギリスという、米ソそれぞれの陣営に分けられてもおかしくない立場にある二つの国が交叉する場所としてあった。もちろん、在外華僑のネットワークも関わっていた。そのような東西の文明、文化が交叉する場所で、どちらの論理も習慣も併せのむような、ある種の緩衝地帯として香港はあったのだと想像される。</p>

<p>だとすれば、今回のGoogleの動きによって、香港は欧米系の金融＝IT企業の待避場所、一種のアジールのような場所に位置づけられるように思えるし、その一つの帰結として、金融ビジネスにおけるオフショアのように、ITビジネスにとっても複数の文化の系譜に連なるビジネスルールが共存できるような場所として、相当曖昧だが、それゆえ法的問題に対しては寛容な解決策を模索できるような場所として浮上してくるのかもしれない。</p>

<p>以上は、もちろん、未来の一つの姿を空想してみたものに過ぎない。けれども、そうした空想を呼び込んでしまうだけの磁場が香港にはあるように思えるし、その磁場にGoogleが接続するところが、そうした可能的未来の蓋然性を高めてしまっているようにも思える。</p>

<p>今回のGoogleの動きで香港がどうクローズアップされていくのか。シンガポールや他のアジア都市の動向も横目に見ながら、今後の動きに注目していきたい。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>Google Broadbandの全米誘致合戦</title>
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    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.741</id>

    <published>2010-03-23T12:46:03Z</published>
    <updated>2010-03-23T12:50:43Z</updated>

    <summary>GoogleがBroadbandサービスを始めることは前にも紹介したが、どの都市で始めるかという選択は、希望する都市を募った上で行われる。そ...</summary>
    <author>
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        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p><a href="http://www.defermat.com/journal/2010/000710.php">GoogleがBroadbandサービスを始めることは前にも紹介したが</a>、どの都市で始めるかという選択は、希望する都市を募った上で行われる。その希望表明の締め切りが今週金曜に迫っているため、全米で多くの中小都市がGoogleの目を引こうとアピール合戦に精を出している。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/03/22/technology/22stunts.html?ref=technology">Hoping to Attract Google? Go Jump in the Lake</a><br />
【New York Times: March 21, 2010】</p>

<p>どこの都市がエントリーしようとしているかは、上のNYTの記事を実際に見てもらえばいいが、Googleの名誉のために街の名前にGoogleをつけようとネーミングライツ提供のようなことを提案するところもあれば、わざわざPR映像を作って市長や議員の熱意を示したり、といった具合に、どの都市もGoogleの誘致に必死だ。</p>

<p>ただ、こういうところはとてもGoogle的だし、アメリカ的だ。</p>

<p>Google的というのは、Googleが構想を発表し、この指止まれ！式に、参加者を募っているところ。もちろんオークション方式ではないが、それでも、ある土台（＝プラットフォーム）の上でできるだけ多くの人に参加してもらうことで全体のクオリティを高め、同時にその参加者の多さ自体が一種のパブリシティになっていく展開。これは、AdSense以来Googleが提供してきたサービスに似ている。参加が参加を呼ぶシステム。</p>

<p>Broadbandの配備については、先日FCCからNational Broadband Planとして政策が発表されている。</p>

<p><a href="http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/03/19/AR2010031900807.html">FCC's plan for broadband Internet access falls short</a><br />
【Washington Post: March 21, 2010】</p>

<p>このプランでは、地上波デジタルテレビ移行後のアナログ周波数帯を活用した無線インターネットが強調され、有線ブロードバンドを提供する電話会社とケーブル会社との間で新たな競争、しかも光ファイバ敷設などの設備投資競争を促すようなスキームが想定されている。また、ブロードバンドを従来の電話に代わるユニバーサルサービスと位置づけ、電話のように公共サービスとして利用者が負担可能な(=affordable)料金で利用できるような体制を整えようとしている。</p>

<p>ただ、政策の青図はできあがっても、それが実際に稼働するまでには時間がかかる。連邦議会で法案審議も必要になるし、そうなれば当然電話会社やケーブル会社からの反対のロビイングも行われる。法が成立してもアメリカの場合、それを裁判所に持ち込めば少なくとも施行を遅らせることができる。テレビ局からきちんと周波数を回収することができるのか、という問題も生じうる。</p>

<p>そういう中で、民間企業、この場合はGoogleがとりあえずやれるところから始めてしまう。これがとてもアメリカ的なところ。そして、そうした民間企業の動きの方に、連邦政府よりも先に飛びついてしまう地方政府の動きもとてもアメリカ的。</p>

<p>NYTが紹介する誘致合戦はたわいもないといえばたわいもないことだが、それでも、シリコンバレーの会社＝Googleがミネソタやカンザスのような中西部の田舎町に出かけていってブロードバンド事業を行う。ウェブであれば全米といわず世界中にサービスを提供している会社が、具体的な都市に降り立ってそこで地域性に制約された事業に着手する、というのもいろいろと考えさせられる。事業なのかイベントなのかよくわからない、けれども参加者は高揚する、というのは、publicの性格のあるビジネスを行うにはやはり重要な要素のように思える。</p>

<p>どの街にGoogleが降り立つのは、発表を楽しみにしたい。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>ソフトウェア化で可能性を拡げる電子マネー</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000740.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.740</id>

    <published>2010-03-22T01:07:17Z</published>
    <updated>2010-03-22T01:08:30Z</updated>

    <summary>WIREDによる電子マネーの特集記事。 The Future of Money: It’s Flexible, Frictionless a...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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        <category term="NOTE" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>WIREDによる電子マネーの特集記事。</p>

<p><a href="http://www.wired.com/magazine/2010/02/ff_futureofmoney">The Future of Money: It’s Flexible, Frictionless and (Almost) Free</a><br />
【WIRED March 2010】</p>

<p>内容はPayPalを中心に以前から言われてきたものをまとめた感じのもの。とはいえ、データセンターに期待が集まる昨今では、電子マネーのあり方そのものも再度考え直す時期にあることを踏まえると、その意味では、こうしたサーベイ記事も頭の整理に役立つ。</p>

<p>電子マネーというと「マネーの電子版」のような字面に沿った素朴な同語反復的理解に終始しがち。しかし、PayPalのような仕組みが登場することで「マネー」の概念そのものから再検討が始まる。</p>

<p>電子マネーはデータとしてはただの数字の列。それに尽きる。だから、電子化されてマネーのあり方が変わるとすれば「マネーに対する操作」の部分のはず。</p>

<p>上のWIREDの記事によれば、そうした「マネーデータの操作」についてのレガシーシステムは、銀行とクレジットカード会社が所有（専有）していることになる。銀行については、セキュリティの高い送金システムや、公共料金などの自動引き落としシステムがそれだし、クレジットカード会社は、文字どおりクレジットカードによる、売買と決算の時差の調整、や、リボルビングのような月賦システムの導入、ということになる。</p>

<p>ちなみにアメリカの場合、クレジットカードは組織的な月賦販売を可能にするという点で、大量消費社会を現出させた影の立役者であった。クレジットカードは「ツケによる購入」を一般化させた点で、誰もが簡易なローンを組めるようにしたことと同じ。そして、クレジット＝簡易ローンによって必要なときに必要なお金を調達することができ、消費者の購買可能性を高め、ひいては大量生産・大量消費の実現に大きく貢献した。</p>

<p>（忘れられがちだが、クレジットカード大手のVISはもともとはBank of America(BoA)によって始められた。欧州資本の注入窓口から成長した東海岸の銀行に対してBoAはカリフォルニアの地場産業から上がった資本を蓄積して成長した文字どおりのpeople's bankであった。今で言えば消費者金融に近い所からスタートしたBoAだからこそクレジットカードのような、消費者のための金融サービスを開発することができたわけだ）。</p>

<p>もっとも、クレジットカードシステムは、簡易ローンという性格から、将来の購買・消費可能性を現在に引き寄せるところがあり、広い意味では、今日のサブプライム破綻に繋がる、普通の人々の購買感覚を常態化させてしまったともいえる。つまり、目の前にある今の消費を将来のキャッシュフロー込みで行うことを習慣化させた。その見込みキャッシュフローの源泉がローンの返済が未完の、今済んでいる家だった、というのがサブプライム破綻の背後にあった。</p>

<p>*</p>

<p>とまれ、元に戻ると、こうした「マネーに対する操作」を銀行やクレジットカード会社が専有できたのは、そのための情報インフラが高価なため専業者しか行えなかったから。しかし、モバイル端末、中でもSmartphoneの世界的浸透によって、こうした情報インフラ整備はもはや参入障壁ではなくなった。</p>

<p>こうした時流の中で、「マネーデータの操作」に照準した企業が今後様々に出てくるだろう、というのがWIRED記事のポイント。PayPalが取り上げられたのも、PayPalが送金操作の簡易化・安価化で、そこから既存システムへの挑戦を始めているから、という位置づけによる。</p>

<p>銀行が送金業務を担ってきたのは、マネーがコインや紙幣の頃の歴史を背負っているからだし、そうした物理的実体のマネーを実際に運ぼうとすると途中で強盗に襲われる可能性もある、というのが、銀行間の為替決済が始まった背景だと言われる。銀行に預金をして、銀行間決済を一定期間のお金の出し入れを全て見た上でグロスで行えば、そもそも送金業務を実際に行う手間も減るというのが、為替決済が起こる出発点にあった。こうした為替決済の利便性によって、預金という形で銀行にマネーが集中するのを促し、マネーの扱いを一手に引き受ける機関として銀行が社会的に位置づけられるようになった。また、マネーが集中しているので、期限付き決済証書であった小切手や手形の割引業務も引受それにより通常のビジネス活動の流れに銀行業務が組み込まれることになった。</p>

<p>なお、こうした銀行業務の一部は、他産業で資本蓄積が進んだ帰結として、たとえば手形割引のような業務は、今日ではファクタリング業務という形で一般企業も請け負うことが可能になった。ある産業内の一位、二位企業を中心に、商流の多い大企業が一部引き受けるようになってきている。</p>

<p>とはいえ、いまだにマネーを扱う商慣習あるいは決済慣習は、原初の銀行取引のあり方に大きく規定されている。クレジットカード決済もある意味ではそうだ。</p>

<p>そして、こうしたマネーにおけるレガシーシステムに対して一石を投じようとするのがPayPalであり、さらにその波紋を銀行業務そのもののイノベーションにつなげてしまおうというのがWIREDの特集が目論むものだ。</p>

<p>従来の銀行やクレジットカード会社の商慣習を一端忘却して、電子マネーも他のデータ同様、ただのデジタルデータである事実に素直に向き合えば、その「データ操作の可能性」は無数にあるはずで、そこに多大なチャンスがあるのではないか、ということだ。</p>

<p>たとえて言えば、既存の電話システムに対してGoogle Voiceが提起した可能性に近い。Google Voiceが提案したのは、個人がそれぞれ自力で電話番号間の転送設定を行えるようにすること。それは電話用の音声データを、他のデータ同様に自由に扱おうとするもの。電話をe-mailのフォワード設定と同じように個人が扱えるようにすること。</p>

<p>だから、電子マネーについても、その数字データをどうのように処理するのか、その部分に知恵を巡らすことで、様々な可能性が生まれるはずだ。</p>

<p>たとえば、最近の日本のベーシックインカム（BI）論議では、BIを支給しても本人以外の人間が着服したり、生活の基盤として支給したにも関わらずたとえばギャンブルですってしまった、というような事態を未然に防ぐために、BIを使途が限定された電子マネーとして支給すべきだという意見がある。この例では、電子マネーに使途を制限する情報を付加したり、支給の際に本人認証を必要としたり、という具合に、電子マネーに様々な属性情報を付加することで、お金の使い方を一定方向に水路づけることが可能になる。</p>

<p>このBIの例は、政府がそうした使途限定のマネー（地域振興券みたいなものと思えばよい）のスペックを考えることになっているが、なにもマネー情報の処理方法の企画・開発は政府が専有するものではない。たとえば、ポイント制の導入によって、ダイナミックに割引タイミングを設定することは電子マネーだからこそできることで、当のポイント制は民間企業が導入した（もちろん、ポイント制の総量が増えれば、それは金融政策の実行上、政府がカウントすべきマネーとして浮上し、それには相応の規制がかけられる可能性があるが、しかし、その開発は民間の現場発想だった）。</p>

<p>このように、電子マネーをただのデータと考えれば、可能性はいろいろと広がる。</p>

<p>BIの議論がそうであるように、電子マネーによって、富の配分方法にもダイナミックに介入することができる。たとえば、「贈与」や「寄付」にあたるようなマネーの扱い方も可能になる。</p>

<p>今まで、電子マネーはもっぱら利殖のために、つまり資本の自己増殖の方向で錬磨されてきた。広い意味で、有価証券の電子化もデリバティブの開発も、マネーの態様のバリエーションと考えれば、資本の自己増殖に資する開発方向であったといえる。ただ、これは電子マネーをもっぱら金融産業が専有してきたから生じた事態だと捉えることもできるだろう。だから、電子マネーのスペックやそのための開発を非金融産業が行えば異なる可能性を追求することもできるはずだ。たとえば、贈与や寄付、つまり等価交換や瞬時決済を必要としないお金の流れ方について、利用者がソフトウェアの支援を受けて自分で設定可能にすることもできるだろう。</p>

<p>原理的には、任意の支払い方法が、「マネーデータの転送」×「ソフトウェア」という形で多様な形で提供することが可能になる。この方向で知恵を巡らすことが、今後の電子マネーの鍵になる。銀行やクレジットカード会社によるレガシーな情報システムのことは一端カッコに入れて、自由に想像してみること。そうして自由に想像したビジネス可能性は、Smartphoneによる世界的なユビキタス化によって、実現可能性が著しく高まっている。</p>

<p>世界市場を見据えるためにはレガシーを忘れてみる。それが出発点になる。</p>]]>
        
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    <title>ガイ・カワサキの経営要諦</title>
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    <published>2010-03-21T00:53:44Z</published>
    <updated>2010-03-21T14:06:42Z</updated>

    <summary>Appleでのマーケティングの経験を出発点にして、シリコンバレーのガジェットのマーケティングについて多くの発言をしてきた、ガイ・カワサキがN...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Appleでのマーケティングの経験を出発点にして、シリコンバレーのガジェットのマーケティングについて多くの発言をしてきた、ガイ・カワサキがNYTのインタビューを受けている。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/03/21/business/21corner.html?pagewanted=1&ref=media">Just Give Him 5 Sentences, Not ‘War and Peace’</a><br />
【New York Times: March 19, 2010】</p>

<p>驚いたのはカワサキが宝石商に勤めていて、そこでマーケティングの要諦を学んだというところ。けれどもインタビューの続きを読んでいくと、とても理に適っていることがわかる。</p>

<p>カワサキが宝石商で学んだことはhow to sell（販売方法）で、そこからビジネスの要はsalesだと確信を得るに至ったという。</p>

<p>販売が継続している限り、そのビジネスゲームに止まり続けることができる。つまり、消費者が商品を買い続けてくれる状況が確保されていればいいということ。これは要するに、営業活動が回っていて、とにかくキャッシュフローが流入し続けることが大事ということ。</p>

<p>当たり前のことのように聞こえるが、大企業になり扱い品目が増えていくにしたがって個々の商品をそのようなシンプルな見方で管理することは難しくなっていく。とりわけ、耐久消費財メーカーの場合は継続的な技術開発が必要で適宜それらを戦略的商品として位置づけなければならず、ビジネスとして止まれるだけのキャッシュインが見込まれるまでは我慢の時代が続くし、全ての商品で全戦全勝というわけにもいかない。Sales担当の人間は確率的にババをつかまらされるリスクを負う。そのため、シンプルにsalesが大事と確信するには相応の経験、とりわけ成功体験が必要になる。これは成熟社会といわれる今日では、そこが日本であるかアメリカであるかを問わず、なかなか実感することの困難な経験になってきている。</p>

<p>そこで、カワサキのように、自らの経営者体験の原点にsalesがある、という発言はそれなりの重さをもって響いてくる。</p>

<p>そして、Druckerを好んで読んだというカワサキが言うことは、さすがにDrucker的。</p>

<p>たとえば、カワサキによれば、よい経営者は自分よりも優秀な人材を雇う、という。逆に、ダメな経営者ほど、自分の地位を確保するべく、自分よりも劣った人材を雇ってしまうと。</p>

<p>あるいは、カワサキが彼のスタッフに伝える、「世界をもっとよい場所にするためにビジネスを行う」というのもシンプル。これはApple時代にSteve Jobsの「世界を変える」という発言からも学んだことのようだ。</p>

<p>ただし、ビジネスコミュニケーションは簡潔であることが大事で、そうしたコミュニケーション能力こそをビジネススクールでは教えるべきだと釘を刺すことも忘れない。日々のビジネスメールで、世界の平和を訴えられても困るからだ、という。</p>

<p>また、学生は次の三つから最低限一つは知識をきちんと持つようにして欲しいと述べている。</p>

<p>作る(make)こと、<br />
売る(sell)こと、<br />
支援(support)すること、</p>

<p>宝石商でビジネスにはいかに信用が大事なことか体で学び、DruckerとJobsの薫陶を受けたカワサキらしい指摘ということになる。<br />
</p>]]>
        
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    <title>テクノロジーが「発酵」する街、Bay Area</title>
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    <published>2010-03-18T08:43:58Z</published>
    <updated>2010-03-18T09:02:04Z</updated>

    <summary>Craigslistの創設者であるCraig Newmarkが、San Franciscoを中心とするBay Areaのカルチャーについてイ...</summary>
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        <name>junichi ikeda</name>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Craigslistの創設者であるCraig Newmarkが、San Franciscoを中心とするBay Areaのカルチャーについてインタビューを受けている。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704131404575117680090784268.html?mod=WSJ_Tech_LEFTTopNews">The Ups and Downs of Being a Tech Nerd</a><br />
【Wall Street Journal： March 18, 2010】</p>

<p>Craigslistはもともと掲示板サービスから始まったのだが、普及が進んでいくうちに、その掲示板に求人情報や不動産情報が自主的にポストされるようになり、いつの間にか全米でこうした商業利用が当たり前になった。識者によっては、Craigslistによって、新聞のclassified adが食われてしまって、収入減につながったという人もいる。全米で17番目にアクセス数の多いサイトという事実もこのサイトの有用性を物語っている。もちろん、掲示板サービスの常として、いい面ばかりでなく悪い面もある。売春斡旋や非合法商品の売買などの温床、という指摘や非難もあり、いくつかは実際に社会問題化している。</p>

<p>いずれにしても、それくらい社会的影響力のあるサイトとしてCraigslistは位置づけられている。その創設者がCraig Newmark。</p>

<p>上のインタビューではいくつか興味深い発言をNewmarkはしている。</p>

<p>たとえば、Bay Areaは一般に思われているよりも保守的だ、というくだり。いうまでもなくSan Franciscoは60年代に対抗文化の中心地であった。その代名詞が音楽ムーブメントであったSummer of Loveなわけで、そのイメージがいまだにSan Franciscoには重ねられることが多い。だが、Newmarkによれば、今ではそんなことはなく人々はもっと保守的だという。破壊的にリベラルだというわけでもなく、むしろ、普段の生活は穏やかで、彼の周囲の人々は、周りのものごとを気遣っているタイプだと語っている。</p>

<p>もっとも、全米では、分裂よりも共通するものの方が多いと応えている当たりは、保守的というようよりも共同体志向的であることを示唆していて、ジジェクいうところのliberal communistというような、伝統的なレフト/ライトの二分法には納まらない、中庸の心性を有しているという方が適切なのかもしれない。</p>

<p>このインタビューで個人的に一番興味深かったところはBay Areaを形容するのに“technology ferment (技術の発酵)”という表現を使っているところ。「発酵」というのだから、技術は時間を経るうちにあたかも酵母によるかのように熟成されていくことを示唆しているし、「発酵」というのだから、その技術は一種の苗床のようなところに置かれていることもイメージされる。このあたりは、ジットレインいうところの、generativity（生成性）がそのまま街や住民の中にしみこんでいるように感じられて興味深い。もちろん、その技術はITだけではなくバイオやグリーンも含む。</p>

<p>そうした技術開発に取り組むに当たって、Bay Areaでは失敗を恐怖することが他の地域に比べて少ないとNewmarkは応えている。失敗してもう一度トライすることもできるし、以前は技術開発で競合していた企業で働くことすらBay Areaではできるという。だとすると、Bay Areaの技術者にとっては、どこかの企業に所属していることは大きな技術開発を行うための一つの手段にすぎないのではないかと思えてくる。とんでもない技術開発をすることが最終目標であって、そのためにどこに所属するかは一つの状況に過ぎない、というような姿勢があるということ。</p>

<p>もっとも、このように信じることができる時点でBay Areaが技術者にとってのコミュニティとして強固に存在していることも透けて見えてくる。そうしたところは、インタビューの最後ので、とてもgeek的でありnerd的で生活態度のエピソードからも窺い知れる。</p>

<p>Newmarkは、自然が好きだが僕は同時にカウチポテト族だからということでリスや鳥のえさ場や籠を用意しながらそこに集まってきた鳥やリスをカメラで撮影しながら家の中で眺める。それを好んでしているという。このことの価値判断は脇に置けば、これもまた一つのライフスタイルだ。そうしたライフスタイルがありなのも、またBay Areaなのだろう。</p>

<p>もちろん、NewmarkがBay Areaを代表する人物だというつもりはない。仮にそうだとしても、これぐらいのインタビューで全てがわかろうはずもない。だが、一つのイメージをつくることはできるだろう。もちろん、それは、ウェブで介されて届けられたこのWSJの記事によってでしかない。もっとも、ウェブを介した、媒介された情報を見ているという意味では、私も、あるいは、このエントリーを読んでいるあなたも、Newmarkとたいして変わらない。私たちは私たちで、ある意味で、鳥やリスを眺めているのと同じ状態にあるわけだから。</p>

<p>さらにいえば、媒介された現実に触れているという点では、ウェブもテレビも、その他のメディアも変わらない。だから、Newmarkの姿はある意味私たちの姿でもあると思っていいようにも思う。あくまでも、一部分だと思われるが。</p>

<p>とはいえ、気になることがあって、それは「テクノロジーが発酵する場所。Newmarkが感じる、技術の苗床のような場所は、Bay Areaの外にもあるのだろうか。あるいは、私たちの傍にあるのだろうか。これは彼我の差を作るものなのかもしれない。</p>

<p>短い割にはいろいろと空想を巡らすことのできる、面白い記事だった。<br />
</p>]]>
        
    </content>
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    <title>Sergey BrinとInternet Censorship</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000727.php" />
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    <published>2010-03-14T14:16:35Z</published>
    <updated>2010-03-14T14:20:44Z</updated>

    <summary>Googleの中国からの撤退問題が最初の山場を迎えている。 2010年に入ってすぐにGoogleが発表したように、同社は検索結果の表示に対す...</summary>
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        <name>junichi ikeda</name>
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        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Googleの中国からの撤退問題が最初の山場を迎えている。</p>

<p>2010年に入ってすぐにGoogleが発表したように、同社は検索結果の表示に対する検閲について、中国政府が基準を緩和しない限り、中国市場との撤退もあり得る、と公表した。それに対して中国当局高官によればそうした基準を緩和するつもりはなく、Googleがその基準に従わないならば「unfriendly（友好的でなく）」で「irresponsible（無責任）」であるというコメントを出している。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704131404575117120385488164.html">China Threatens Google</a><br />
【Wall Street Journal： March 13, 2010】</p>

<p><a href="http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/03/12/AR2010031203564.html?sub=AR">China holds firm against Google, says firm must obey its laws</a><br />
【Washington Post： March 13, 2010】</p>

<p>もちろん、現段階では、アメリカの一企業であるGoogleと中国政府とのやりとりに過ぎず、アメリカ連邦政府、特に国務省は静観している。ただし、Googleが公表通りの理由で中国市場から撤退するような事態に至った場合は、「インターネットにおける自由」を理由に国務省が介入し、その結果、外交問題に発展する可能性が出てきている。</p>

<p>アメリカ国務省としては「インターネットにおける自由」は、アジア諸国との外交において基本姿勢として打ち出していく方向にあると、上のWSJの記事は伝えている。「自由」の基準において、単に経済的な自由に止まらず、より広汎な政治的な自由、意思表明ができる自由にまで広げていきたいというのが、国務省の考え方のようだ。</p>

<p>外交の指針として採用する以上、単に空想的な理想を主張しているのではなく、その基準の採用によって生じる様々な利得も計算に入っていると思われる。世界中の人口分布を踏まえれば、アジアには中国やインドなど多くの人口を抱える国が多い。アジア諸国において、基本的なコミュニケーションツールとしてインターネットが急速に普及しつつある中、たとえば、今回の「検閲（censorship）」のような問題は、インターネット上のアプリケーションの開発やマーケティングの点で、アメリカで開発されたものがそのままの形で投入できないような事態を引き起こす。昔、日本市場解放の際に言われていて非関税障壁のような扱いと捉えてもいいと思う。</p>

<p>もちろん、censorshipは国内基準に基づくものだから、外交の世界の言葉では内政干渉だと応えればよいし、多文化主義的状況を踏まえればそうした主張を論理だけで覆すのは難しくなる。そこで、Googleの検索エンジンのような、インターネット利用の基本中の基本、インフラ的サービスを外交の俎上に載せ、利用者の意向を有権者や国民の意向に読み替えることで、何がより適切でより正しいことであるか、を公の議論に組み替えていこう、ということになる。</p>

<p>この点で、Googleの創立者の一人であるSergey Brinの生い立ちが、こうした「より適切でより正しい」基準を提示していく上で注目を集めている。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703447104575118092158730502.html?mg=com-wsj">Soviet-Born Brin Has Shaped Google's Stand on China</a><br />
【Wall Street Journal： March 12, 2010】</p>

<p>Brinはモスクワ生まれのユダヤ系で、幼少の頃、両親とともにアメリカに移民した。そうした境遇からソ連時代の検閲制度がいかに社会を息苦しくしていたかに言及し、同じことが繰り返されるのをよしとしたくない、という考えがあるようだ。もっとも、6歳の時に移民したというのだから、当時のソ連の検閲制度がどういうものであるかはBrin自身が実感してわかっているということではないだろう。おそらくは学者であった両親から聞かされた話ということだろう。</p>

<p>それにしても、Brinの生い立ちは、今回の問題を検討するときには、ソ連という補助線を提出することができるため、それだけで論争を活発化させる効果がある。もちろん、Googleのモットーである“Don’t Be Evil”とも関わる。</p>

<p>補足しておくと、アメリカの訴訟でよく話題になる「表現の自由」というのは、単に個別表現の自由を守れ、というような話ではなく、より直接的に、政治的意思の表明や、反宗教的な意志の表明に対して、連邦政府からの圧力や介入を受けないためのもの。そういう介入・圧力の口実を政府に与えないためのよりどころが「表現の自由」、アメリカ憲法修正第一条が保障する基本的権利になる。</p>

<p>（「表現の自由」はアメリカではむしろFreedom of Speechといって誰かに何か訴えかけることが含意としてある。だから、「表現された結果の自由」というよりも、「表現する意志の自由」「表現する意志は誰にも邪魔されない」というニュアンスがある。この意志を守る自由から必然的に「表現行為の結果の自由＝多様性」が導かれるという感じ）。</p>

<p>こうしたアメリカの文脈における「表現の自由」に真っ向対立するものが検閲行為ということになる。「表現の自由」を損ねるものの筆頭が検閲だという認識フレームがあるから、むしろ、検閲行為を名指された時点で即座に「表現の自由を守れ」という動きが半ば自動的に発動する。</p>

<p>そして、「表現の自由」は、数少ない、デモクラットの支持集団もGOPの支持集団もともに支持を表明するテーマ。なぜなら、これが損ねられると自分たちの活動自体が危ういことになるため。つまり、アメリカにおいて政治的に大同団結を可能とする一種のワイルドカードが「表現の自由」という主題になる。</p>

<p>そうした地盤があるところで、ソ連の検閲制度を引き合いに出せるBrinが当事者の一人として関わるわけだから、アメリカの政治シーンとしては色めきだたないわけにはいかない。国務省が中国市場から撤退するのか否かに対するGoogleの最終決定を手ぐすね引いて待っているように思えるのは、様々な団体が一気に動き出すことが目に見えるからだろう。</p>

<p>そういう意味では、本件は、アメリカの政治や外交がどのようなメカニズムで成り立っているのか理解していくための恰好の事例になると思う。自由を巡る議論だけでなく、各プレイヤーがどういう動きをするか、そして、自陣に有利な状況を創り出すためにどのような行動・コミュニケーションを行っていくのか、そういう点から注目していきたい。もちろん、こうしたアメリカ国内の動きがどこまで中国に影響を与えるのか、という実際の外交への影響を気にかけるのは言うまでもないことだが。</p>

<p>さて、まずはGoogleの決定に注目したい。</p>

<p>***</p>

<p>追記</p>

<p>以下、Twitter的に気になる論点、関連しそうな動きを箇条書き的に記す：</p>

<p>1.  Twitterの方で呟いているアートやポピュラーカルチャーの方によせれば、こうしたGoogleの動きが、創作活動のモチーフとして利用される方向もあると思う。直接的な支持表明としても、両義的態度を感得させるようなクリティカルなものとしても。「自由」は芸術作品の定番のモチーフであるし、それが「表現の自由」となればなおさら。しかも「インターネットの」という条件がつく以上、現代的なテーマでもある。多文化主義もモチーフとして影響を与えるだろう。</p>

<p>2.  Cyber Law関係のアカデミシャンがどういう態度を取るのか、その結果どのようなものを書き記すのか、というのは間接的に日本の類似ジャンルの議論のアジェンダ・セッティングにも影響を与えるだろう。</p>

<p>3.  アメリカ国務省が何らかのアクションなり声明なりを出した場合、欧州がどう動くかも気になるところ。EUとしてもそうだし、英仏独などの主要国からの反応も気になる。特にフランスがアメリカの対抗言説を提出するのかどうか。それとも同調路線をとるのか。</p>]]>
        
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    <title>Avatarがオスカーを逃した訳</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000726.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.726</id>

    <published>2010-03-08T14:59:19Z</published>
    <updated>2010-03-09T03:16:58Z</updated>

    <summary>今回のアカデミー賞作品賞は、興行成績だけならダントツにナンバーワンだった&quot; Avatar&quot;を押さえて&quot;The Hurt Locker&quot;が受賞...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>今回のアカデミー賞作品賞は、興行成績だけならダントツにナンバーワンだった" Avatar"を押さえて"The Hurt Locker"が受賞した。最も金のかかっていない映画が、最も金のかかった映画を打ち負かした。</p>

<p>Twitter上で半ば冗談のつもりで、Avatarが受賞したらハリウッドの俳優が仕事を失う未来を肯定しかねないから、一種のラッダイト運動として、Avatarに対する反対票としてThe Hurt Lockerが選択されたのではないか、と呟いていたのだが、あながちその推測は間違っていなかったようだ。そう思わせるのが、次の映画業界誌The Hollywood Reporterの記事。</p>

<p><a href="http://www.hollywoodreporter.com/hr/content_display/news/e3i88e2a9a4c588f4229a134e30d10949f1">Why Oscar didn't embrace 'Avatar'</a><br />
【The Hollywood Reporter： March 8, 2010】</p>

<p>これによれば、Avatarが選択されなかったのは、どうやら本当に俳優ギルドの受けが悪かったから、ということのようだ。</p>

<p>では、The Hurt Lockerはどうして受賞したのか、というと、この映画がイラク戦争を扱った映画であり、上映する側が最初からアゲンストの風に晒されることを意識して、マーケティングやPRをした結果であった、ということのようだ。</p>

<p>記事中にあるように、"The Iraq War Curse"、つまり「イラク戦争の呪い」を払うために、当初からプレスへの説得活動が必要だった。The Hurt Lockerの配給会社であるSummit Entertainmentは新興の中小配給会社であったため、そもそも上映館の確保のところから映画関係者を説得して回る必要があった。そのための諸活動が回り回って後のアカデミー賞候補に至る評価を得る素地となった。</p>

<p>たとえば、SummitはThe Hurt Lockerの上映をわざと夏にした。秋にはシリアスな物語の映画が目白押しとなるのが予測されたから。また、PR会社の42 Westと契約し、PRの焦点を、映画そのものではなく、監督であるBigelowと脚本家のMark Boalに絞り、彼らの人間性に照準したPRを行った。12月にDVDを配布し、関係者にとにかく映画を見てもらうことを心がけ、「イラク戦争の呪い」を払拭するのに力を入れた。</p>

<p>結果的に、映画関係者が集まるNYやLAでthe Producer's GuildやBroadcast Criticsなどの制作者周りの支持を取り付けることができた。</p>

<p>対してAvatarならびにその配給会社である20世紀Foxは何をしていたのか、という問いが当然ながら浮上する。</p>

<p>そもそも、SF作品はアカデミー賞では劣勢に立たされることが多い。77年のStarWarsはWoody AllenのAnnie Hallにオスカーを取られた。同様に、82年のETはGandhi（ガンジー）に負けた。</p>

<p>こういう前史があるのだから、FoxはAvatarのPRに力を入れてもよかったはずなのだが、実際は、メディアとの接触のほとんどを監督であるJames Cameronに委ねてしまった。そして、Cameronの主張は、どうしてCG映像を評価してもらえないのか、という彼の懸念に集中した。</p>

<p>だが、映画がフルCG化することは長い目で見れば、映画の中で俳優がはたす役割が著しく小さくなる予感をもたらす。俳優の多くはバイプレイヤーであり、従って俳優ギルドから見ればCameronの主張を好ましく受け取ることはできない。将来的に自分たちの仕事がなくなる可能性があるから。そして、こうした懸念は、アカデミー賞投票者の最大クラスターである俳優・女優にアンチAvatarの態度を取らせた。Cameronが得意げに語ったことは、ハリウッドの多くの俳優・女優の顰蹙を買ってしまったわけだ。</p>

<p>ということで、結果的に今回の結果でわかったのは、「ハリウッド関係者の、ハリウッド関係者による、ハリウッド関係者のための映画賞」が、アカデミー賞であり、オスカーであった、ということだ。</p>

<p>文字どおり、フルCG映画がもたらす映画制作の現場からの人間の締め出し予想に対して、ハリウッドの住人がノーと言ったわけだ。</p>

<p>それは裏返すと、イラク戦争の呪いをThe Hurt Lockerが必ずしも払拭し尽くしたことを意味するわけではない。従って、ハリウッド住人がプロパガンダ映画を全面肯定したわけでもない（The Hurt Lockerを未見の段階では、その脚本がわからないため、正直私にはまだ判断ができない。というかコメントができない）。</p>

<p>とはいえ、結果的にThe Hurt Lockerが選択された事実だけは残るので、ハリウッドが戦争プロパガンダを肯定したと取られても仕方ないのでもあるのだが。</p>

<p>もっとも、もともとハリウッドにはデモクラット支持のリベラルが多いことを考えれば、彼ら自身が戦争を全面肯定することはあり得ないといえる。その一方で、戦争を映画のモチーフから完全に閉め出すことも表現の自由の点から自己矛盾となる。だから、一定数の戦争映画はハリウッドで制作される。もちろん、そのいくつかには国防総省のお墨付きが得られる類のプロパガンダ、というか軍人リクルートを訴えるための映画もあることになる。</p>

<p>ということで、今回のアカデミー賞は、予測市場におけるカスケードが起こってしまったと思えばいいのかもしれない。公式にはAvatarの優位は明確だが、しかし、皆がAvatarを支持するなら自分はThe Hurt Lockerを支持してもいいだろう。こんな風に思った投票者が相当数折り、それがカスケード=雪崩現象を起こした。</p>

<p>人が集団で選ぶものは必ずしもその集団の意志を反映するものではない。また、選択は必ず相対的な比較の下でなされる。従って、得られた結果が絶対的な価値を持つことはない。この二点をとりあえず理解しておけばいいのだろう。</p>

<p>作品賞や監督賞を逃したAvatarだが、撮影賞、美術賞、視覚効果賞、の三つは手堅く確保した。映画製作の現場を変えるポテンシャルは正当に評価されたともいえる。</p>

<p>従って、The Hurt Locker受賞の事実よりも、本格的に映画のあり方がコンピュータによって規定される時代の幕が開けられたこと。そのことに対する人間の抵抗は想像以上に大きいこと。このあたりのことを教訓として学んでおくのがよい。</p>

<p>だから、やはり一種のラッダイト運動だったのだ。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>FacebookのIPO問題が炙り出すVC主導型起業スキームの臨界</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000723.php" />
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    <published>2010-03-04T14:40:40Z</published>
    <updated>2010-03-05T04:24:10Z</updated>

    <summary>随分前からIPOの期待が高まっているFacebookだが、25歳の若きCEOであるMark ZuckerbergはIPOを急がない、とのこと...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>随分前からIPOの期待が高まっているFacebookだが、25歳の若きCEOであるMark ZuckerbergはIPOを急がない、とのこと。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703787304575075942803630712.html?mod=WSJ_Tech_INTL_LSMODULE">Facebook CEO in No Rush To 'Friend' Wall Street</a><br />
【Wall Street Journal： March 3, 2010】</p>

<p>記事全体では、FaebookのIPOについては、社外からの期待も高ければ、社内からの希望も多いと伝えている。引き続き、世界中で4億7000万人の登録ユーザー数を誇るSNSであるFacebookのIPOについては期待を繋いでいてよいという論調になっている。</p>

<p>Zuckerbergによれば単純にIPOのタイミングを窺っているということらしい。</p>

<p>IPOに向けて、株主構成に手を加えており、Google同様、議決権のありなしのある株式構成（dual structure）にしており、IPO後も経営権の維持に努める姿勢を示している。</p>

<p>その一方で、早期IPOを望む社員に対しては、株式の引き取り手として外部の投資家と交渉し相対で社員持株の買い上げを進めている。Microsoftを始めそうした大手の外部資本も既に入り始めている。</p>

<p>ZuckerbergがIPOを躊躇しているように見えるのは、盤石な収益モデルをFacebookがいまだ確立していないからだろう。収益モデルが確定し、他方で次なる投資目標が明確になれば、そのための資金確保のためにIPOをする理由と目的がはっきりする。しかし、今はまだそうした目標が明確でない。むしろ、現行のSNS事業だけであれば巨大な投資資金が必要というわけでもない。そのため、是が非でもIPOを、という理由に欠ける。</p>

<p>SNSはコミュニティサイトであり、そこで交換されるものが基本的には情報とコミュニケーションであることを踏まえれば、事業としては一種の出版業といえる。そして、出版業は本質的には大きく成長するようなものではない（それは足下のアメリカの出版不況を考えれば容易に想像がつく）。出版事業であれば、むしろ適度に蓄財を進めつつも、適度に読者共同体にそうした営業収益を還元することも含めて、新たな出版企画が一種の贈与的な動きとして進められる。</p>

<p>そうした、収益蓄積→利用者還元、というサイクルは共同体維持のためにも必要になる。いわば、贈与の実践であり、場の主催者に集まった収益の再配分、ということになる。</p>

<p>おそらくは、こうしたSNS的コミュニティの特質が、上場して資金を獲得してガンガン成長する、というスキームと折り合いが悪い。少なくともZuckerbergは折り合いが悪いと見ているのでないかと感じる。</p>

<p>つまり、コミュニティの場合、その場に必要な資金は、参加者が別の手段で用立てる。コミュニティの外部から資金が一方的に流れ込み、それが環流することでコミュニティが維持される、という具合。</p>

<p>そして、このままなら未上場のままでも、SNSの場は維持できる。</p>

<p>あるいは、逆に、参加者自らが全員株主になるという手もある。しかし、さすがに4億7000万人が株主というのはありえないだろう。</p>

<p>そうすると、アメリカの社会経済的な文脈では、SNSはnon-profit company (NPC) とし、ユーザーを含めたcontributions（寄付金）と特定の事業収益をコミュニティ運営の原資とし、資金が必要な場合は通常のNPC同様債券を発行する、というのでもいいのかもしれない。</p>

<p>したがってFacebookのIPO問題は、ユーザーベースの拡大、というのがさしあたっての経営目標になっているWeb2.0以後の企業群にとっても経営の舵取りにあたってのメルクマールになるのだろう。</p>

<p>既に多くの投資家から資金提供を受けているため、FacebookがIPOをしないという選択肢はありえない。とはいえ、仮にFacebookが上場したとしても、限りなくNPC的な性格を持つ企業になっていくのかもしれない。</p>

<p>ZuckerbergはFacebookの社外取締役としてMarc Andreessenの他にWashington Post Co.のChairman であるDonald Grahamを招聘している。</p>

<p>Washington Postのようなアメリカの新聞大手は、創業者が他の事業で得られた元手から起業し、マス消費という社会風潮の中で成長していった。しかし、最初の事業資金は見知ったもの通しの間での出資（たいていの場合は家族や一族郎党からの出資）でまかなっていた時代であったため、上場をするかどうかも創業者で決められた。</p>

<p>もしかするとZuckerbergのケースは、直接金融中心で、VCのような第三者による出資が可能になった（当たり前になった）時代だからこそ抱え込まざるを得ない「IPOのジレンマ」なのかもしれない。つまり、起業資金は第三者が出してくれる。あるいは追加資金も第三者が出してくれる。しかし、それらの資金はIPOによる創業者利益の獲得という期待に則っている。</p>

<p>もちろん、事業が失敗してそうしたIPO期待に応えられないケースは山のようにある。だが、Facebookの場合は、既に日本国民の総数を超えるような、その意味では20世紀では想像もつかない数のユーザー数を誇るほどの規模になっている。これをマネタイズしない手はない、という期待は嫌が応にでも高まる。</p>

<p>しかし、その一方で、この4億7000万人が一瞬のうちにFacebookを離脱することは決してありえないことではない。そして、その瞬間にFacebookというサービスの存在は地球上から消滅する。</p>

<p>それくらい泡沫の夢になる可能性をZuckerbergは直観しているのではないだろうか。</p>

<p>もともとFacebookはHarvard Collegeの写真付き学生簿（facebook）としてスタートした。多分、その時の発想は単純な利便性や、あるいはそうすることによって周りの友人から褒められる軽い功名心なり承認欲求から発したものだったのかもしれない。</p>

<p>それが、システムとしてのウェブが持つ特性であるネットワーク外部性もあってユーザー数はねずみ算式に増えていく。その果てが4億7000万人の登録ユーザー数だ。</p>

<p>そして、この4億7000万人は、個々の小さな好意や善意の下で結集している。その結集の糸をもしかしたらIPOによる真性ビジネス化によって断ち切ってしまうのではないか。そうした不安がZuckerbergの脳裏を時折よぎっているのではないだろうか。</p>

<p>FacebookのIPOは、このように20世紀の最後の10年に花開いたIPO型VC投資のスキームについてもしかしたらノーを突きつける、あるいは、そこまでいかなくとも大きな修正を迫るものになるのでないか。なぜなら、とにもかくにも、4億7000万人のグローバル・コミュニティを果たして企業としての体裁で、あるいは、企業としてのマネジメントで維持できるものなのかどうか、という問いに直面しなければならないからだ。</p>

<p>FacebookのIPOは単なる一企業のIPOに止まらない要素を持つ。この観点から、引き続き注目していきたい。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>「Twitterは誘惑する」</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000720.php" />
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    <published>2010-03-01T13:41:47Z</published>
    <updated>2010-03-02T03:14:53Z</updated>

    <summary>「Twitterは稼げるのか？」 今、最も気になるタイトルの特集記事を見つけた。 Can Twitter Make Money? 【MIT ...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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    </author>
    
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>「Twitterは稼げるのか？」</p>

<p>今、最も気になるタイトルの特集記事を見つけた。</p>

<p><a href="http://www.technologyreview.com/web/24555/">Can Twitter Make Money?</a><br />
【MIT Technology Review： Feburuary 23, 2010】</p>

<p>とはいえ、記事を最後まで読んでも肝心の回答、つまり、Twitterは稼げるのかどうか、について明確なYes/Noは与えられていない。</p>

<p>先日公表されたように、目下のところは、GoogleならびにMicrosoft (Bing)との間で、全てのTweetsのリアルタイムフィードを提供する契約を結び、その契約料として、伝えられるところによれば、二社合計で2500万ドル（約25億円程度）を得た。これがTwitterにとって初めての売上であった。</p>

<p>この契約についての判断は微妙だ。リアルタイムフィードから利益を直接生み出す方策については、さしあたって外部化してしまったことになるからだ。ただし、GoogleとMicrosoftの双方への提供契約になるので、この二社の間でリアルタイムフィードの活用方法を巡る開発競争が生じることが期待できる。Google、Microsoft、の二社が鎬を削るわけだから期待は嫌が応にでも高まる。</p>

<p>その間、Twitterは更なるユーザーの獲得に専念することになる。それは、Twitter自身の使い勝手の向上、ということになる。だが、ここでも微妙なのはTwitterという会社はmicrobloggingに関する技術を専有していない。あるのは、ブランドとユーザーベースだけ。だから、ある日突然、Twitterに相当するサービスを他社が始めてもそれ自体を防ぐ手だては法的にはない（だから、たとえば、Google Buzzのようなサービスが登場することになる）。</p>

<p>そのこともあってか、むしろ積極的にAPIを公開し、外部のデベロッパーによって、Twitter名で獲得したユーザーたちの利用満足が高まるようなソフトウェアの開発を促している。たとえばTweetDeckやTweetMemeがそれにあたる。あるいは、Bit.lyのように140字の字数制限を有効利用するためのURL短縮サービスのようなサイトも現れる。</p>

<p>だから、本当に突き詰めると、Twitterとはユーザーベースしかない。したがって、ネットワーク外部性を最大限活用して先行者優位を維持すべくユーザーの獲得に専念する。それは、ユーザーにとってのTwitterの利用方法の提案や、そのための利用環境の整備が中心の作業となる。</p>

<p>裏返すと、それくらいTwitterという存在は普遍的なサービスカテゴリーとして位置づけられるポテンシャルがあるサービスだということ。つまり、メールやメッセンジャーのように、商品名がカテゴリー名を代表してしまうようなサービス。つまりは、それが、Twitterのブランド、ということになる。</p>

<p>そして、ブランドに照準するということは、</p>

<p>Twitterは私たちを誘惑するのか？</p>

<p>という問いに帰着することになる。</p>

<p>*</p>

<p>この話題は、数週間前、Twitter上で数人と議論したもの。</p>

<p>その時のやりとりでは、「Twitterは確かに私たちを誘惑する」というもので、写真論やメディア論などを援用し、たとえば、精神分析やバルトなどの立論構成に基づくことで、多分、それらしい論を展開することは可能だろう、ということだった。</p>

<p>この場でその論を展開する余裕はないのだが（実はまだ考案中）、しかし、そこでの主旨は、Twitterという枠組みは、そのタイムラインによるTweetsという単位の情報の流れや、そのephemeral（揮発性の高い）な接触の仕方によってもっぱら「放送」的なコンテントとしてとらえられがちなのだが、その（外部からの）印象に囚われてはいけない、というものだった。</p>

<p>Twitterの特徴は、原則、個々のユーザーはそれぞれ全く別のタイムラインを眺めているところにある。だから、もしも、多くの人びとがTwitterに惹かれてやまない、というような事態が生じるとすれば、それは、そのタイムラインの中に流れ続ける個々のTweet＝コンテントに求めるのではなく、そうしたコンテントの流れを生み出すタイムラインやTwitterの形式の方にこそ求めるべきだ、ということだった。</p>

<p>そして、その形式≒枠組を論じるのに、写真のようなむしろ動かない、しかし、フレームとして「現実」を切り取る枠組みが有効なのではないか、というのがTwitterの中で議論していたことだった。</p>

<p>だから、この視点に従えば、Twitterはその形式だけで人びとを魅了していく可能性があるということになる。</p>

<p>もちろん、写真同様、個々に人びとの関心を集める「強いコンテント」としてのTweetsは必要だろう。それは、著名人によるTweetsであったり、あるいは、newsであったり、・・・、ということになる。</p>

<p>ただ、それはTwitterの利便性を増すだけの話。普及の後押しや、Twitter自身のプロモーションにはつながるだろうが、Twitterそのものの魅力の説明にはならない。</p>

<p>*</p>

<p>そういう意味では、Twitter社が発表した、広告を中心にしたマネタイズ案は、Twitter社自身、自分たちの持つ魅力に気付いていないことを露呈させている。</p>

<p><a href="http://mediamemo.allthingsd.com/20100226/twitters-ad-plan-copy-google/">Twitter’s Ad Plan: Copy Google</a><br />
【All Things Digital： Feburuary 26, 2010】</p>

<p>ここで提案されているのは、基本的にGoogle型の検索型広告。Twitterのユーザーが何らかの検索をした場合、その検索ワードに合わせて広告主のTweetをTLに滑り込ませる、というもの。</p>

<p>検索しないと広告が流れないとか、利用者の属性をどう判断するのか、という論点は上の記事が指摘しているので、そちらを見て欲しい。</p>

<p>だが、これではTwitterの魅力＝誘惑する力に気付いていないことになる。</p>

<p>このあたりは、むしろ、従来型の広告会社のクリエイティブに是非とも知恵を絞って欲しいところ。ポイントは滑り込ませ方の部分。</p>

<p>たとえば、上の写真論的分析から考えれば、街頭に張られている写真に基づくポスターにおいて、いかに歩行者の一瞥を得るようにするか、というのと同じ頭の使い方でTLを滑り込ませる方式を考える、ということなのだろう。いや、言っていて全く具体性がないことはわかっているのだが、逆に、具体的なクライアントの具体的な素材にあわせて試行錯誤していくところだと思う。</p>

<p>何が言いたいかというと：</p>

<p>TLの中に「私を見て！」という金切り声的なメッセージや、スパムまがいの奇天烈なメッセージを滑り込ませてもただ単に不快になるだけ。</p>

<p>ウェブの広告については、マイニングやマッチングというテクノロジーで処理できる要素が増えてきて「届けられ方」という点では確かにrelevancy（適合度）は上がっているのだが、その一方でそのメッセージの方は、とりあえず知らせておけばいいでしょ、的なものが数多く見られる。つまり、ビークルの最適化ばかりが行われ、メッセージのありように無頓着になりつつある。</p>

<p>もっといえば、メッセージ＝広告表現（通常クリエイティブといわれるもの）が人びとを魅了する、誘惑する、という部分が忘却されつつあるように思える。</p>

<p>この点は、Twitterに限らずウェブ全般で考え直してみてもいい頃合いではないかと思う。それこそ広告費の規模でもインターネットが新聞を抜き、後はテレビとの頂上対決が控えているだけのタイミングでもあるわけだから。</p>

<p>いずれにしても、「魅了」とか「誘惑」というラインでウェブを捉え直す。</p>

<p>そのための出発点として、Twitterはいい機会を与えてくれると思っている。</p>]]>
        <![CDATA[<p>*****</p>

<p>追記 (03.02.2010)</p>

<p>Twitterの誘惑論については、Twitter上で意見をやりとりした@shionkonoさんと@i_kenさんに多くを負っていることを追記しておきます。お二人ともありがとうございました。</p>

<p>多分、ウェブの登場によって、全般的に表現環境/ツールとしてのウェブが全面に出て、その変化の方がさしあたって「目新しい」ため、目新しさに寄生するのが本筋の広告（by北田暁大『広告の誕生』）としては「ウェブでXXXができます」と言っていればとりあえず「広告らしさ」を保っていられたのだろうが、そのいわばアタッカーの、トリックスターの戦略だけではそろそろ息切れするのではないか、というのが上で記したこと。</p>

<p>同じ問題意識から、最近は、制作環境の話、generativityの話がいささか加速気味になってきているのではないかと思い始めている。技術者が礼賛するのは彼らの仕事や目的がウェブ上の環境整備/改善にあるわけだから当然として、ただ、それを使う側の実作者（アート、デザイン、各種メディア表現など）、あるいは、場の主催者（ウェブ・コミュニティや建築家など）などが、とりあえず人を集めれば何とかなる集合知万歳、となるのには直感的に違和感を感じることが多い。多分、制作や編集の意思決定は実作者や主催者の側が選択する必要があると感じているからだろう。つまり、ある種の表現主義の提案が必要だと感じているということ。</p>

<p>このあたりはかなり深い問題につながっているように感じているので、しばらく温めて考えていきたいし、機会があればその考えをまとめてみたいと思う。</p>]]>
    </content>
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    <title>Democratized Innovation： 産業/工業/製造業の未来像</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000722.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.722</id>

    <published>2010-02-28T14:36:36Z</published>
    <updated>2010-03-01T05:30:43Z</updated>

    <summary>2月26日深夜に放送された『朝まで生テレビ（朝生）』は、若手起業家を招いて、日本経済の未来を考えるというものだった。 この『朝生』は、堀江貴...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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    </author>
    
        <category term="NOTE" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>2月26日深夜に放送された『朝まで生テレビ（朝生）』は、若手起業家を招いて、日本経済の未来を考えるというものだった。</p>

<p>この『朝生』は、堀江貴文、東浩紀、の両氏が出演するから、ということで見始めた。番組中盤から異様な存在感を示した猪子寿之氏（チームラボ社長）によって、ＩＴ系の話に焦点が集まり、イノベーションや製造業の未来、という話題につながった。</p>

<p>猪子氏が参入するまでは、日本でイノベーションと言うときに真っ先に想定される製造業の話につながらなかった。パネリストの数人がリクルート出身者であり、彼らの事業領域はある意味でリクルート的な、人材派遣やマッチングという、（ソフトな意味での）「ネットワーク」系ビジネスであった。個人的には面白いと思った井戸実氏は、不況を逆手に取った「居抜き」戦略で飲食事業に新機軸をもたらしていた。</p>

<p>いずれも興味深い話だが、マクロ経済との連関が見えにくい。というのも、マクロ経済で語られるイノベーションは、国家経済（集計量としてのGDP）レベルでの生産関数を変えるもの。そして、日本の場合は上場企業の割合からいっても製造業の生産性に関わる文脈で検討しないと難しい。</p>

<p>だから、パネリストの水野和夫氏が教科書的に「イノベーション」に言及しても、飲食事業や人材マッチングサービス事業が話題では、ビジネスの現状というミクロな個々の動きと、日本経済の今後というマクロな指針、との間のリンクが見えにくかった。</p>

<p>猪子氏の発言自体も、WinnyやYouTubeを例に出した話に過ぎなかったが、とはいえ、ここからようやく、技術革新を育成する（というか、阻害しない）という視点につながった。</p>

<p>興味深かったのは、年配のパネリストの何人かが、ITに関わる産業を、いまだにマネーゲームのような、単に情報を操作するだけのフロー主体のビジネスであると捉えていた点。つまり、実業ではなく虚業であり、それゆえ断罪の対象になる、という考えをいまだに持っていたこと。そして、そんな虚業よりも、実業たる製造業をどうするか、という論点をいまだに提案しようとしていたこと。</p>

<p>これに対して、「いやソフトウェアももの作りだ。Googleも製造業として富を生み出しているのだ」と半ば反射的に反論したのが猪子氏だった。Twitterのハッシュタグ（#asanama）を見る限り、この発言を支持する人は多い。つまり、この「ソフトウェアは製造業か否か」は、世代を分かつ大きな分断線となる論点だったことになる。</p>

<p>もちろん、私も猪子氏に同意する。製造業の中核には間違いなくソフトウェアがあるし、その正否が商品や事業の正否に直接リンクすることも多い。なによりも、SEという存在は一昔前の工場労働者のように製品としてのソフトウェアのパーツ群を扱う存在だからだ。コンピュータに向かって仕事をしている人たちが全てホワイトカラーであるわけではない。むしろ、ホワイトカラーもブルーカラーも区分けができないのが情報産業の労働の現場である。</p>

<p>こうした事態を直感的に理解できていない人びとが50代以上のインテリ層にすらいるというのは今後の情報政策のみならず各種政策（労働、福祉、等）の立案上、不安にさせられる。</p>

<p>猪子氏による「ソフトウェア＝もの作り」の発言が、こうした年配者の認識の払拭につながるものとなることを切に願うところだ。</p>

<p>*</p>

<p>その上で、だが、事態はさらにもう一段進もうとしている。</p>

<p>製造業≒工業≒産業の今後の変貌について記しているのが、次のChris Andersonの論考。</p>

<p><a href="http://www.wired.com/magazine/2010/01/ff_newrevolution ow to Build Your Dream">In the Next Industrial Revolution, Atoms Are the New Bits</a><br />
【WIRED： January 25, 2010】</p>

<p>もの作りの世界にも、ソフトウェア世界でのルールが適用され始めている。あたかもソフトウェアを作るように、ハードウェアの作り方も変わってきている。上の猪子氏の発言にひきつければ、ソフトウェアももの作りである、ばかりでなく、ソフトウェアの製造様式がそのままハードウェアの製造様式を更新し改変する。</p>

<p>ソフトウェア自体が二重の意味でもの作りの中核になる。</p>

<p>一つには、製造物の制御部分がソフトウェアによる制御に移行する点。これは従来からあるマイコン制御の延長線上にあるが、それがよりオープンなものになる（たとえばAndroid OS）。もう一つは、もの自体の設計・組立がソフトウェアの製造工程のようにモジュール化され、オープン化される。</p>

<p>こういう工程の変容を、Andersonは産業のdemocratize（民主化）が進む、としている。</p>

<p>彼が“Long Tail”や“Free”の作者であることかも想像できるように、情報化やウェブの普及によって情報の生産と消費について起こったことと同様のことがハードウェアの生産と消費にも起こるとしている。</p>

<p>上の論考ではOpen Source流の開発・製造工程を導入している自動車会社などを紹介している。また、理論的背景としては、MIT教授のEric von Hippelを参照している。製造工程に必要な工具類も、そもそもOpen Sourceを活用した、安価だが精密な仕事をできる道具も増えている（このあたりは、<a href="http://www.defermat.com/journal/2009/000645.php">以前紹介したhackerspace</a>とも関係する話）。</p>

<p>こうしてもの作りの工程自体が様変わりする。Andersonは5つの過程を示している。</p>

<p>Invent　（発明）<br />
Design　（設計）<br />
Prototype　（試作）<br />
Manufacture　（製造）<br />
Sell　（販売）</p>

<p>下流のSellについてはAmazonやWalmartを中心に既に十分にリアリティのある話になっていたわけだが、これが上流から一気通貫することになる。それぞれの工程でソフトウェアが支援ツールとして導入され、コミュニケーションツールによって関係者のやりとりが強化される。最終組立はアウトソースしてもいい（ここでは中国が想定されている）。そして、この工程を実際に支持するために、パーツパーツのモジュール化も進められていく。</p>

<p>モジュール化への適応は、しばしば部品数の多い製造業（自動車以上のもの）では不可能と言われてきた。モジュール化をできるだけ否定しようとする立場をとる識者もいる（これも<a href="http://www.defermat.com/journal/2009/000678.php">前のエントリー</a>で少し触れたことがある）。だが、自動車業界でも電気自動車（EV）の動きの中では、部品の製造・調達構造そのものが激変する可能性もある。</p>

<p>Andersonはこうした状況から、今後の生産組織はネットワークを活用したバーチャルカンパニーが中心になると考え、DIY Dronesというコミュニティサイトを立ち上げた、と論考の最後に記している。</p>

<p>* </p>

<p>最後のDIY Dronesを読んだあたりで、上のAndersonの論考自体が、DIY Dronesの正当化記事であるように見えなくもない。そうしたポジショントークの可能性も踏まえた上で、しかし、今後の「製造業」の可能性としては、従来の巨大な一企業に対して、小企業群による連繋型の分業生産体制が作られることを頭の片隅においていいだろう。</p>

<p>いや、そもそも「企業」という言葉を使うのも適切ではなくなるのかもしれない。あるいは、「産業≒工業」という言葉を無前提で使うのも事態の正確な理解を阻むのかもしれない。</p>

<p>識者によるが、既に「エコシステム」という言葉を従来の「産業構造」に代わる言葉として利用する人もいる。</p>

<p>産業構造という言葉によって、経済体制が一次から三次までのソリッドな産業構造に峻別され、かつ、個々の産業内で川上から川下までの産業連関が想定され、各種統計データが用意された。しかし、こうした経済体制の見方は20世紀になってから定着したものに過ぎない。当たり前のことだが、産業革命以前には「産業」概念はない。そして、産業革命が基本的に「（熱/電気）エネルギー革命」であったことを踏まえれば、「情報革命」は次元の異なる経済進化といえる。</p>

<p>おそらくはこうした認識を持つ人たちが、「産業構造」に代わって「エコシステム」を選択しているのだと思う。</p>

<p>そうであれば、エコシステムにおける基本単位は、Andersonのいうように産業がdemocratizeされた何か＝X、となるのだろう。そして、そのXの核をさしあたっては、従来ある法人や個人が引き受け、それが徐々に変質していく、ということかもしれない。</p>

<p>そう思うと、アメリカはdemocratized industriesの時代には、上述のXを探究するためのベースとなる組織形態が多いことがアドバンテージとなり得る。アメリカにおいては、法人の他にLLPやLLCがある。あるいは、法人にもfor-profitとnon-profitがあるからだ。しかも、こうした会社組織の形式については、判例法の国であるアメリカは、今後現れる新組織の実例を判例の小宇宙の中で検討することで、具体的に彫啄していくこともできる。</p>

<p>*</p>

<p>こう考えるならば、冒頭触れた『朝生』の中で猪子氏が述べた「ソフトウェア＝製造業」という認識は単なる出発点に過ぎないことがわかる（だから、早急にこの認識を日本のマスコミは広めるべきだ）。</p>

<p>私たちは既に21世紀を10年生きた。コンピュータやウェブが日常に浸透しその効果を十分体感できる環境の中に生きている。こうした経験的事実を踏み台にしながら、「エネルギーの時代」の「産業構造」に代わる、「情報の時代」の「エコシステム」の下での「もの作り」のあり方を模索してもいいのではないだろか。</p>

<p>そうすることで、democratized innovationの時代、誰もがinnovationを勝ち取る機会を公平に享受できる時代を迎えることができるように思える。</p>

<p>まずは、「もの作り」の概念を更新することから始めなければならない。<br />
「もの」についても。「作る」についても。</p>]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>いまさらですがTwitter始めました。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000698.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.698</id>

    <published>2010-02-27T02:56:24Z</published>
    <updated>2010-02-28T14:41:23Z</updated>

    <summary>IDは fermat1665 。 こちらもよろしくお願いします。 iPadのお披露目と、オバマのthe State of the Union...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
        <uri>http://www.defermat.com/</uri>
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        <category term="REVIEW" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>IDは fermat1665 。</p>

<p>こちらもよろしくお願いします。</p>

<p>iPadのお披露目と、オバマのthe State of the Union（一般教書演説）の日にスタートできたのは、よかったです。</p>

<p>カラダは一つなので、こちらのブログとどう使い分けていくか、あるいは、書き分けていくか、についてはしばらく試行錯誤すると思いますが、よろしくお願いします。</p>

<p>今までブログエントリーにはならず終いで消えたボツネタ（苦笑）もあったのですが、それらもtweetならokかもしれません。</p>

<p>たとえば、アメリカの映画やテレビドラマなどのネタは、日本だとタイミングが合わないので面白いのだけど、盛り上がり感を伝えるところから書くのが億劫だったのでお蔵入りしていました。Avatarにしても、Julie & Juliaにしても、夏ぐらいに一度盛り上がってたんですけどね。</p>

<p>そういうナマモノ的なものに触れるには、Twitterの方があってるかもしれません。</p>

<p>ところで、TwitterにしてもiPhoneにしても、昨年12月にふらりと立ち寄った<a href="http://www.defermat.com/journal/2009/000668.php">フランス大使館のシンポジウム</a>で図らずも居合わせてしまった高揚感に、当てられてしまった感じです。</p>

<p>「現場に居合わせる」ことの大事さを再認させられました。</p>

<p>それ以来、いろいろなことが、一連のもの、として捉えられています。</p>

<p>おいおい、そうしたことも触れていこうかと思います。</p>

<p>ということで、どうぞ、よろしくお願いします。</p>

<p>*****</p>

<p>（追記）</p>

<p>このエントリーは最初2010年1月28日にポストしましたが、Twitter IDの告知のために日付を変えて当サイトのトップページにしばらく置くようにします。ご了解下さい。</p>]]>
        
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    <title>シリコンバレーはWall Streetではない。アメリカは一つではない。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000719.php" />
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    <published>2010-02-25T14:59:38Z</published>
    <updated>2010-02-26T05:24:26Z</updated>

    <summary>シリコンバレーの老舗VCであるKleiner Perkins Caufield &amp; Byersの元パートナーであったTom Perkinsが...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>シリコンバレーの老舗VCであるKleiner Perkins Caufield & Byersの元パートナーであったTom Perkinsが、シリコンバレーを擁護する論考をWSJに寄せている。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704454304575081591449816712.html?mod=WSJ_Opinion_LEFTTopOpinion&mg=com-wsj">Silicon Valley Is Not Wall Street</a><br />
【Wall Street Journal： February 24, 2010】</p>

<p>ワシントンDCの連邦政府が、NYのWall Streetの投資銀行やヘッジファンドと同じように、シリコンバレーのVCを規制しようとしていることに対する反論。</p>

<p>投資銀行業務が基本的に有価証券の売買取引の手数料収入から成り立っているのに対して、VCは投資先であるスタータップの成長に全てが掛かっていることを強調している。</p>

<p>投資銀行業務が基本的にフローの扱いであって、仮にM&Aやバイアウトが成功しても、その後の企業の成長は投資銀行とは関係ない。だから、企業の成長や、あるいは、その企業の雇用吸収力などには投資銀行は関心を示さない。</p>

<p>対して、VCは投資先企業の成長しかリターンがない。首尾よくそのスタータップが成長すれば、新たな雇用も創造する。</p>

<p>だから、投資銀行とVCを一緒くたにするのはやめてくれ、というのがPerkinsの主張のポイント。</p>

<p>アメリカの景気回復も先がなかなかみえないところで、雇用創造力を強調するのは理解できる。カリフォルニアに限らずスタータップが新規雇用の源泉であり、その会社が成長することが経済のエンジンになる、という主張。</p>

<p>このあたりは、アメリカの産業経済が地域的なバリエーションに富むことも加味した方がいい。</p>

<p>たとえば、今回のトヨタヒアリングで、当たり前のことながら、アメリカの自動車産業のお膝元であるミシガンやオハイオなどのIndustrial States出身の議員からの質問が詰問調の厳しいものであったのに対して、トヨタに限らず外国の自動車メーカーの工場を誘致している南部諸州出身の議員はトヨタ擁護にまわっていた。</p>

<p>去年の春先にあったGM救済においては、Industrial Statesの州知事や連邦議会議員らがひたすら救済の必要性を訴えていたのに対して、テネシーやテキサスなどの南部諸州は救済は市場原理に反するし政府が介入すべきでないと猛烈に主張していた。その対立と全く同じ分断線が今回のトヨタヒアリングでは見られた。</p>

<p>だから、上のPerkinsの主張も、DCやNYの金融資本家中心の発想に対して反論をするだけでなく、どさくさに紛れてDCやNYの人間が南西部の産業活力を制御しようという意図に対する反抗でもある。</p>

<p>アメリカは一枚岩ではない。そういう意味では、日本の報道も、たとえば、自国の政府に対して「政府民主党」という言葉を使うように、「アメリカ連邦政府民主党」とでも使う方がいいのかもしれない（もっとも、議院内閣制でないアメリカでは、政府と与党とは必ずしもオーバーラップしないので、こういう表現も適切でないといえばそうなのだが）。</p>

<p>確認したいのは、アメリカは日本人が思うほど国家が国民を覆っているようなところではない、ということ。Perkinsの主張もそういう文脈で捉えておきたい。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>“Being INNOVATIVE”とは何か？： Fast Companyによる「世界で最もイノベイティブな会社たち」</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000718.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.718</id>

    <published>2010-02-23T07:22:10Z</published>
    <updated>2010-02-23T07:26:46Z</updated>

    <summary>Fast Companyがイノベイティブな会社50選をランキングで発表している。 The World&apos;s Most Innovative C...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Fast Companyがイノベイティブな会社50選をランキングで発表している。</p>

<p><a href="http://www.fastcompany.com/mic/2010">The World's Most Innovative Companies 100</a></p>

<p>（このエントリーの最後に50社のリストを再掲してある。）</p>

<p>50社のリストを見ると、トップ5こそ、日頃よく耳にするIT系の企業になるが、6位以下はかなり不思議な顔ぶれになる。それは、上のリンク先頁の左側にある産業カテゴリーを見ればわかる通り、エネルギー、食品から、建築、デザインまでと、産業横断的なリストになっているから。</p>

<p>たとえば、建築事務所のMVRDVが44位にいたり、ユニクロのFast Retailingが41位にいたりする。あるいは、デザイン会社のIdeoが35位という具合。</p>

<p>面白いところでは、22位にランクされているIndian Premier League。何かと思ってクリックしてみたら、インドの「クリケット（！）」のプロリーグであった（写真を見ると、選手の様子がアメフトとベースボールを足して二で割ったような恰好でユニーク）。</p>

<p>8位のNovartisは難病・奇病を中心に製薬開発をしている。この会社など、そもそも開発ターゲットとしてハードルの高いところを考えているところ、つまり経営戦略そのものがある意味イノベイティブな戦術を呼び込んでいるようにも思える。</p>

<p>38位のNgmocoは、アメリカの大手ゲーム開発会社Electronic Artsを辞めた人たちがつくったiPhone上のモバイルゲーム開発会社。これは、App Economyが喧伝される中、起業した事実そのものが、イノベイティブなチャレンジに見えてくる。</p>

<p>もっとも、ランキングの決定方法に関する記述がどうも見あたらないようなので、あまりランキングそのものを真剣に受け止めても仕方がないのかもしれない。昨年も同じランキングを発表しているようだから、選定基準がきちんとあり、それに沿ってなされている、ととりあえずは了解しておいていいのだろう。</p>

<p>そういう意味ではランキングの順位には拘泥せずに、ここにリスト化された会社情報を一つ一つたどりながら、 “Being Innovative（イノベイティブであること）”とはどういうことか、について思考をめぐらす、そのためのきっかけぐらいに考えておいた方がいいのかもしれない。</p>

<p>イノベイティブという言葉はわかったようでわからない、掴み所のない言葉であることは確か。とはいえ、現在進行中の世界的な経済低迷の中では、別に日本に限らず、世界中の国で重要視されている言葉であることは間違いない（だからこそのFast Companyでの特集）。</p>

<p>そうした変革の契機を促すきっかけとしてイノベイティブを考え直してみるのも一つの手だと思う。</p>

<p>***</p>

<p>50社のリスト</p>

<p>1 Facebook<br />
2 Amazon<br />
3 Apple<br />
4 Google<br />
5 Huawei</p>

<p>6 First Solar<br />
7 PG&E<br />
8 Novartis<br />
9 Walmart<br />
10 HP</p>

<p>11 Hulu<br />
12 Netflix<br />
13 Nike<br />
14 Intel<br />
15 Spotify</p>

<p>16 BYD<br />
17 Cisco Systems<br />
18 IBM<br />
19 GE<br />
20 Disney</p>

<p>21 Gilt Groupe<br />
22 Indian Premier League<br />
23 PatientsLikeMe<br />
24 Grey New York<br />
25 BMW Designworks USA</p>

<p>26 Synthetic Genomics<br />
27 FiLife<br />
28 Frito-Lay<br />
29 Alibaba<br />
30 MITRE</p>

<p>31 HTC<br />
32 DillerScofidio + Renfro<br />
33 Firstborn<br />
34 Sportvision<br />
35 Ideo</p>

<p>36 Samsung<br />
37 Glam Media<br />
38 Ngmoco<br />
39 VNL<br />
40 Aldi Sud</p>

<p>41 Fast Retailing<br />
42 Huayi Brothers<br />
43 Athenahealth<br />
44 MVRDV<br />
45 Alstom</p>

<p>46 Quantcast<br />
47 Good Guide<br />
48 Microsoft<br />
49 Politico<br />
50 Twitter</p>

<p>***<br />
</p>]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>Google, energy marketerへ： Civilの水平展開でGoogle流のリアルワールドへの浸透始まる。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000715.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.715</id>

    <published>2010-02-19T08:00:09Z</published>
    <updated>2010-02-19T08:06:59Z</updated>

    <summary>Googleが、The Federal Energy Regulatory Commission（連邦エネルギー規制委員会）の承認を受け、正...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
        <uri>http://www.defermat.com/</uri>
    </author>
    
        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Googleが、The Federal Energy Regulatory Commission（連邦エネルギー規制委員会）の承認を受け、正式に、energy marketerとなった。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703315004575073650351018606.html?mod=WSJ_Tech_LEFTTopNews">Google Cleared on Power Bid</a><br />
【Wall Street Journal： February 18, 2010】</p>

<p>これにより、Googleはエネルギー（電力）の売買が可能になった。通常、energy marketerには、発電設備をもった事業者が申請するのだが、今回のGoogleのように大量のエネルギーを利用する企業については、大量購入したエネルギーを再販するために、上記の認可が必要になる。</p>

<p>WSJの記事にあるように、Googleが申請をした背景には二つの理由がある。一つは、自社のエネルギー利用の管理のため。主にデータセンターに利用されるエネルギーのマネジメント。Googleは今のところ発電設備も送電設備も所有していないと記されているが、今後はわからない。</p>

<p>もう一つの理由は、再生可能エネルギーへのアクセスをよくしていくこと。</p>

<p>なお、いまのところは、認可を得た結果Googleに配備されるエネルギー管理技術を（おそらくは）サービスとして売り出すことはしないし、再販を投機的に利用するつもりもないという。</p>

<p>先日発表されたブロードバンドサービスへの参入表明とあわせると、かつてのエンロンが想起されるが、そうしたことにはならない、と公表しているわけだ。</p>

<p>記事の最後にあるようにGoogleはPowerMeterというサービスで一般家庭の電力マネジメントサービスに、電力会社と協力して進出している。いわば、既存の電力サービス網を“hack”し、徐々にそのサービス網のあり方を変えていこうとしている。</p>

<p>携帯電話やガジェットにおいてしばしば「電池」の性能がスペック上の問題にされるように、電力は、ウェブの世界においては基礎中の基礎にあたるインフラだ。大規模データセンターによるCloud Computingを提供する予定のGoogleからすれば、電力の問題は社内の問題であると同時にユーザーの問題＝社外の問題でもある。それをできるだけ円滑に管理しようと試みているわけだ。</p>

<p>記事中にあるutilitiesというのは、電気・ガス・水道、のような生活の基本インフラを指す。ここでは、電力が対象の話であったが、これらutilitiesの管理ネットワーク一般に対して、Googleが参入していくと言うこともあり得るだろう。</p>

<p>先日のエントリーで「<a href="http://www.defermat.com/journal/2010/000711.php">CivilからSocialへ</a>」というように、ウェブの世界ではGoogleが単なるインフラ的整備から人びとの関係性・社交性のオルタナティブな有り様を提案する方向に向かっていると論じた。この「CivilからSocialへ」の展開を、縦方向の、垂直方向の展開とすれば、このutilitiesへの参入は「Civil XからCivil Yへ」の展開であり、横方向、水平方向の展開と捉えることもできる。</p>

<p>utilitiesについては、公共料金規制などの管轄は、州や市などの地方政府の公益委員会になる。そのため、utilitiesのネットワークに関わるのであれば、Googleはそうした地方政府とのやりとりも増えていくことになる。それに伴って、今まではウェブという浮遊した存在の中でビジネスを行ってきたGoogleは徐々にリアルワールドの実務担当者との折衝も増えていく。そして、それはとりもなおさず、Google的なウェブ的な発想、思考様式が、少しずつウェブの外にもしみ出していくことを含意する。</p>

<p>はたしてGoogle流の伝道は首尾よく進むのだろうか。</p>]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>Googleと知の宇宙</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000714.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.714</id>

    <published>2010-02-18T08:30:23Z</published>
    <updated>2010-02-19T08:19:37Z</updated>

    <summary>Google Bookに対する訴訟の妥結には、まだまだ時間がかかりそうだ。 Google Book Settlement Hearing C...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
        <uri>http://www.defermat.com/</uri>
    </author>
    
        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Google Bookに対する訴訟の妥結には、まだまだ時間がかかりそうだ。</p>

<p><a href="http://blogs.wsj.com/digits/2010/02/17/google-book-settlement-hearing-could-be-a-marathon/?mod=rss_WSJBlog&mod=">Google Book Settlement Hearing Could Be a Marathon</a><br />
【Wall Street Journal： February 17, 2010】</p>

<p>電子出版の未来に大きな影響を及ぼすと考えられているGoogle Bookについては、その訴訟の和解案がいつの間にか業界標準ルールへと転じそうな情勢にある。それは、既に様々なところで指摘されている、アメリカ特有の、Class Actionという訴訟制度によっている。簡単にいうと、一つの訴訟が、その個別事件の当事者ではない、しかし、関係者である人びと・法人にも影響を与えうる、という制度だ。そのため、Googleが作家や出版社団体と交わした妥協案＝和解案が、広く関係者を縛ることになる。</p>

<p>そうした情勢に対して、多くの関係者たちが異議を唱えていた。上のWSJの記事は、和解案に対する公判のヒアリングがようやく行われることを伝えている。このヒアリングでは、当事者の意見だけでなく、反対者の異議も発表される。</p>

<p>繰り返しになるが、この和解案は出版に関わる人びとに大きな影響を与える。引き続きその動向については注目したい。</p>

<p>*</p>

<p>と、さらっとこのエントリーを終わらせようと思っていたのだが、Googleは、同じ日に、面白いことを仕掛けてきた。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703444804575071810188462120.html?mod=WSJ_Tech_LEFTTopNews">Google Gives to Wikipedia</a><br />
【Wall Street Journal： February 17, 2010】</p>

<p>Wikipediaに200万ドル（約2億円）の寄付をGoogleが行うという。この寄付の公表をする際、Googleの共同設立者であるSergey Brinは、Wikipediaを「インターネット最大の勝利」とし、「コミュニティが生成するコンテントの膨大な貯水池（repository）」は、ウェブの利用者の誰にとっても有益だと述べ、Wikipediaの存在を褒め称えている。</p>

<p>上のGoogle Bookの動きのある日にこのことが公表されることには一定の意図があるようには思えるが、それはさしおいても、ウェブ上の知的アーカイブの生成を支援する、という振る舞いは、Google Bookの話を進めていく際に、「大義」を調達する上で十分に意味があることだ。</p>

<p>GoogleについてはフランスがGoogle Taxの導入を検討中だということが伝えられているが、それは、フランス文化を「搾取」した結果の収益を全てアメリカに送金されてはたまらない、というフランスの文化政策的発想から生じたアイデアであった。</p>

<p>だから、アメリカであるかフランスであるかは問わず、Wikipediaという百科事典プラットフォームを維持することに寄付を行うことは、ある意味でGoogle Taxで想定された「文化活動への資金の環流」というスキームを、Googleなりに実践することと捉えることもできる。つまり、ビジネス活動からの収益を、公益性の高い文化事業に還元する、という動きだ。</p>

<p>興味深いのは、そうした「寄付」行為によって、GoogleとWikipediaの間にも一種のエコシステム的結合が生じることだ。</p>

<p>まさに、前田累が『紙の本が亡びるとき？』で指摘した、Google/Wikipedia連合の誕生であり、知の増殖が停止条件なく際限なく進んでいく世界が確保されていくことになる。</p>

<p>それは、同時に、前田が懸念した「切断のない」テキスト、「固着性のない」テキストの増大が約束されることでもある。裏返すと、「固着性のある」「流動性の低い」テキスト＝紙の書籍、の居場所がますます少なくなっていくことでもある。</p>

<p>そして、この点において、Google Bookにおける電子書籍/デジタル書籍の動きが、Googleを介してWikipediaと直結する。つまり、既にあったテキスト＝知の宝庫としての書籍群と、今この瞬間にも生成されつつあるテキスト＝Wikipedia、の双方がウェブ上でリンクされる可能性を見ることになる。それは壮大な夢だが、その壮大さが、アメリカ人であることや英語圏にいることによらないWikipediaというプラットフォームを依り代に選ぶことで、Googleは、というよりは、Brinは、自らの夢の実現を自分たちの外部の存在（この場合はWikipedia）に委ねることができる。Googleのビジネス活動と一線を引いたところで、ウェブ上の知の宝庫作りを行うことができる。</p>

<p>Googleの試みをバベルの塔の再来だと揶揄するのは簡単だ。しかし、ここまで本気で行っていることに対して、Googleの外部にいる人たちはどのようにうけとめたらよいのか。これは熟考に値する問いだと思う。</p>

<p>既に、多くの若い人たち、とりわけ、ドン・タプスコット（“wikinomics”の著者）いうところの「デジタルネイティブ」の子らにとっては、メディアへの接触は「出力の選択」という意識で見られている。そして、その出力の選択方法として、各種デジタルガジェットによるビューワーや紙が挙げられる。</p>

<p>そういう意味では、改めて、Bookとは何か、伝承すべきBookの本質＝魂・精神とは何か、というような問いから愚直に考え直すべき時期が来ているのかもしれない。</p>

<p>Googleの描く「知の宇宙」は、どうやら本気の夢なのだから。</p>]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>Windows Phone 7 はPC産業の変容を演出するのか。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000713.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.713</id>

    <published>2010-02-16T09:50:22Z</published>
    <updated>2010-02-16T10:06:09Z</updated>

    <summary>Microsoftが遅ればせながら陣容を整え直した上でSmartphone市場に参入する。 Microsoft Targets Phones...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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    </author>
    
        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Microsoftが遅ればせながら陣容を整え直した上でSmartphone市場に参入する。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703525704575061253074391256.html?mod=WSJ_Tech_LEFTTopNews">Microsoft Targets Phones</a><br />
【Wall Street Journal： February 13, 2010】</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/02/16/technology/16phone.html?ref=technology">Microsoft Starts Over in Phone Software</a><br />
【New York Times： February 13, 2010】</p>

<p>Windows Phone 7（WP７）がそれ。従来のWindows MobileがPCのWindowsシリーズのUIを踏襲していたのに対して、WP7は設計思想をWindowシリーズから断絶しSmartphoneらしいものに変えてきた。</p>

<p>Hubと呼ばれる機能で、カテゴリー別にウェブ上の複数アプリで利用するデータと統合管理しようとするところは、ビジネス仕様を重視するMicrosoftらしい仕様。</p>

<p>既存のベンダーやキャリアを配慮した座組になっている。基本はソフトウェアベースで、WP7シリーズはベンダーが製造・販売する。ただし、HP、Dellなどのベンダーも独自にソフトウェアを開発し搭載する。</p>

<p>このあたりの、ソフトウェアとハードウェアの開発が綺麗に分断されなくなっている当たりが、SmartphoneがPCのカテゴリーキラーであると多くの企業が思っていることの現れといえる。</p>

<p>*</p>

<p>ということで、アメリカの市場はSmartphoneをPCの次に来る商品として明確に位置づけたといってよい。</p>

<p>AppleとGoogleがそれぞれ企業文化（Elegance vs Algorithm）を反映したエッジのある商品・サービスを提供すれば、その背後をMicrosoftやNokiaがピッタリついてくるといったイメージ。</p>

<p>AppleやGoogleｇが既存のPC産業のしがらみに縛られなくていい分、好き勝手に新しいこと＝新機軸を思い切って試みようとしているのに比べれば、今回のMicrosoftの動きは、当のPC産業のしがらみの中でどう新しい市場の立ち上がりにコミットしていくかという課題への対応の一つといえる。</p>

<p>WP7シリーズの販売は次のホリデーシーズンという。その間に適宜商品スペックのリリースはされるのだろうが、しかし、その間にもAppleやGoogleが販売実績を作りつつ市場イメージを形成していく。そこに後続のMicrosoftらがどう巻き返してくるのか。</p>

<p>既に重厚長大企業並みに官僚化されているとは伝えられるものの、Microsoftからも、たとえば、MS Photosynthのような情報工学の粋を集めたようなソフトウェアが突然リリースされたりする。だから、Microsoftに全くチャンスがないというわけではもちろんない。その意味では、HPもDellもIntelもそう。</p>

<p>むしろ、Microsoftの縛りが消えていく中で、アセンブラやチップメーカーと位置づけられた企業がどのように変容していくのか、経営学の観点からはとても興味深い事例になっていくと思う。市場環境の明らかな変化に対して、どこまで自分たちの既存の地位や市場を捨てて、自分たちの営業活動を再定義できるのか。注目に値する。</p>

<p>そして、もちろん、こうした後続大企業のプレッシャーがAppleとGoogleに更なる加速を強いることになる。</p>

<p>つまり、PC産業の変容（transform）という点で興味深いことが起きる。</p>

<p>これは、コンテントやサービスやあるいはそれらのエコシステムの構築、という点とは異なる文脈で面白い観察対象となる。</p>

<p>Microsoftの全力に是非とも期待したい。</p>]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>CivilからSocialへ： 集合知によるSocial Engineering時代を開くGoogle Buzz</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000711.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.711</id>

    <published>2010-02-14T12:32:56Z</published>
    <updated>2010-02-14T15:22:54Z</updated>

    <summary>GoogleがGoogle BuzzでSocial Network Serviceに参入した。 Generating Buzz 【Econo...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
        <uri>http://www.defermat.com/</uri>
    </author>
    
        <category term="NOTE" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>GoogleがGoogle BuzzでSocial Network Serviceに参入した。</p>

<p><a href="http://www.economist.com/businessfinance/displayStory.cfm?story_id=15501673&source=hptextfeature">Generating Buzz</a><br />
【Economist： February 11, 2010】</p>

<p>上のEconomistの記事が上手くまとめているように、基本的にはFacebookやTwitterの対抗としての参入だ。ただ、既に様々なところで指摘されているように、Google BuzzはG-mailでのやりとりの履歴から自動的にネットワークを構築してしまうようで、それがあまりにPrivacyへの配慮に欠ける行為だとして、開始早々非難を浴びることになった。既に、そのための手当もなされ始めている。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704124704575064282294047738.html?mod=WSJ_Tech_LEFTTopNews">Google to Revamp Buzz Amid Privacy Concerns</a><br />
【Wall Street Journal： February 11, 2010】</p>

<p>G-mailの利用者が膨大な数に上ることを考えると、今後もしばらくはこのような修正行為が続くことだろう。ウェブの世界ではとりあえずベータ版からスタートというのが常識といえば常識だが、今回については拙速が過ぎたようだ。</p>

<p>裏返すと、そういう拙速な所作が必要なくらい、GoogleとしてはSNSの世界への足がかりを早期に確立したい、ということだったのだろう。</p>

<p>GoogleはちょうどサイバーセキュリティについてNSA（National Security Agency）と協力してあたるという発表もしたところ。今回のBuzzによって、期せずして、プライバシーの保護の問題に自ら触れてしまったことになる。</p>

<p>*</p>

<p><a href="http://www.defermat.com/journal/2010/000710.php">前のエントリーでも触れたけれど</a>、Googleの動きは、もはや単なる一企業の動きとは思えないところがある。</p>

<p>ここのところの動きは、あまりにも、政府とか法とか外交とか、とにかく政治的で公共的なことに絡む話が目立ちすぎる。このあたりのGoogleの全方位の野心について、たとえば、次のSalonのように「Googleに囲まれた世界」を語る論考も目立つようになってきた。</p>

<p><a href="http://www.salon.com/tech/htww/2010/02/10/google/index.html">It's Google's world, we just live in it</a><br />
【Salon： February 10, 2010】</p>

<p>Appleとともに、ウェブの世界を構築していく存在として注目を集めている。</p>

<p>それこそ、Lessig, Zittrain, Tim Wu, Benkler、・・・、など、ウェブと関わる法・秩序（≒アーキテクチャ）について研究している碩学たちが、過去10数年にわたって指摘してきた「論点・争点」についてGoogleは一つの解決策をデフォルトとして作ろうとしているように思える。それも、連邦政府公認のルールとして。Googleは、そのルールメイキングに躍起になっているように思える。</p>

<p>裏返すと、それくらい旧来秩序体系の根底にメスを入れていかない限り、ウェブの世界も先に進めないくらい煮詰まった状況に陥っている（あるいは早晩陥る）状況にあると認識している。一連の性急に見える動きは、Googleのそうした認識の表れなのかもしれない。</p>

<p>*</p>

<p>Googleは今、Social Engineeringの夢に取り憑かれている。</p>

<p>文字どおり、社会を工学的に設計し最適化する夢。そして、そのSocial Engineeringの夢から翻って彼らが行ってきたことを振り返ると、Googleは今までウェブでCivil Engineeringを行ってきたのではないだろうか。</p>

<p>Civil Engineeringというのは、日本語では通常「土木工学」と訳される。橋や道路、あるいはダムや鉄道を造る分野。都市機能の外輪をつくりだす工学分野。治水やエネルギー調達、交通路の確保など、人間にとって過酷な自然環境に手を加え、自然空間を人が住める場所、街や都市に変えていく技術。それがCivil Engineering。</p>

<p>GoogleがSearchを導入して以降行ってきたことは、基本的にウェブ版のCivil Engineeringであった。そう考えてみる。</p>

<p>SearchのためにBotによるCrawlingを行い、ウェブの世界の測量を行う。その測量結果に基づいて区画整理をし、人目につく一等地を見つけていく。いわば、土地の開墾と不動産開発をしているようなもの。</p>

<p>その土地にAdSenseやAdWordのような、貨幣の流れを作り、ともかくも、彼らが開墾した都市に形はどうあれお金が流れるようにする。</p>

<p>その都市に様々な人びとが持参金を携えてビジネスやコミュニティをつくりにやってくる。</p>

<p>FacebookやTwitterは、いわば自発的な集団、Associationとしてスタートした。ちょっとリアルワールドと異なるのは、仲間になるプロセスの部分。初発の関係性はリアルワールドの関係を投影する形でスタートするものの、事態が進む内に、むしろウェブ内部での出会いや繋がりが飛躍的に増大していく。Facebookが登録ユーザー数であれば既に日本の人口を越えていたり、Twitterが急速に普及を果たしてきているのも、ウェブの特性があればこそ。</p>

<p>Google Buzzで行おうとしたのは、だから、こうしたリアルワールドの投影＝射影としてスタートしたSNSサービスを、関係性の構築というところで、もっと大規模に、かつ、もっとラディカルにしようとする試みなのだろう。それがGoogleの創始者の一人であるBrinがS/N比の向上、という言葉でGoogle Buzzを説明していることの表れではないか。</p>

<p>いわば、いまある「人との関係性＝社交性＝社会性」をG-mailというアプリの利用実績に基づき、強制的にウェブの上に上げてしまう。「世界の全ての情報をネットに上げ、検索可能とする」ことを目指すGoogleらしい動き。この場合、「社会的関係＝Social Graph」が全て大規模に可視的にウェブに上げられてしまう。</p>

<p>その超大規模な関係性を一人一人の個人がプレッシャーで押しつぶされずにやりとりできるようなものにするために、大々的にコンピュータパワーを活用する。つまり、コンピュータの支援を受けた「コミュニケーションパワー」が新たに構築される。そうしてGoogle Buzzの参加者の一人一人を全て聖徳太子のようにしてしまう、そんな複数のコミュニケーションを同時並列的に処理できるような機能の実現をめざしているのではないか。</p>

<p>今ならTwitterの流れはTime Lineと、線形の一次元の流れとして表象されているが、これを、Time Plane（二次元）、Time Cube（三次元）、の流れに変えてでも認識可能なコミュニケーションパワーが設計される。</p>

<p>たとえば、線形一次元のTime Lineですら、既に個人の処理能力を超えているところがあり、その調整をするためには、いまのところはユーザーによる人力でフォロワー数を増減させることで対応されている。このTime Line管理のような部分に、Googleは大々的に情報科学・工学の成果を投入することで、コミュニケーションの様相を一変させようと考えているに違いない。</p>

<p>このことがある意味でトンデモ構想であることは認めた上で、しかし、Brinらは、ウェブによって強化された（Enhanced）された集団≒Societyのあり方をGoogle Buzzで模索しようとする。これが、新たなSocietyを構築する工学＝Social Engineeringの開発を促すことになる。</p>

<p>*</p>

<p>ここで、二つの補足を行う。</p>

<p>一つはSocietyという言葉。日本では一般に「社会」と訳され、たとえば、具体的イメージとしては地域社会とか企業社会が想定される。人の集団というよりは、人が集まる「鋳型」の方を指す言葉。感覚的には「世間」というニュアンスでもある。</p>

<p>一方、英語のSocietyは、もっと多様で、集団やグループ、あるいは同好会、結社、というニュアンスでも使われる。とにかく人が自発的に集まった集団＝クラスターを指す言葉として。</p>

<p>だから、Social Engineeringというのも、日本語で「社会工学」というと、土木工学よりは上層の、けれども、人びとを収める鋳型としての「社会」を管理するものとして、たとえば、都市計画のようなニュアンスで取られがち。</p>

<p>しかし、Societyが自発的にクラスターという英語的ニュアンスで行けば、Social Engineeringはむしろ「人びとの関係性を操作する、あるいは、新たな関係性を創り出す工学」という意味になる。</p>

<p>そして、これが二番目の補足になるが、この「社会集団への操作的介入」というニュアンスがアメリカの場合強く、「自由を抑圧する」技術としてSocial Engineeringという言葉が否定的に取られることになる。とりわけ、JFKやジョンソンの頃の、50年代から60年代にかけての、デモクラット主導の「大きな政府」とのオーバーラップもあってこうしたニュアンスがある。</p>

<p>この二つの補足をした上で、しかし、Googleが今行おうとしているのは、ウェブ上のCivil Engineeringの経験やノウハウを使って、文字どおり人びとの集団化の動きに関わっていこうということだ。だから、プライバシーやセキュリティの問題は当然に浮上する。というか、社会の関係性を操作する、という振る舞いに対して、政治や法律の文脈で介入する視点・手段が、プライバシーやセキュリティぐらいしかない、というのが現状ではないか。</p>

<p>だから、今後は、Google Buzzが提案する様々な「（トンデモ）機能」に対して、それらの法的概念を彫啄するような動きも出てくるだろう。私たちは、工学的に強化された社会関係や、そうした工学的に強化された社会を所与の環境とした「社会把握」の方法を、これから創り上げていくのだと思う。そして、それは、統治の術として、政治学や法学の概念の更新や創造をも必要にしていくのだと思う。</p>

<p>*</p>

<p>ウェブ上の「Civil EngineeringからSocial Engineeringへ」。</p>

<p>こう捉えるとき、逆にCivil Engineeringについても考えが浮かんでくる。それは「Civil」という言葉。</p>

<p>上で、さらっと、Civil engineering＝土木工学、としたが、しかし、どう考えても「Civil＝土木」ではありえない。</p>

<p>Civilという言葉はとても多義的な言葉で、その多義性ゆえ、日本語にするとその痕跡が見えなくなる。</p>

<p>上の、civil engineering＝土木工学、に加えて、たとえば、Civil War=南北戦争（内戦）、civil right=公民権、civil law=ローマ法、という具合に。</p>

<p>見事に、日本語訳ではcivilの痕跡は消えている。</p>

<p>Civilは、ラテン語のキビタス（civitas）という言葉から派生して、キビタスは、ローマ帝国時代の市民（権）を表す言葉とされている。だから、人びとが集まって集団を作ったときの土台となる、ぐらいの意味がCivilに込められているのだと思う。</p>

<p>ちなみに、アメリカの場合、Civil Engineeringの評価が高い大学は中西部に多い。たとえば、ウィスコンシン大学など。もともと、中西部の大学は、東海岸の私立大学（アイビーリーグなど）と異なり、州立大学が最初にできたところが多い。それは、街を作るためには、文字どおり荒野を開墾し、治水や道路・橋を整備するのが急務の場所で、そのために実践的な知識を伝える必要があったため。</p>

<p>たぶん、Googleが捉えるウェブの現状は、準州から州に成り立てのころの、アメリカ中西部の地域のようなものなのだろう。街を作り、コミュニティや教会を作る。そこに人の関係性や、公益などの社会経済的関係も生まれてくる。</p>

<p>そう思うと、GoogleのCivilからSocialへの展開は、人の集団の新しい統治方法や統治ルールを生み出す展開だと考えられる。</p>

<p>そう思うと、Twitterになれるかどうか、とか、果たして成功するかどうか、といった話題は随分矮小化されたものであることに気付くと思う。</p>

<p>Googleは、フロンティア時代の中西部の社会の立ち上げにあたることを、いま、21世紀的環境の下で、ウェブの中で行おうとしている。</p>

<p>今流行の「集合知」による統治。</p>

<p>Google Buzzはそうした集合知的統治の前哨戦となる動きなのだ。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>Googlized America： アメリカの風景を更新するGoogle</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000710.php" />
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    <published>2010-02-12T13:06:45Z</published>
    <updated>2010-02-14T05:45:02Z</updated>

    <summary>Googleが光ファイバベースのブロードバンドサービスを提供する計画を公表した。 Google Jolts Telecom Rivals  ...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Googleが光ファイバベースのブロードバンドサービスを提供する計画を公表した。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704140104575057273487119574.html?mod=WSJ_Tech_LEFTTopNews">Google Jolts Telecom Rivals</a> <br />
【Wall Street Journal： February 10, 2010】</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/02/11/technology/companies/11google.html?ref=technology">Google to Offer Fast Broadband as Trial to Spur Providers</a><br />
【New York Times： February 10, 2010】</p>

<p><a href="http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/02/10/AR2010021001649.html">Google to launch turbo-speed Internet trials</a><br />
【Washington Post： February 10, 2010】</p>

<p>既にワイヤレス・ブロードバンドに対しては、Nexus Oneの発売をはじめ、インターネット接続やIP電話、モバイルアドの会社への出資や買収を表明し、会社としてのコミットメントを明確にしていたわけだが、今回の動きでワイヤード（有線・固定）系にも戦略的な手を打つことになる。</p>

<p>好意的に解釈すれば、YouTubeやCloud Computingなどのサービスの活用を図るためにブロードバンド網は不可欠で、アプリケーションレイヤーでの投資計画を明確にしていくためにも、ブロードバンド網の配備スケジュールを自分たちでコントロールできた方が望ましい。だから、Googleに有利なエコシステムを、Googleの戦略スケジュールに沿ってくみ上げていくためにも、アクセス網の部分に、無線か有線かを問わず、進出していく、ということなのだろう。</p>

<p>もっとも、既存事業者であるテレコムやケーブルの事業者は、Googleから具体的な投資計画が示されていないことから、たんなるPR用のパフォーマンス（publicity stunt）に過ぎないと見ているようだ。</p>

<p>実際、Googleの計画は全米を対象としたものではなく、いくつかの都市をキメ打ちして参入すると伝えられている。そのため、既存事業者の投資計画に圧力をかける類の所作と思われても仕方がないところがある。</p>

<p>そのようなクリームスキミング（おいしいとこ取り）的な参入が噂されるため、本件はテクノロジーやビジネスが理由であるだけでなく、むしろ、オバマ政権のブロードバンド配備計画を側面から支援する、そうした「政治的動き」と見る向きすらある。</p>

<p>*</p>

<p>ただ、この「政治的動き」という場合、単にブロードバンド配備にとどまらない意味を持つ。</p>

<p>なぜなら、アメリカは、現在、20世紀のレガシーシステムになりつつある各種インフラ設備の更新に注力しているから。そして、Googleは、スマートグリッド計画のような、エネルギー分野にも進出を表明しているから。</p>

<p>IR的には、つまり、投資家向きにはキャッシュを固定する設備投資計画には難色を示す意見もあるようだが、Googleからすれば、</p>

<p>「ハイテク・スタータップ企業」　という認知から、<br />
「政府のバックアップもある巨大企業」　という認知へと、</p>

<p>自社の位置づけを更新することも企図しているのかもしれない。</p>

<p>政府のインフラ整備の動きに寄り添い、先導する役割として。</p>

<p>*</p>

<p>たとえば、エネルギーの他にもアメリカでは、排出ガス制限という点から、大々的に鉄道の配備を見直そうという動きがある。</p>

<p>アメリカといえば20世紀のモータリゼーション（自動車社会化）を先導した国。LAやヒューストンのような、自動車による移動が前提の大都市を創り上げることで、20世紀後半の世界の大都市のイメージのひな形を用意した（もっとも、LAの場合は、東京と違って、無限定なスプロールではなく、エッジシティのような職住接近型のサブ都市を分泌していった、という動きもあるのだが）。</p>

<p>そのモータリゼーションの国アメリカで鉄道を見直す動きがある。とりわけ、高速鉄道＝新幹線を導入する動きが目立つ。</p>

<p><a href="http://www.wired.com/magazine/2010/01/ff_fasttrack/">Superfast Bullet Trains Are Finally Coming to the U.S</a>.<br />
【WIRED： February 2010】</p>

<p>モータリゼーションを先導したカリフォルニアでむしろ計画がさかんであったりする。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2009/06/14/magazine/14Train-t.html?_r=1&ref=magazine">Getting Up to Speed</a><br />
【New York Times Magazine： June 10, 2009】</p>

<p>このように大々的にインフラを組み替えていこうという動きがオバマ政権になってから現実化してきている。そして、とりもなおさず、インフラを更新するということは、都市空間の風景が順次変わっていく、ということだ。</p>

<p>そういう動きの中でGoogleが様々な点から絡みつつある。今回のブロードバンドの動きもその一つに過ぎない。</p>

<p>*</p>

<p>ここで唐突だが、GoogleはNASAが50年間担ってきた「先端科学技術によるフロンティアの開発」という役割を、<a href="http://www.defermat.com/journal/2010/000709.php">この前のエントリーで記したように</a>、NASAが宇宙開発の最前線から一歩後退することになった現在、ひきつごうとしているように見える。</p>

<p>ただし、そのフロンティアは、アメリカの国土・景観をITを活用して造りかえていこうというものでその意味では「内なるフロンティア」。その担い手たるGoogleも正確にはシリコンバレーのトップバッター、先行者、という意味でだ。Google以外のハイテク企業ももちろんその「内なるフロンティア」の探検者の一人ということになる。</p>

<p>つまり、経済不況という要因も大きく影響しているが、オバマのアメリカは国内に向いた動きが中心になったということだ。一足飛びにアメリカの覇権が消えたなどというつもりはないが、おそらくは少しばかり成熟の道、つまり、欧州の国のように振る舞うことを始めたように思う。少なくとも内政においては。</p>

<p>そうした動きは、たとえば、冲方丁が『天地明察』の中で描いたように、保科正之が江戸幕府の統治の有り様を、武力による統治から文化による統治へと変転させるために、「改暦」という技術革新を用いて時代のフェーズが変わったことを人びとに知らしめようとしたことに近いと思う。スケールの大きい技術革新を媒介にして、あわせて時代が変わったことを文字どおり人びとに直観させ得心させるために。</p>

<p>だから、NASAのフロンティアからの後退（＝イノベーションの推進装置）と、Googleらハイテク企業のインフラへの関与は、表裏一体の出来事だと思う。Googleのブロードバンドへの進出もスマートグリッドへの進出も、こうした文脈で理解すべきだと思う。</p>

<p>*</p>

<p>NASAからGoogle(とシリコンバレーハイテク企業)へ、というのは、ぐるりと回って、東海岸的な歴史・文化から西海岸的な歴史・文化へ旋回した出来事として捉えることもできる。</p>

<p>それには60年代的カウンターカルチャーの話から入る必要がある。</p>

<p>60年代のNASAは、今日であればNSAのような存在。つまり、国家という権力が個人に覆い被さってくるような存在として捉えられていた。</p>

<p>だから、NASAの存在が、ある意味で、60年代のカウンターカルチャー・ムーブメント（対抗文化運動）を産み出す要因の一つだったといっていい。カウンターカルチャーがムーブメントとして継続するには、ビッグ・ブラザーの存在が必要だったから。</p>

<p>ちなみに、対抗運動をきっかけになって、後日アメリカ南西部に拡がった動きがニクソン→レーガン→ブッシュで体現された、アメリカの「保守革命」。つまり、（東海岸のエスタブリッシュメントへの）対抗運動自体、「保守革命」の遠因であった。</p>

<p>わかりやすくいうと、FDRからJFKにかけて、東海岸のBoston-NY-DCのラインで形成された、nationalなもの、アメリカ国民の統合、の「夢想」に対して、そんな東海岸主導の窮屈な統一はいらないと反旗を翻したのが、San Franciscoを中心に展開されたのがカウンターカルチャー・ムーブメント。</p>

<p>つまり、東海岸＝ビッグ・ブラザー、に対抗して提案されていたのがカウンターカルチャー・ムーブメント。そして、その運動が提案した「一見無軌道な生のあり方」に対して情動的反発からスタートしたのが、南部を中心に浮上した保守運動（conservatism）であった。</p>

<p>だから、カウンターカルチャーにしても、保守運動にしても、東海岸＝ビッグ・ブラザー＝FDR・JFK路線、に対してNoを突きつけることが原初的な動機だった。</p>

<p>その後の動きは、政治的には、ベトナム戦争とオイルショックに起因する財政危機によって、東海岸＝ビッグ・ブラザーが自壊し、ビッグ・ブラザーの母体がデモクラットであったが故に、政治的にはGOPの巻き返しが実現し（このあたりは二大政党制という二択からの選択に過ぎない）、80年代以降は、レーガノミクスの時代としてオバマの登場を待つまで続く。</p>

<p>一方のカウンターカルチャーは、政治的な運動としては低迷しながらも、その一部はテクノロジーと結びついて、PC/Webへと続く「情報革命」を用意する。</p>

<p>オバマの登場は、アフロアメリカン初の大統領という歴史的位置づけもさることながら、彼のシリコンバレーとの密月を考えれば、むしろ、アメリカ南西部（カリフォルニアからテキサスを含む領域）の20世紀後半の歴史的文化的蓄積が、アメリカの政治の本流になだれ込むというところが新しい。少なくともGoogleとオバマのホワイトハウスの密月はそういうことの現れ。</p>

<p>今回のNASAの方向転換、Googleらシリコンバレーハイテク企業の前景化もこうした文脈でとらえるべきだろう。</p>

<p>ついでにいえば、ブッシュ(w)がゴーを出した「星座計画で月を目指す」、というのは、国民統合的圧力をよしとしないGOP（共和党）からすると大きな矛盾。</p>

<p>二期目のブッシュ政権が選挙で大勝ちしたにもかかわらず、支持を失っていく背景にはこうした矛盾もあった。ニクソン並みの大きな政府を志向するものとして、ブッシュはGOP内部からも叩かれた。そして、大きな政府志向の最終形態がPaulson財務省長官とともに行った金融救済プログラム、ということになる。</p>

<p>だから、ここには大きな捩れがある。</p>

<p>ブッシュがNASAを使って再召還しようとした、JFK時代のデモクラットによる「国民統合の夢」を、現代のデモクラットの象徴であるオバマが否定した、というのは何ともいえない歴史の皮肉だ。</p>

<p>*</p>

<p>このように西海岸、あるいは、南西部の人びとが抱くアメリカに対する思いが、オバマ政権の登場以後、徐々に浮上するようになってきた。</p>

<p>面白いのは、上でも少し触れたが、いわば、東海岸の判断で南西部に配備されたNASA（と軍関係の施設）という存在が、その科学技術の開発力を現地に根付かせることによって、南西部の位置づけ自身を変えてしまったところ。カリフォルニアのみならず、ネバダやアリゾナまで全米で重要な役割を担う州にまでなったのは、NASAや軍施設に代表されるアメリカの“national=国民的統合”の夢に費やされた莫大な政府資金によっている。</p>

<p>いわば、NASAや軍施設は東海岸の贈り物のような存在として南西部に根付き、街や人びとを育んだことになる。ハイテクがなければ、そもそも砂漠や荒野であったアリゾナにフェニックスのような都会は生まれ得ない。エアコンを最大限活用しない限り大量の人びとは生活できない。それもフーバーダムによる水力発電があればこそ。</p>

<p>そうした開拓された人工的な自然の中で育った人びとや企業が、21世紀のアメリカのインフラ≒都市風景の基盤を更新しようというのだから。こういうところにアメリカの歴史の面白さがある。</p>

<p>私たちは、その面白さの反復を、今、目の当たりにしているのだ。</p>]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>Space Shuttle 最終便、天空へ</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000709.php" />
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    <published>2010-02-11T12:44:07Z</published>
    <updated>2010-02-12T06:20:25Z</updated>

    <summary>フロリダのケープカナベラル基地からEndeavorが打ち上げられた。スペースシャトルとしては最後の打ち上げだ。 Shuttle Blasts...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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    </author>
    
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>フロリダのケープカナベラル基地からEndeavorが打ち上げられた。スペースシャトルとしては最後の打ち上げだ。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/02/09/science/space/09shuttle.html?ref=space">Shuttle Blasts Off for Space Station</a><br />
【New York Times： February 8, 2010】</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/02/09/science/space/09essay.html?ref=science">For Human Spaceflight, Can Measured Beat Bold?</a><br />
【New York Times： February 8, 2010】</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/02/09/opinion/09tue1.html?ref=opinion">A New Space Program</a><br />
【New York Times： February 8, 2010】</p>

<p>最後、というのは、オバマ政権になって科学政策が見直されたから。この政策方向転換によって、ブッシュ（W）時代に立ち上げられた「人類を再び月面に」という、アポロ計画アゲインであった“Constellation Program(「星座計画」)”は中断された。</p>

<p>宇宙に人を送り込むのは、これからは民間企業が行う。そして、NASAの役割は、オバマのいう“Game-changing Technology”の開発が中心になる。たとえば、宇宙空間での精密作業が行えるようなロボティックスの開発や、宇宙ステーションの稼働のためのエネルギー確保手段など。</p>

<p>わかりやすくいうと、民間企業が行う「宇宙ビジネス」で継続的にアメリカ企業が優位となるように、その基盤を支える技術開発を国家予算の下で行うということ。つまり、オバマ政権は、宇宙開発を産業として本格的に立ち上げる準備に入った、ということだ。アメリカでは珍しい「産業政策」が採択されたことになる。</p>

<p>NASAは、これ以後、宇宙という「フロンティア」を探索する最前線から一歩退き、様々な企業が宇宙進出するための支援機関、宇宙産業に奉仕する機関に様変わりする。</p>

<p>この方向転換は、だから、単なる予算削減、という以上の意味合いを持つ。</p>

<p>つまり、</p>

<p>宇宙開発という「夢」を希求する場所から、<br />
粛々とイノベーションそのものを目的として遂行する場所へ。</p>

<p>あるいは、こういってもいいと思う。</p>

<p>かつてはシリコンバレーのスタータップに多数の技術を直接的・間接的に提供し、いわばシリコンバレー全体のインキュベーターの役割を果たしたNASAが、自分の育てた子供たちであるシリコンバレー＝ハイテク産業に追い越され、時代状況の違いから、むしろ、そうした外部のハイテク産業の「イノベーション」に直接奉仕する立場になった、と。</p>

<p>フロンティアの探索から、イノベーション自身へ。<br />
夢から産業へ。<br />
科学から工学へ。</p>

<p>NASAは大きく様変わりしようとしている。<br />
それは、同時に、私たちが長らく科学に求めてきた「夢」が一端リセットされることでもある。</p>

<p>*</p>

<p>スペースシャトルといって思い出されるのは、打ち上げ直後皆が見守る中、爆破してしまったチャレンジャー号。</p>

<p>あの映像は衝撃だった。今まさに成層圏を突破し宇宙に飛び立たんとするその瞬間に、チャンレンジャー号は無残にも爆破してしまったので。その瞬間、アメリカ人の夢は悪夢へと一変した。</p>

<p>そう、シャトルが宇宙に飛び立つとき、私たち（それはアメリカ人のみならず中継映像でその様子を見る私たちのような日本人も含むのだが）は、宇宙というフロンティアへとつながる夢、ロマンを感じてきた。</p>

<p>そして、この「フロンティアへ乗り出す夢」はアメリカ史について回る夢でもある。</p>

<p>端的にいって、NASAは20世紀におけるアメリカの夢を生み出す装置として機能した。</p>

<p>その夢とは、アメリカ人としての「一体感」。</p>

<p>*</p>

<p>しばしばNASA、あるいは、アメリカ航空宇宙局、といってすませてしまっているけど、正式名称は</p>

<p>the National Aeronautics and Space Administration</p>

<p>で、“National”が付けられている。</p>

<p>この“National”という言葉はアメリカでは特別なニュアンスを持つ。単純に「国立」といってすむものではない。</p>

<p>アメリカの場合、政府機関にはFederalと呼ばれるものが多い。おおむね、建国の頃からある機関は、federalが冠に付けられている。それは、stateとの対比の上からのこと。たとえばFBI（Federal Bureau of Investigation）。管轄として州をまたぐ犯罪を扱う。</p>

<p>FederalとStateの区別はアメリカでは厳密で、あくまでも、州の連合体（United States）がアメリカだ（of America）、ということになる。</p>

<p>一方、nationalには「連邦か州かを問わずアメリカにいる人みんなのために」というニュアンスが強い。だから、冠としてつく対象は、軍関係や、図書館・博物館などのアーカイブ系、あるいは、学術集団、など、「アメリカ市民に対する普遍性」が必要な機関が多い。</p>

<p>そして、それは時期的には、アメリカで「連邦か、州か」という対立軸が未曾有の経済不況によって強制的に無効化され、「大きな政府」が当たり前になるFDR以降、さかんに利用されるようになる。</p>

<p>とりわけ、第二次大戦を通じてアメリカが国際的に台頭し、ソ連との対立が冷戦として明らかになる時期（1940～60年代）に設立された機関で多用されるようになる。</p>

<p>NASAもその一つ。</p>

<p>（その他にはNSA（National Security Agency：通常「国家安全保障局」と呼ばれる）やNSF（National Science Foundation）など。）</p>

<p>Nationalが負う「国民的統合」やそれによる「国民国家」という意味合いが、第二次大戦後のアメリカでは、建国以来、ようやく実体的意味を持つものになった。</p>

<p>だから、ロケット開発からミサイル開発に連なる研究を、ソ連との間の「宇宙のフロンティア争奪戦」へと転調させることで、軍事的覇権と国民統合がセットになり、いわば「統一アメリカ人の夢」としてNASAの活動は徐々に象徴的意味合いの負荷が重くなっていく。</p>

<p>州と連邦の対立を越えて、アメリカ人として一体となる、そういう意味が“national”には込められている。</p>

<p>NASAはその急先鋒だったわけだ。宇宙にアメリカ人を、それもソ連に先駆けて、というミッションからスタートした時点で、「国民統合という夢想」を背負ってスタートしたといってよい。</p>

<p>そして、宇宙にフロンティアを求めることで、アメリカの歴史に色濃く残るマニフェスト・デスティニイを、他の国家との摩擦の少ない、「未踏の地」としての宇宙で再度求めるようになった。</p>

<p>だから、はなからnation-stateとして自律していた諸国が連合を作るEUをUSAになぞらえてUSEと呼ぶのは全く間違っている。</p>

<p>アメリカは、いまだに「国民的統合の夢」を見続けている、一種の領邦国家なのだ。</p>

<p>*</p>

<p>従って、今回の路線変更の歴史的意義は想像以上に大きい。</p>

<p>国家＝USAが率先してフロンティアを開く、というミッションが消えた。</p>

<p>今後、宇宙に踏み出すのは、民間企業とのコラボレーションとなる。</p>

<p>そして、NASAは、そうした宇宙空間のような、特殊な環境の下で、人類（というかさしあたってはアメリカ人）がどのように活動できるか、そのための各種支援のための技術が開発されることが優先される。それが、ロボティックスであり、代替エネルギー手段の開発、だ。</p>

<p>裏返すと、宇宙、少なくとも、地球の上空から月にかけては、もはやフロンティアではなく「開拓すべき空間」として認識されたことになる。その開拓・開墾に必要なものから技術開発が行われていく。</p>

<p>つまりは、イノベーションに屈した。</p>

<p>イノベーションを自己目的化し、それを国が支援していくための枠組みとしてNASAは、新にその存在を再定義することになる。</p>

<p>つまり、以前は、NASAの研究開発成果のスピンオフが、シリコンバレーのハイテク企業を誕生させていったのだとすれば、今後は、むしろ、NASAはそうしたシリコンバレーの夢を回し続けるための、いわば産業利用を自己目的にした機関になる。その時点で、シリコンバレーとの向き合い方が逆転する。</p>

<p>NASAはイノベーションが自走するためのエンジンとなる。</p>

<p><br />
******</p>

<p>補足：</p>

<p>「アメリカはいまだ国民国家ではない。」</p>

<p>これは、それほど奇異な発想ではないと感じている。</p>

<p>たとえば、リチャード・ローティの『アメリカ未完のプロジェクト』。原題は“Achieving Our Country”であって、Nationという言葉は巧妙に回避されている。</p>

<p>ローティは、この本の中でアメリカの文化的断絶を乗り越えて、統合を呼びかけているのだが、その統合は、国民的一体感というよりは、ローティ特有の、互いに価値観がバラバラであっても公の場では融通を付け合おうという気持ちを互いに共有することで成立するもの。</p>

<p>だから、多分、nation-stateという具合に、nationとstateが自明のように並記される事態にアメリカはいまだにない。むしろ、nationという統合感をstateに直結させることをできるだけ忌避する力が常に働いている。その結果、「バラバラの中の統合」、という社会編成が貫徹される。</p>

<p>その一方で、そのバラバラ感に対して、個々のアメリカ人（国民ではなく市民）が実存のレベルで正気を保ち続けるために、伝統的な宗教や、新宗教、もう少し緩い感じのスピリチュアリティが遍在している。</p>

<p>このあたりは、また別の機会にもう少し掘り下げてみたい。</p>]]>
        
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    <title>忘れ去られたMicrosoft？</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000708.php" />
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    <published>2010-02-05T14:34:15Z</published>
    <updated>2010-02-05T14:38:30Z</updated>

    <summary>Smartphoneやe-bookが話題の中心になり、AppleやAmazon、Googleらの帰趨が取り沙汰されているときに、すっかり蚊帳...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Smartphoneやe-bookが話題の中心になり、AppleやAmazon、Googleらの帰趨が取り沙汰されているときに、すっかり蚊帳の外に置かれてしまった感のあるMicrosoft。その影の薄さについて、元MicrosoftのエンジニアであったDick Brass氏が分析した寄稿。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/02/04/opinion/04brass.html?ref=opinion">Microsoft’s Creative Destruction</a><br />
【New York Times： February 4, 2010】</p>

<p>よく読むと、OBの一人としてMicrosoftの行く末を案じているのだが、それが故に、かなり辛辣なMicrosoft批判になっている。</p>

<p>一言でいうと、帝国と呼ばれるMicrosoftは、創業期のラッキーに支えられただけの会社似すぎない、とのこと。創業期のラッキーというのは、WindowsとOfficeの成功。</p>

<p>それ以後のプロジェクトは何をしても、社内的には、WindowsチームとOfficeチームの影響で頓挫してしまう。典型的な大企業病。GMのようなものだというのだから事態は深刻だ。</p>

<p>公平のため記すと、BrassはTablet PCの開発担当者であったということ。そして、彼が去った後も続けられたTablet PCの開発部隊は、AppleがTablet型コンピュータをリリースしてくるのではないか予想されていたにもかかわらず、解散させられた。</p>

<p><a href="http://www.defermat.com/journal/2010/000707.php">昨日のZittrainの寄稿</a>もそうだけど、iPadはPCというマシンに引導を渡す役目を担うだろういう認識は強い。Brassもそうで、それはよくも悪くもMicrosoftはソフトウェアに注力し、ハードウェアの部分で失敗してきたから、と。</p>

<p>ただ、新たなマシンの提案には、ハードウェアを含めたトータルのシステムを提案する必要があり、その点で、いまだにMacを作り続けてきたAppleとは、市場というか、世界の見え方が異なっていたのではないかと指摘している。</p>

<p>Microsoftが今後復活するのかどうかについてはopen question（何ともいえない）ということ。今までまともにinnovationを産み出す仕組みを社内に作ろうとしてこなかったのが新商品の開発で成功を逃してきたことの原因だというのだから、この点を改善しない限り、先行きは不透明なままだろう。</p>

<p>もっともAppleがマーケットリーダーにまで復調するとは、10年前はわからなかった。Microsoftに同様のことが起こらないとは言い切れない。さしあたっては、Bingを梃子にしてGoogleの対抗馬としての地位を築けるのかどうかが鍵なのだろう。</p>

<p>世界中でメディア・コンテント商品のディストリビューターになろうとするApple。シリコンバレーを中心と開発されるハイテクの商業化全般にコミットするGoogle。世界向けのECサイトへの脱皮しようとするAmazon。現在話題になっている企業には、わかりやすい成長の夢、シナリオがある。はたして、Microsoftは同種の、しかしMicrosoftにしか設定できない「夢」を提示することができるのだろうか。</p>]]>
        
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    <title>Zittrain, 「インターネットの自由」からiPadにかみつく。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000707.php" />
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    <published>2010-02-04T14:59:44Z</published>
    <updated>2010-02-04T16:19:03Z</updated>

    <summary>ジョナサン・ジットレイン（Jonathan Zittrain）がiPadについて「自由」という観点から論評している。 A fight ove...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>ジョナサン・ジットレイン（Jonathan Zittrain）がiPadについて「自由」という観点から論評している。</p>

<p><a href="http://www.ft.com/cms/s/2/fcabc720-10fb-11df-9a9e-00144feab49a.html">A fight over freedom at Apple’s core</a><br />
【Financial Times： February 3, 2010】</p>

<p>ジットレインは『インターネットが消える日』の著者で、現在はHarvard Law Schoolの教授。インターネットにおける「自由」について、その維持がインターネットの成長にとっても人類にとっても不可欠である、という観点から一貫して論陣をはってきた。</p>

<p>上の論考の主旨も基本的にはその路線。</p>

<p>AppleのJobsは、Apple IIで自ら切り開いたPersonal computerという商品カテゴリーを、iPadで終演させようとしている、と見た上で、iPadが、Apple IIのように外部のソフトウェア会社が自由にソフトウェアを書くことができる環境を選択するのか、それとも、iPhoneのようにApp Storeへの登録過程を通じて、実質的にiPhone上のアプリケーションの生殺与奪の権利を握るのか、どちらを選択するのか、と問うている。</p>

<p>もちろん、インターネットの自由を、その「生成性（generativity）」にとって不可欠と考えるジットレインは、前者、すなわち、Apple IIの時代に戻ることを希望している。</p>

<p>生成性というのは、ユーザーが自由自在にインターネット上にある道具≒各種ソフトウェアを利用できることで可能になる。いわば「読み書きそろばん」のようなもの。誰もが文字や言語を使うことができる（それは習得するための学習機会の提供も含む）ことで、誰もが、文章を書いたり、口頭で発言できたり、という具合に、表現の機会をもつことができる。</p>

<p>この観点から、ジットレインは、iPhoneの管理志向をよしとしていない。そして、iPadがiPhoneのようになることも望まない。</p>

<p>*</p>

<p>だが、iPadの場合は、もしかしたらApp Storeのような管理権限をもつことが、最終的には生成性をむしろもたらすことにつながるのではないかとも思っている。つまり、iPadで監督権限を持つことは戦略的には必要だということ。</p>

<p>というのも、iPadの場合、その利用形態の相当部分を、新聞、雑誌、書籍、そして、テレビ、映画、などの、従来からあるメディア・コンテントの視聴に当てられることになりそうだから。</p>

<p>現行のメディア・コンテントを提供する企業は、おおむね老舗企業。つまり、業界構造は古いし、プレイヤーも固定されている。そうした企業に対して、完全に自由な状況を与えてしまったならば、従来のメディア・コンテント企業の論理のまま、つまり、供給者側のビジネスロジックがそのまま移転されることになってしまうだろう。</p>

<p>だから、Appleが仲介者としての権限（ジットレインはgatekeeperと呼んでいる）をもつことで、Appleはユーザー側の利益を代弁する役割を演じることができるかもしれない。ちょうどAmazonがKindleで出版業界に取った立場のように。</p>

<p>もちろん、AmazonやAppleの態度は、従来のメディア・コンテント企業からすると不愉快きわまりないことだろう。なぜなら、プライシングという聖域に外部の企業が圧力をかけてくるわけだから。</p>

<p>けれども、もしも、メディア・コンテント企業がそのプライシングについて柔軟な対応をすることをユーザーの意見を取り込みながら行うような回路をもっていさえすれば、わざわざAmazonやAppleにユーザーの代理人の立場を取らせることはなかったのではないかと思う。</p>

<p>だから、ここで大事なことは、従来のメディア・コンテント企業は、少なくともマーケティングセクションの担当者の間では、ユーザーの意向を、コンテントの企画からプライシングまできちんと吸い上げる回路を用意することだ。そうすることで、メディア・コンテントの消費というのが、実は、制作者と鑑賞者で成立する一種の共同体から成立していることがわかると思う。</p>

<p>このシンプルな事実にメディア・コンテント企業の経営に携わる人たちが既に気づいているならば、ジットレインのいうように、AppleはiPadをApple II同様、完全オープンにすべきだろう。</p>

<p>だが、実際はそうではない。しばしば本が（大量に売れさえすれば）お札を刷っているのと同じようなものだ、と言われるのは、裏返すと購入者＝読者に対して還元する機会を見誤っている、ともいえる（実際は、そこでの過大な収益が、売れない部分の収益を補填する役割を担うわけだが。この点は映画も同じこと）。</p>

<p>だから、ジットレインの期待する「自由なインターネット」を実現するためにこそ、むしろ、gatekeeperが寡占の進んだ産業に対峙する「自由」を認めてやってもいいのだと思う。</p>

<p>とりわけ、iPadについては、Appleは自前のCPUチップを精算する選択までしたわけだから、いわば不退転の決意を対外的に示したことになる。その不退転の決意は、Appleのステイクホルダーたちにきちんと伝わる。Appleが本気であることが伝われば、普及に対しては本気になる。</p>

<p>ジットレインは、同じテキスト列であっても、ソフトウェアのコードを書くことと、本を書くことあるいは映像を作ること、とが、ウェブ化に向かうにあたって当初のコンディションが全く異なることに気づいてもいいと思う。それこそ、iPadが首尾良く普及した暁に、そうした「自由」に関する問題点を再度指摘すればいい。</p>

<p>求める自由は同じかもしれないか、そこへのアプローチは、「何の自由」の「何」の部分に大きく依存する。その意味で、iPadを巡るAppleとメディア・コンテント企業とのやりとりが、しばらくは注目すべきことだろう。iPodという前例がある以上、当の従来メディア自身が、この話題に多大な関心を示すのは想像に難くない。</p>

<p>iPadは、インターネットの自由について具体的に思考を巡らす機会を与えてくれることになる。</p>]]>
        
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    <title>Appleは十年経っても変わらず瑞々しい !?</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000706.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.706</id>

    <published>2010-02-03T11:54:59Z</published>
    <updated>2010-03-21T14:10:57Z</updated>

    <summary>Fast CompanyがAppleについて、ちょっと悪戯心に富んだ記事を用意している。 Quiz: Are These Comments ...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Fast CompanyがAppleについて、ちょっと悪戯心に富んだ記事を用意している。</p>

<p><a href="http://www.fastcompany.com/article/quiz-are-these-comments-about-2001-ipod-or-2010-ipad">Quiz: Are These Comments About the 2001 iPod or 2010 iPad?</a><br />
【Fast Company： February 2, 2010】</p>

<p>10年前のiPod発表時に寄せられた読者のコメントと、先日のiPad発表時に寄せられたコメントとをシャッフルして、さて、このコメントはどちらに寄せたものでしょうか？、とクイズ形式にしたもの。</p>

<p>サプライズがなくなるとつまらないから、詳細は伏せるけれど（だから、上の記事を実際に見て欲しいところ）、これを見ると、いかにAppleという会社に寄せられる期待が、10年前も今も変わらないか（だから、上のようなクイズが可能になる）、がわかる。</p>

<p>要するに、Appleのブランドイメージが、少なくともこの10年いかにぶれずに来たか、がよくわかる内容になっている。デザインや価格、あるいは、Jobsに寄せる期待と不安、は、10年前も今も変わらない。</p>

<p>だから、ある意味、「Appleがまた何かやってくれるんじゃないか？」というイベントに、数年単位で立ち会っているようなもの。オリンピックのような定番イベントのようなもの。</p>

<p>面白いのはAppleの場合、その定番イベントの主題は、きちんと新商品の提示になっていること。Windows（Microsoft）やPlay Station（Sony）のような、バージョンアップ概念とは異なる提案になっている。</p>

<p>バージョンアップがいわばスペックアップを中心にした単線的な発展経路であるとすれば、Appleの場合は、iPod → iPhone →　iPad、というのは、似てるけど同一ではない、横展開の要素を含む、それがゆえに、文字どおり「変態（メタモルフォーゼ）」を経た「進化」のような進み方になる。</p>

<p>そして、Appleとしてのコア＝DNAは同一のままある。少なくともそう見える。</p>

<p>これは、簡単なようでやはり難しい制御だと思う。</p>

<p>なぜなら、普通の会社のDNAというと社風とか社員気質のように、会社を動かす人間たちの方に求めるけれど、Appleの場合は、端的に商品がそのDNA自体を表現することになる。もちろん、Jobsという強固な同一性は維持されているわけだが（だからこそ、Jobsの健康問題がAppleの決定的なアキレス腱になる）。</p>

<p>個々の商品が、DNAの発言形態としての「表現型」として機能する。</p>

<p>そして、その「表現型」の連続性を確保するために、商品の外観であるデザインが前の商品の形状を継承しつつひねることで、変態としての様も維持している。</p>

<p>この一貫性は、多くの異なる商品を異なる事業部を通じてスクラップアンドビルトしていく企業では困難なことになる。</p>

<p>*</p>

<p>もう一つ面白いと思ったのは、このFast Companyによる記事自体、Web時代になったからこそ容易に実現できるものだ、ということ。</p>

<p>いわば、記事やコメントがデータとして蓄積されているからこそ、即座に行える。</p>

<p>Life logならぬCompany logがそこにはある。</p>

<p>Fast Companyの場合は、オンライン出版をしてきたから、過去10年の比較が容易にできた。そして、今、私たちがいる状況は、多くの企業がオリジナルのサイトを立ち上げ、規模の大小や労力のかけ方の違い、という程度の差はあれ、既にPublishingをしている世界だ。</p>

<p>だから、今回のFast Companyのような、10年前の自分たちのリソースを使った企画というのは、今後、多くの企業で可能になっていく。</p>

<p>その時、Appleのような連続性の担保された一貫性、つまり、目に見えてわかるその会社の歴史=物語が切り出せるかどうかが、人びとの記憶にその会社や商品が残るかどうか、に大きく関わることになるはずだ。</p>

<p>つまり、思いの外、このFast Companyの記事が触発してくれたことは、今後の企業コミュニケーションにおいて重要な示唆になっている。</p>

<p>Life logのようにCompany logやProduct logを考える。<br />
そのために何をしていくか。</p>

<p>Web-centric時代の、ブランディングに関わる発想の中核になるように思う。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>Googleの四つの重点研究領域</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000705.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.705</id>

    <published>2010-02-02T14:17:42Z</published>
    <updated>2010-02-02T14:22:32Z</updated>

    <summary>Googleが大学の基礎研究に対して570万ドルの研究資金を提供すると発表。 Google Extends Outside Research...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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    </author>
    
        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Googleが大学の基礎研究に対して570万ドルの研究資金を提供すると発表。</p>

<p><a href="http://bits.blogs.nytimes.com/2010/02/01/google-extends-outside-research-funding-to-new-fields/?ref=technology">Google Extends Outside Research Financing to New Fields</a><br />
【New York Times： February 1, 2010】</p>

<p>重点領域は四つ：</p>

<p>● Machine Learning<br />
機械、ボットの学習能力の開発。</p>

<p>● Use of mobile phones as data collection devices for public health and environment monitoring<br />
公衆衛生や環境のモニタリングのための、モバイルを利用したデータ収集方法。</p>

<p>● Energy efficiency in computing<br />
コンピューターにおけるエネルギー利用の向上。</p>

<p>● Privacy<br />
プライバシー、個人情報に関わる研究。</p>

<p>この四領域が、Googleが今後開発に携わる重点領域と考えておいていいだろう。</p>

<p>機械学習能力の向上は、“Don't Be Evil”をGoogleが掲げる以上、常について回るテーマ。人を介さずに予めプログラムされた手順で文字どおり、機械的に行われるからこそEvilを排すことができる。「人間外し」のGoogleには不可欠な要素。</p>

<p>モバイルによるデータ収集の対象は、広い意味で環境保護につながるもの。人間に対してカタストロフが起こらないようにする。</p>

<p>後ろの二つは、基本的にはCloud Computingの実施に必要なもの。</p>

<p>エネルギー効率の向上は、データセンターにおける使用電力を減らすための手法。代替エネルギーに参入するGoogleからすれば、自らのデータセンターのエネルギー効率を上げることが、同時に、代替エネルギーの推進役としてリスペクトされることにもつながる。</p>

<p>プライバシーはいわずもがな。</p>

<p>資金を提供する先は、Googleの二人の創立者の母校であるStanfordやUM（ミシガン大学）を筆頭に、CMU（カーネギーメロン）、プリンストン、等、の研究開発型の大学。</p>

<p>いずれにしても、重点研究領域を中心に据えてGoogleの将来を考えてみるのはいい思考実験になるだろう。</p>

<p>簡単に言えば、Computer Scienceの基礎研究を先導するのがGoogleだということ。</p>

<p>少なくとも、メディアコンテント財の販売/配信プラットフォームを目指すAppleとは大きく異なることがわかる。</p>

<p>想定するゴールはかなり隔たりがあるにも関わらず、直近のサービスは似たような分野で競合する、というのも、なかなか示唆に富むことだと思う。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>コンサルと大学と出版の融合</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000704.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.704</id>

    <published>2010-02-02T12:13:43Z</published>
    <updated>2010-02-02T12:18:41Z</updated>

    <summary>ビジネススクールがコンサル・ファームや広告会社の代わりに、ブランディングなどの企業の課題に応える役割を果たすようになってきた、と伝えるWSJ...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
        <uri>http://www.defermat.com/</uri>
    </author>
    
        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>ビジネススクールがコンサル・ファームや広告会社の代わりに、ブランディングなどの企業の課題に応える役割を果たすようになってきた、と伝えるWSJの記事。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704320104575015060414774920.html?mod=wsj_share_digg">The Campus Consultant</a><br />
【Wall Street Journal：January 21, 2010】</p>

<p>主に「コスト」と「客観性の担保」の二点から、ビジネススクールが選択されているという。コストの点では端的にコンサルよりも安いから。客観性の担保の点では、アカデミックに多数の事例も含めてビジネススクールは研究しているから。</p>

<p>記事でも説明されているとおり、コンサルもBスクールもそのスタッフが持つスキルは大して変わらない。軸足がどこにあるか、ということぐらい。</p>

<p>コンサルは、ビジネスの現場にいながら、アカデミックな知識の現場への応用について知恵を巡らず。一方、Bスクールの教員は、一歩引いて個々のビジネスよりも産業レベルで俯瞰しながら、個別の企業の実践知を汎用性の高い知識に変えていく。</p>

<p>これが、従来の役割分担＝棲み分けだったのだが、その境界が曖昧になってきている。</p>

<p>コンサルの側では、大きなテーマに関してオリジナルの知識蓄積をすべく研究所をつくったり、現場の知識の集約をするために、オリジナルのレビュー誌を出版してアイデアの専有性、先行性を主張する。</p>

<p>Bスクールの側は、逆に、今回のようにコンサル業務を、中間管理職以上の教育（mid-career program）を通じてできた人脈に基づきながら、担っていく。</p>

<p>もっとも、人材交流という点では、既に、コンサルフォームのコンサルタントや投資銀行のアナリストがBスクールなどの教員を兼任することあるし、一方、大学教授がコンサルのアドバイザーになることもある。</p>

<p>このように、人材交流が以前から起こっていたことを踏まえれば、上の記事のような事態は起こるべくして起こっていることといえる。</p>

<p>つまり、知識提供、知識援助事業として、教育、コンサル（もしくはシンクタンク）、そして、出版、というのは、原材料としては同じ（もしくは類似の）知識を、その利用者に応じて、使い分けていたに過ぎない。</p>

<p>だから、全ての知識がWebにあがり、知識加工のプロセスであるコミュニケーションがほぼ全てWebで行われる、Web-centricの時代には、必然的に、教育、コンサル、出版、は渾然一体となっていく。</p>

<p>出版についての片鱗は、例えば、Scientific AmericanやMIT Technology Reviewのような科学系の雑誌を中心に既に起こり始めている。読者共同体の多くがSNSやTwitterでWebに乗ってきているため、知識交換はWebで行われるのが当たり前。</p>

<p>そういうダイナミックな動きに乗り出すため、これもまたなかば必然的にWeb Publishingとしてサイトが進化していく。単に雑誌誌面が記事として（前田塁の言葉でいえば）「固着」したままサイトに上げられるわけではなく、外部リンクの可能性や、先行記事との参照など、複数の知識化のプロセスに開かれた形でアップされる。</p>

<p>そうした開かれた知識の提供者の一人として、コンサルやアカデミックが登場する。</p>

<p>Publishingという言葉は、その原義は、公にする、ということ。対して、出版、というのは（印刷のための）「版」と関わりが自明視された言葉。だから、出版ではなく、Publishingの方で考えれば、コンサルの情報提供も、アカデミシャンの講演なども、すべてPublishingになる。</p>

<p>このように考えれば、コンサル、教育、出版、は同一平面上にある活動だということが理解しやすくなると思う。</p>

<p>さらにもう一段進めば、知識供給者としての企業、が浮上する。これは、たとえば、建築の分野で先行して起こったことで、日本ならば、INAXやTotoのような企業が、建築物全体に関する構想について、Publishingしている。</p>

<p>だから、上の記事で示されていることについては、この段階で驚いてしまうのではなく、むしろ、この先はどうなるのか、どうしたいのか、という方に頭を巡らした方が生産的だし精神的にも健全なことだと思う。</p>

<p>実務（ビジネス）を中心に、教育、コンサル、出版、は一度融合し、その後ユーザーの要請に即した形で再構造化される。そのシナリオを考えてみることは頭の体操になる。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>Web-centric時代の企業組織モデルとして浮上するトータル・サッカー</title>
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    <published>2010-02-01T14:59:01Z</published>
    <updated>2010-02-02T02:58:32Z</updated>

    <summary>最近よく話題になるソーシャルゲーム会社ZyngaのCEOであるMark Pincusが、自身のマネジメント手法について、NYTのインタビュー...</summary>
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        <name>junichi ikeda</name>
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    </author>
    
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>最近よく話題になるソーシャルゲーム会社ZyngaのCEOであるMark Pincusが、自身のマネジメント手法について、NYTのインタビューを受けている。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/01/31/business/31corner.html?8dpc">Are You a C.E.O. of Something?</a><br />
【New York Times： January 30, 2010】</p>

<p>タイトルにあるとおり、一人一人の社員が「何らかの業務のCEO(a CEO of something)」を引き受ける形で、組織マネジメントを行っているという。50人までの組織ならば自分が全ての社員にも気を配ることができるが、しかし、それ以上となると、何らかの仕組みが必要だ、というあたり、成長途上にあるスタータップ企業に典型的な状況。同社が上り調子にあることを伺わせる。</p>

<p>*</p>

<p>けれども、このインタビューを見たとき、私が面白いと思ったのは、後半の「何かのCEO」のところではなく、前半で、サッカーに言及しているところ。いわば、</p>

<p>「経営に大事なことは全てサッカーフィールドで教わった」</p>

<p>というところ。</p>

<p>とにもかくにも、アメリカ人が経営組織のマネジメントの比喩として、アメフトでもなく、ベースボールでもなく、サッカーを引き合いに出してきたところが新鮮だった。</p>

<p>そして、それが、おそらくは、Pincus自身が思っている以上に重要なことなのではないかと感じている。</p>

<p>普通、アメリカの経営マネジメント誌、つまり、ForbesとかFortuneのビジネス誌や、Harvard Business Reviewなどの経営手法誌を見ていると、たいていの場合、マネジメント手法の比喩としては、アメフトやベースボールが引用される。</p>

<p>それは、アメフトやベースボールのような、アメリカ人が熱狂するスポーツを例に出して説明した方が、記事の読み手にとっても、現場の社員にとっても、親しみやすく、わかりやすいから。要するに、実践性が高い。</p>

<p>実際、アメフトやベースボールで生じるチームプレーは企業行動の比喩に適している。どちらもゲームにおける個々のプレイヤーのポジション・役割が、事前に明確に定められているからだ。</p>

<p>*</p>

<p>アメフトは、一チームがオフェンスとディフェンスの二つのチームで構成される戦略性の高いゲーム。クォーターバックからのパスをいかにして前方に通してタッチダウンを決めるかがオフェンスの戦術目標であり、その動きをいかにして潰すかがディフェンスの戦術目標となる。</p>

<p>一つ一つのプレイがセットプレイとなるため、しばしばゲームの動きは中断される。アメフトといって普通に想像される「フォーメーション」のイメージは、セットプレイのイメージでもある。フォーメーションといわれるように、プレイヤーの役割は明確に決まっている。相手ディフェンスを潰すためだけの「捨て駒」になるプレイヤーもいる。そうして、仲間が築いてくれた「活路」からフォワードが文字どおり前進する。</p>

<p>このようにアメフトは、戦略・戦術目標の大枠が予め相当決められていて、各プレイヤーのポジションや役割は明確に割り当てられている（だから、しばしば、現実の「軍隊」のイメージに重ねられる）。裏返すと、個々のプレイヤーのアーティスティックな技能や身体能力によってゲームがひっくり返る、ということが起こりにくい。戦術が戦略を凌駕するような事態はそうそう起こらない。</p>

<p>アメフトほど厳格ではないにしても、攻守が入れ替わり、フィールドでの役割が基本的に決まっているという点では、ベースボールも同様だ。</p>

<p>企業における階層型のマネジメントスタイルに近い部分が、二つのプロスポーツにはある。</p>

<p>特に、中西部の、それこそ、ミシガン、オハイオ、ウィスコンシン、などの、自動車産業が基幹産業であるIndustrial Statesでは、工場労働者は、仕事がひけたら、競技場で直接スポーツ観戦するか、あるいは、ダイナーなりパブなりで、バドワイザーなりクアーズなりを手にしながら、中継映像に興じるのが定番だ。コラムニストのBob Greenが愛してやまない世界。ひいきチームのキャップをかぶっての観戦がマストとなる世界（笑）。</p>

<p>だから、経営者が彼ら社員に呼びかけるときは、アメフトやベースボールを引き合いに出す。経営者にとっても、社員にとっても、それが、一番想像しやすい、組織ゲームのイメージだからだ。</p>

<p>*</p>

<p>だが、ZyngaのPincusが引き合いに出したのは、サッカーだ。</p>

<p>Pincusは、NYTのインタビューで、サッカーをしている様を見れば、その人が、どれだけ優秀なマネージャーになるか、あるいは、雇うべき社員かどうか、一目瞭然だといっている。</p>

<p>Pincusによれば、サッカーで重要なことは二つあるという。</p>

<p>一つは、プレイヤーを信頼できるかどうか。</p>

<p>スタープレイヤーがいるかどうかではなく、チームメイトの全員が、各々全力を出し切ることができるか、がゲームを進める上で大切で、そのようにチームメイトを「信頼」することができるかどうかが、決定的に重要だという。</p>

<p>もう一つの重要さは、playmakerかどうか。</p>

<p>つまり、ゲーム全体の組み立てを想像しながら、チームメイトにパスを出し、そして、チームメイトが出すであろう場所でパスを受けられるかどうか。</p>

<p>文字どおり、play（動き）を作ることができるかどうか。</p>

<p>そして、これは、攻守が分かれセットプレイが中心で「プレイの断絶」が織り込み済みのアメフトやベースボールとは大きく異なるところ。サッカーに限らず、フットボールと呼ばれるカテゴリーのスポーツに特徴的なこと。</p>

<p>ここで二つのことを思い出す。</p>

<p>一つは、平尾誠二・松岡正剛の『イメージとマネージ』という本。今からもう10年ぐらい前の本になるけれど、その中で、日本のラグビー（＝フットボール）界の至宝である平尾が松岡との対談を通して、ラグビーにおいて、「流れ」をコントロールすることがどれだけ重要か、そのためのマネジメント手法として「イメージ」がいかに重要か、ということを語っていた。</p>

<p>攻守がめまぐるしく変わるフットボールでは、「流れ」がゲームの中心になる。</p>

<p>そして、その「流れ」のことを考えた人物が、フランスの哲学者ミシェル・セールの『パラジット』（フランス語で「寄食者」という意味）。</p>

<p>その中で、セールは、確か、「ボール」の動き＝流れが、フットボールの中心にある出来事で、そのボールのありよう、すなわち、ボールの動きがプレイヤーを引きつけ、そのプレイヤーがボールの動きを作る様子に触れていた。</p>

<p>フットボールにおいては、プレイヤーとボールは互いに影響を与えあって、一つの流れを作る。ボールは蹴られる対象としては「客体」だけれど、同時にプレイヤーに蹴り方を喚起させるという点では「主体」でもある。このボールとプレイヤーの「主客」が交互に入れ替わる様を、セールは、「準-主体」とか「準-客体」と呼んでいた。</p>

<p>平尾にせよ、セールにせよ、ボールとプレイヤーが一体となってゲームの流れを作っていくこと、<br />
そのこと焦点を当てていた。平尾は、その流れを制御するのが、プレイヤーの「イメージ」にある、と喝破した。その平尾のいう「イメージ」は、セールによれば、「準-主体/客体」であるボールがプレイヤーに働きかけ、プレイヤーから働きかけられて、瞬時に産み出されるものと考えられていた。</p>

<p>*</p>

<p>ここでPincusに戻る。おそらくPincusがサッカーをしながら身体的に習得したことは、平尾やセールのいう、「流れ」を産み出すための要諦だったのではないだろうか。</p>

<p>そして、そのサッカーにおいて「流れ」を産み出すことの重要さが、おそらくは、Zyngaのようなソフトウェアを開発していく会社においても重要だと、直感的に感じ取っているのではないか。</p>

<p>だから、彼は、通常経営者が引き合いに出すスポーツ（アメフト、ベースボール）ではなく、彼自身がプレイした経験が豊富なサッカーを引き合いに出したのではないか。</p>

<p>ソフトウェアは、形なき創造物。その機能はあくまでも、実際にそのソフトウェアが、ちょうどボールと同じように、｢動いている｣ときにこそ生じる。そして、その動きをいかにして制御するかどうか、というところが、そのまま、いかにしてボールの流れを作り出し、そして、試合自体を作り出していくか、ということに酷似しているのではないか。</p>

<p>つまり、Zyngaのようなソーシャルサービスの開発は、ソフトウェアのレベルでも、ユーザー体験のレベルでも、サッカーと同じような「流れの創造と制御」が決定的に重要なわけだ。</p>

<p>*</p>

<p>その意味では、Pincusが、インタビューの後半で｢何かのCEO｣という方法を出してきたのは、彼が、HarvardのMBAホルダーという要素が災いしてしまったともいえる。</p>

<p>なまじトップダウン型の経営手法の｢言葉｣をインプットしてしまったがゆえに、彼の説明は、（ネオリベ論者が好んで使いそうな）「企業内起業家」に類した言葉になってしまった。つまり、「企業の中で、自発的に行動し、企業のためになるよう行動せよ（奉仕せよ）」、という感じに取れなくもない表現になっている。そして、それが、インターネット関連企業、というところもとてもネオリベ的だ。</p>

<p>けれども、前半のサッカーの話をきちんと踏まえて考えれば、むしろ、彼が言いたいのは、ソフトウェア開発と運用は、サッカーのように選手の自発性が必要で、その自発性はまたソフトウェアやサービスとの間で好循環をもたらし、文字通り、思いもよらないものを生み出す、ということなのだと思う。</p>

<p>このあたりは、ソフトウェア開発やサービス開発のマネジメントとして、まじめに検討してみていいところ。それこそ、Pincusのように、ありきたりの｢経営学の語彙｣に、思考や発想が浸食されてしまわないように。</p>

<p>裏返すと、Pincusの直感は、そういう、新たな、IT経営のための｢語彙｣を生み出すためのヒントを与えてくれているように思える。そして、新しい語彙は、新しい概念と新しい手法を生み出すための水先案内人になってくれる。</p>

<p>*</p>

<p>もっとも、（唐突に参照することになるが）佐々木中の『夜戦と永遠』で示された、ルジャンドルを経由したフーコー読解によれば、ネオリベ的な状況はそれほど気に病むことではない。つまり、会社や社会に「訓到」され｢調教」されることは、生きていくことに内在した、織り込み済みのものであり、また、その｢調教」はあらかじめ失敗＝失調することも織り込み済みであるから。「CEOのように｣振舞えと要請され、振舞うことはなんら躊躇することはない。</p>

<p>佐々木のフーコーでは(多分)こういうことになるはず。</p>

<p>だから、Pincusによるサッカーの比喩は、そうして自分がゲームプレイの一部になることで、むしろ、自分があらかじめ想像していたよりも遠いところまで、自分も従事した仕事（ソフトウェア開発など）も行き着くことができる、そして、それが｢予期せぬこと｣という点で、言葉通りの「イノベーション」になるのだと思う。</p>

<p>*</p>

<p>ここでいいたかったことは、短くいうと、Web-centricが前景化する2010年代において必要とされる、IT経営、イノベーション経営の中核概念になることを、Pincusは直感的にいってくれたでのでないか、ということ。</p>

<p>私たちは、ちょうど、若手建築家の藤村龍至が「超線形プロセス」や｢批判的工学主義｣という言葉を頼りに、従来の建築の記述方法・思考方法を書き直し、新たな語彙＝概念を作り出すことで建築の世界に新しい風を吹き込もうとを試みているように、Web-centricの時代に適した、経営方法、開発方法のための語彙=概念、をそろそろ考案していいところにいる（なぜなら、もう2010年だから）。</p>

<p>そのとき、Pincusの直感が示したような、サッカーにおけるボールの「流れ」のような、｢動き｣の制御の仕方が導き手になってくれるように思う。それは、ちょうど、藤村をインスパイアしたものがGoogle登場以後のウェブやITの世界で起きたことやそこで開発された言葉であったように。</p>

<p>そろそろ私たちは、本格的なWeb-centricの時代を迎えるにあたって、実際に行っていることと、頭で考えていること、そして語ってしまっていること、との間で、齟齬がなく相互にきちんと照応するような語彙＝概念の開発に取り組むタイミングなのだと感じている。</p>

<p>Pincusのイメージは、多分、ヨハン・クライフが率いたオランダが展開した「トータル・サッカー」のような、つまり、フィールド・プレイヤーの全員が、ボールの流れに応じて、あるいは、ボールの流れを作るために、ポジション・チェンジを頻繁に起こす、全員守備・全員攻撃のサッカー、のようなものなのではないかと思う。</p>

<p>その単純さをWeb-centric時代に生かすのがこれからの課題だ。。</p>

<p>*****</p>

<p>(補足)</p>

<p>上では、アメフトやベースボールに触れたが、アメリカの４大プロスポーツというと、あと、バスケとアイスホッケーがある。</p>

<p>ただ、この二つについては、経営手法や組織管理に関して参照されることにほとんどない、というのが私の印象。</p>

<p>アイスホッケーについては、確か、｢イノベーションのジレンマ｣のクリステンセンが、一度触れていた。それは、イノベーションを起こすときには、アイスホッケーのように、動きの先を読むことが必要だ、というようなことだったはず。</p>

<p>バスケについては、残念ながら見たことがない。おそらく、マイケル･ジョーダンのように、個人の身体能力のほうが前面に出やすいからなのではないかと思っている。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>Google Book SettlementでLessigが本当に憂えていること</title>
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    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.702</id>

    <published>2010-01-29T14:29:16Z</published>
    <updated>2010-01-29T14:35:14Z</updated>

    <summary>Lawrene LessigがGoogle Book Settlementに対する考察をThe New Republicに寄稿している。 F...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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    </author>
    
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>Lawrene LessigがGoogle Book Settlementに対する考察をThe New Republicに寄稿している。</p>

<p><a href="http://www.tnr.com/article/the-love-culture">For the Love of Culture</a><br />
【The New Republic： January 26, 2010】</p>

<p>そして、それを解説しているのが、次のTechCrunchのエントリー。</p>

<p><a href="http://www.techcrunch.com/2010/01/26/lessig-calls-google-book-settlement-a-path-to-insanity/">Lessig Calls Google Book Settlement A “Path To Insanity”</a><br />
【TechCrunch： January 26, 2010】</p>

<p>これには日本語版もある：</p>

<p><a href="http://jp.techcrunch.com/archives/20100126lessig-calls-google-book-settlement-a-path-to-insanity/">ローレンス・レッシグ曰く、Google Books和解は「狂気への道」</a><br />
【TechCrunch： January 28, 2010】</p>

<p>ところで、この件について書こうと思ったのは、上のTechCrunchのタイトルにある“A Path to Insanity（「狂気への道」）”が、英語にしても、日本語にしても、ミスリーディングであることが気になったから。</p>

<p>英語の方でミスリーディングというのは、Lessigのもとのエッセイの主題は、タイトルにもあるように「文化（活動・享受）を愛するために」ということであるにもかかわらず、いくら読者の関心を呼び込むためとはいえ、“A Path to Insanity”という表現をわざわざ使っていること。</p>

<p>この“A Path to Insanity”という表現は確かにLessigのエッセイの中に記されてはいるけれど、主題とは関係ないところで一つの形容として使っているに過ぎない。</p>

<p>Lessigのエッセイで語られているのは、彼が“Free Culture”以来主張してきた、デジタル時代に適したCopyright Lawのあり方の提案にすぎない。</p>

<p>Googleに言及しているのは、Google Book Settlementによって、いよいよ書籍のデジタル化、e-book化が本格化して、Lessigが想像してきた世界が現実のものになってしまうから。</p>

<p>だから、Lessigが危惧していることは、Google Book Settlement自体ではなくて、そのことによって顕わになる、現行のアメリカCopyright Lawの時代錯誤の部分。なので、件のエッセイでLessigが主張しているのは彼なりの代替案の提案。</p>

<p>そのポイントは大きく二つ。</p>

<p>一つは、デジタル技術の下で作られたものは、転送＝コピー、となるので、Copyright Lawが想定している「コピー」を管理対象にすることが、そもそも大前提を見誤っていること。</p>

<p>（これは、私がCopyright Lawを教わったコロンビア・ロースクールのTim Wu教授（彼はLessigのサークルの一人）も、インターネットを使う人は現行のCopyright Lawの下では誰もが既に違法行為をしていることになってしまう、だから、そもそも「コピーを管理する（できる）」という前提から考え直さないことにはどうしようもない、と説明していた）。</p>

<p>Lessigの主張のもう一つは、書籍も映画同様「統合型の作品」である、ということ。だから、エッセイの冒頭で引き合いに出したドキュメンタリー映画で起こっているように、書籍を構成する様々なパーツ（文、図、イメージ、装丁、など）について、個別に利用許諾（ライセンス）を取らなければいけないから、それをまじめに法律家たちが取り組もうとすると、あり得ないほどの許諾作業に常に忙殺されてしまう。それゆえ、「自由な創造活動」を「息を止めてしまう」。</p>

<p>日本人の立場で気をつけないといけないのは、Lessigの懸念と主張は、あくまでも法律の実務家（アメリカではロースクール教授も基本的に弁護士＝法律家と思ってよい）の立場からの提案であること。そして、その提案の背景には、弁護士社会アメリカといわれるように、日常の民事を含めて多くの法律家が稼働して社会が動いている、という事実がある。</p>

<p>だから、Lessigの懸念の根本にあるのは、実務家的視点からの「社会的混乱」の予感であり、その混乱を未然に防ぐためには、制度的手当が必要だ、ということ。</p>

<p>（そして、エッセイの後半は、その制度的手当に関するLessig案が記されている）。</p>

<p>裏返すと、Google、あるいは、Google Book Settlement自体が、何か悪いことをしている、というような価値判断をしているわけでは全くない。</p>

<p>もちろん、TechCrunchの記事もちゃんと読めば、今述べたことが基本的には記されている。</p>

<p>けれども、そもそも、TechCrunchのようなタイトルがつけられなければ、Google Book Settlement = a path to insanity、というような誤解も生じ得ない。</p>

<p>おそらくは、TechCrunchの書き手は、アメリカのTechCrunchの読み手ならば、そのような誤解は生じ得ない、と踏んで書いていると思う。一つには、アメリカ人的ユーモアの範囲として理解されるはず（つまり、しゃれだよ、しゃれ、という感じ）という見込みから。もう一つは、Lessigの主張を読者の多くが既によく理解しているはず、という期待から。</p>

<p>実際、多分そうなのだろうが、しかし、これが、そのまま日本語訳になるとミスリーディングであることは間違いない。</p>

<p>というのも、上で書いたような「アメリカ人によるTechCrunchの書き手・読み手共同体」のような文脈共有が、日本語になると期待しにくいから。</p>

<p>一つには、単純に翻訳の問題（だから、これは、TechCrunchだけに限らない。CNETやWSJ Japanでも見られること）。アメリカ人の文脈を想像できなくて、「ベタ」に「狂気への道」と取りかねないこと。</p>

<p>加えて、Copyrightに関わる状況がアメリカと日本では全く異なること。それは、今審議中の「フェアユース条項」の様子を見ればわかること。もともとの法律の発想・体系も異なれば、その実施形態としての法文化も全く違う。</p>

<p>加えて、Google Book Settlementについては、日本では、当初、青天の霹靂というか、黒船来襲というか、とにかく、突然、勝手にルールが決められそうになった、というところから始まっている。だから、Google Bookが想定した「図書館書籍のデジタル化」という文脈も全く共有できていない。</p>

<p>留学時代、Google Bookに賛同したNY Public Libraryの分館の傍に住んでいたし、自分自身、コロンビアの大学図書館を利用したこともあるので、Google Bookの動機は理解できるつもりでいる。とにかく図書館利用の頻度が、個人利用でも公的利用（ビジネスマンや各種ActivistsやAdvocates）でも、アメリカの場合、とにかく高い。そして、アーカイブとしての資料を収集することにも積極的。私が留学していた2003年時点でも、たとえば、19世紀末の、「プライバシーのアイデアが確立された」判例やローレビューの論考がデジタル化されてオンラインで検索可能だった。それくらい既にデジタルアーカイブが熟した段階で、Google Bookが始められていた。</p>

<p>（だから、Lessigの懸念の一つが、Google Bookが図書館ではなく書店になろうとしているように見えることにあることも大事な点だと思う）。</p>

<p>このような文脈もなく、むしろ、iPodの上陸、の時のように、出版業界にも黒船が上陸！、とういうような文脈で語られがちなGoogle BookやKindleのような存在に対して、「狂気の道」というのは、やはりミスリーディングだと思う。</p>

<p>（いずれにしても、insanity=狂気、というのは言葉として強すぎる。“insane”というのは、日常表現の一つで、「おまえ、アホか？」とか「あんた、ばか？」という感じで、言う側は、「あんたのしていること、わけわかんないよ」という感じのニュアンス。前後不覚の狂気、というニュアンスはない。だから、あえていえば「狂気への道」ではなく「混乱の道」ぐらいだと思う）。</p>

<p>*</p>

<p>結局、私がここで言いたかったことは、IT系の英語情報の日本語版に触れるときには、極力、文脈を補うようにしないと、誤解・誤読が頻繁に起こってしまいますよ、というアドバイスなのかもしれない。</p>

<p>といっても、もともとアメリカのことはわからないから注意のしようもない、というのが普通の人の反応かもしれない（そのための一助と思って、私はここでブログとして書いてきているつもりだけれど）。</p>

<p>願っているのは、日常の翻訳語レベルで小さな誤解が蓄積した結果、本質的な議論の手前の段階で議論が空転するようなことが起こらないこと。</p>

<p>だから、上で縷々記したことも杞憂で終わる可能性もある。<br />
そして、杞憂で終わる方が望ましい。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>サリンジャー、91歳で死去。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000700.php" />
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    <published>2010-01-29T06:05:38Z</published>
    <updated>2010-01-29T06:17:59Z</updated>

    <summary>サリンジャーが亡くなった。享年91歳。 J. D. Salinger, Literary Recluse, Dies at 91 【New ...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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    </author>
    
        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>サリンジャーが亡くなった。享年91歳。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/01/29/books/29salinger.html">J. D. Salinger, Literary Recluse, Dies at 91</a><br />
【New York Times：January 28, 2010】</p>

<p>昨年の6月に『ライ麦畑でつかまえて』の続編と思しき小説を巡る裁判があった時に集中してサリンジャーのことについては調べて書いていた（たとえば、<a href="http://www.defermat.com/journal/2009/000431.php">これ</a>と<a href="http://www.defermat.com/journal/2009/000452.php">これ</a>）</p>

<p>ちなみに、この裁判は、スェーデン人の作家によって書かれ、ロンドンで出版された『ライ麦畑でつかまえて』の改変続編と思える小説がアメリカで出版されるのを阻止するために、サリンジャーが起こしたもの。結局、サリンジャーが勝っている。</p>

<p>で、その時に調べた感じでは、ホントにこの人、変わった人だな、というものだった。隠遁してしまってすっかり俗世からは離れて生活してしまっていた。</p>

<p>このあたりの事情は、確か、文春新書にある、村上春樹・柴田元幸『サリンジャー戦記』に所収された、村上によるサリンジャー解説が詳しいので、そちらを参照してください。</p>

<p>今回の死去によって、未発表原稿も見つかったようなので、この先、場合によると、新たにサリンジャー作品が出版されるのかもしれない。</p>

<p>ところで、上のNYTの記事には、『ライ麦畑～』の主人公であるホールデン君がさまよったマンハッタンの場所が地図で示されていて、なるほど、あのあたりか、と思えて、結構面白い。基本的にEast Sideをさまよっていたんだな、と。</p>

<p>小説でも、映画でも、NYを舞台にした場合、主人公がマンハッタンをさまよい歩く、というのはよくあるのだけれど。都市をさすらう、とういうのは定番の展開だし。</p>

<p>あまり日頃の自分の関心に引き寄せすぎるのも何なのだけれど、小説による偽の都市の記憶は、AR（Augmented Reality）的なものとも関わるはずだと思うので、たとえば、ホールデンビューなり、ホールデンルートというのが、デフォルトとして将来の（サイバーな）NYの地図には埋め込まれていくのかもしれない。</p>

<p>とはいえ、まずは、サリンジャーのご冥福を祈る。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>2010年代にアメリカの「思想」を体現するものたち： iPad, SOTU（一般教書演説）, Bernanke</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.defermat.com/journal/2010/000699.php" />
    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.699</id>

    <published>2010-01-28T11:24:35Z</published>
    <updated>2010-01-28T22:45:34Z</updated>

    <summary>2010年1月27日は、アメリカにとってメモリアルな一日だった。 First State of the Union speech by Pr...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
        <uri>http://www.defermat.com/</uri>
    </author>
    
        <category term="NOTE" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>2010年1月27日は、アメリカにとってメモリアルな一日だった。</p>

<p><a href="http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/01/27/AR2010012702421.html">First State of the Union speech by President Obama: 'We face a deficit of trust'</a><br />
【Washington Post：January 27, 2010】</p>

<p>SOTU（State of The Union：一般教書演説）が大統領から示される、儀礼的だが重要な一日に、あえて、新機種であるiPadを発表してきたSteve JobsのApple。アメリカの進路と舵取りが示される日に、2010年代のPC/Webの世界の水先案内人となるプロダクトがお披露目された。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704094304575029230041284668.html">Apple Takes Big Gamble on New iPad</a><br />
【Wall Street Jounal：January 27, 2010】</p>

<p>その評価やいかに、というノリで普段見ているニュースサイトやブログサイトをチェックしているうちに気付いたのが、SOTUやiPadに負けないくらいニュースの専門家の間で取り沙汰されていたのが、Ben BernankeのFed Chairman続投の話。Bernankeの続投には、連邦上院の承認が必要で、それが今週金曜までに行われる。そのため、今、アメリカの（庶民ではなく）政治家や企業重役の最大の関心事の一つがBernankeの続投問題になる。iPadやSOTU同様、ホットな話題になっている。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/01/28/opinion/28blinder.html?ref=opinion">The Fed’s Best Man</a><br />
【New York Times：January 27, 2010】</p>

<p>Bernankeの承認については「捩れ」が生じていて、前任のブッシュ大統領に指名されたにも関わらず、リーマンショックをはじめとする金融不況を回避できなかった、金融機関救済策の「アーキテクト」の一人として、Wall Streetは救うがMain Street(アメリカ製造業)は救わない、という理由で、かつての支持者であったGOPによって非難されている。</p>

<p>その「庶民の生活を守る」ことに重点を置くことが、今日、SOTUで強調された。ヘルスケア改革のような、デモクラットの悲願の達成に固執するのを一端棚上げし、雇用問題を重視する。だから、改めて、新産業の立ち上げに注力する、それには、代替エネルギーや、ブロードバンドの分野でのイノベーションが大事になる。</p>

<p>そのイノベーションの典型が、iPod以後の快進撃を続けるAppleであり、10年代前半のフラグシップになるプロダクトがiPad、ということになる。</p>

<p>ということで、ぐるりと話題は一回りする。</p>

<p>iPad<br />
SOTU<br />
Bernanke</p>

<p>さながら、三題噺のように、三つの大事な要素、すなわち、</p>

<p>技術<br />
政治<br />
金融・経済</p>

<p>が交叉し、循環する。</p>

<p>皆既日食というか、惑星直列というか、そんな感じで普段は交わらない「世界の構成要素たち」が同じ日にシンクロして話題となる。</p>

<p>*</p>

<p>確認しておきたいのは、そういう日に、iPadが公表された、ということ。</p>

<p>SOTUは予め日程が決められているのだから、その日にAppleが合わせてきた、というのが妥当な見方だろう。というのも、いわゆる「新聞の一面トップが何を飾るか」という観点でいえば、なにもわざわざSOTUが伝えられる日にiPadを発表する必要はないわけだから。</p>

<p>だとすれば、iPadはSOTUと並んで伝えられることをむしろ選んだのだ、ととるべき。</p>

<p>SOTUによって、アメリカの未来とか、世界の未来とか、社会に関心のある人ならば、誰もが思いを巡らしてしまう、そんな日に、その「未来」のイメージの一つとして、iPadを差し出す。</p>

<p>（そして、その「未来探究」モードの心持ちで報道記事を読むから、私のように、Bernankeのことまで、そうした未来の一つとして捉えてしまうわけで。思い切り、そうしたムードに捕まってしまったわけだ）。</p>

<p>だから、「ただのでかいiPod Touch」という、マックヘビーユーザーの冷めた見方に対して、そのiPadの姿に、まだよくわからない「2010年代のイメージ（の一つ）」を見いだした人たちは、基本的には「とても肯定的に」iPadの可能性に賭けようとする。</p>

<p>そして、できるだけPC/Webとの「歴史の断層」を見いだすような発言をしている。</p>

<p>ググればわかるけれど、意外と、iCountryとかiWorldとか書いている人はいるもの。たとえば：</p>

<p><a href="http://opinionator.blogs.nytimes.com/2010/01/27/icountry-news/?hp">iCountry News</a><br />
【New York Times：January 27, 2010】</p>

<p><a href="http://www.tnr.com/article/the-pc-officially-died-today">The PC Officially Died Today</a><br />
【The New Republic：January 27, 2010】</p>

<p>*</p>

<p>実は、最初は、いつものように、WSJやNYTを引きながら、iPadの可能性の細部について、いろいろと書いてみようと思ったのだけれど、そうした内容を見てみると、大体、年初に書いた<a href="http://www.defermat.com/journal/2010/000680.php">このエントリー</a>あるいは<a href="http://www.defermat.com/journal/2010/000697.php">このエントリー</a>と内容がかぶっていて、ちょっと違う視点から今日の出来事を記しておきたいと思った。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/01/28/technology/companies/28apple.html?ref=technology">iPad Blurs Line Between Devices</a><br />
【New York Times：January 27, 2010】</p>

<p>念のため、iPadの可能性＝期待で喧伝されていることを記しておくと：</p>

<p>●PCとSmartphoneの境界をなくし、新商品カテゴリーを産み出す。</p>

<p>●3G（電話会社)とWi-Fi（PCメーカー）との「無線接続」の競争を促す。</p>

<p>●メディアビジネスが集約される（雑誌・出版、新聞、テレビ、ラジオ、・・・）。</p>

<p>●特に、Kindle vs iPad、Amazon vs Apple</p>

<p>一言でいうと、Silicon Valleyの長年の夢であった「マルチメディアの完成型＝Dynabook」の実現に邁進する動きが、iPadによって引き起こされる、ということ。</p>

<p>*</p>

<p>ところで、プレゼンテーションの中継映像を見ると、Jobsの立ち居振る舞いが、どんどんClint Eastwoodに似てきているように思えてならない。白いシャツにデニムのジーンズ。背筋が伸びてスクッと立つ姿。同性から見ても見とれてしまう感じ。</p>

<p>世代は全く異なるけれど、どちらも2000年代に、西海岸的といわれる「リバタリアン的心性」を、かたや映画で(Eastwood)、かたやガジェットで（Jobs）で、具体的に、アメリカ人、そして、世界中の人びとに示してきた。</p>

<p>リバタリアン的心性、というのは、もとはアメリカの独立自営農民に備わっていたといわれる、なんとか自分自身の力で生活を切り開いていく、気概のようなもの。</p>

<p>わかりやくいえば、DIY(Do It Yourself)の精神。</p>

<p>『グラントリノ』でClint Eastwoodが演じた主人公のように、ガレージに工具を全て揃えて、何かあったら自らの手で直して回る、そうした自主独立の精神（そういえば、Apple IIもガレージからスタート）。</p>

<p>こうしたリバタリアン的な自主独立の精神は、第三代大統領トーマス・ジェファーソンが描いた、アメリカを西海岸まで続く大陸国家にしようという夢＝試みを、個々の具体的な局面で支えた、アメリカ人的な生き方の典型。そして、生き方の範型であるため、それは、「思想」でもある。</p>

<p>今朝のTwitterで東浩紀がこうつぶやいていた：</p>

<p>*****</p>

<p>「やっぱりAppleとかGoogleって「思想」なんだよなあ。商品を売っているのではなく「生の新しい様式」を売っている。そして夢を売っている。それができなければ技術者も経営者も思想家もだめだ。」</p>

<p>「American way of life は確立している。ハリウッドもマクドナルドもグーグルもアップルもすべてその延長線上にある。だからそれらは統合した強さをもっている。」</p>

<p>「ちなみにアメリカのそういう理想というか夢（自由と民主主義の実験場としてのアメリカ）は、植民地時代から一貫しているわけで、そういう世紀単位の話をしています。」</p>

<p>「アップルやグーグルが思想であり、「新しい生の提案」であることの意味を、単純に「新商品カッコイイ」とかでなくて、きちんと噛みしめるべきだと思うな。これは別に今回にiPadに限らず。」</p>

<p>*****</p>

<p>この「新しい生の提案」を産み出している「思想」の一つが、たとえば、上で記した、JobsやEastwoodによる「リバタリアン的心性」であると思う。</p>

<p>もちろん、リバタリアン的心性だけが「新しい生の提案」をしているわけではない。マクドナルドやウォルマートは、西海岸的というよりも、もっと南部の生き方を反映したものだと思うし、その時には、南部の広大さに適した「ロジスティックス優先」の商売人的「合理性」も働いている。</p>

<p>あるいは、ハリウッドということであれば、“Avatar”によって3D映画というベンチャーを興したJames Cameronの生き方も、そのまま一つの思想のようにもとれる（これはまた別の機会に）。</p>

<p>だから、冒頭に記したように、SOTUのような、アメリカ人一般の「これからの生」を大きな部分で決めるような話＝政策方針の説明をしているときに、Jobsが一つの「新しい生のあり方」を具体的に提案することに、単なる商品提案以上の意味が必然的に発生してしまう。</p>

<p>*</p>

<p>また、Bernankeの続投、という話は、これはまた極めて東海岸的なロジック、つまり、自主独立とは位相の異なる、いわば「知識人の責務」といってもいいような、プロフェッショナルの矜持を大事にする話として、iPadやSOTUに比べればとても小さなサークルの中でだが、極めてシビアな論戦が公の場=マスメディアを通じて繰り広げられている。Bernankeを非難するもの、擁護するもの、それぞれ容赦ない言葉が、一人の個人を巡って発せられている。</p>

<p>これは、東浩紀が同じく今日のTwitterで発していた「あのアメリカでなぜ教養が生き残っているのか」という問いとも関わる話。アメリカ社会というシステムがプロフェッショナルに「委託」した判断を、代理人（Agent）としての責任を全うする形で請け負う気概、ともいうべきもの。</p>

<p>貴族なきアメリカでなぜか生き残っている、貴族的な「ノブレス・オブリージュ」の精神、つまり,リパブリカン的な、共和主義的な精神が、そこでは発動している。</p>

<p>それは、アメリカのトップ層はトップ層で、特に東海岸の独立13州の名家出身の人びとの間で共有される、欧州大陸文明への憧憬の裏返しとしてのものなのかもしれない。</p>

<p>ワシントンＤＣにあるアメリカ連邦議会図書館(Library of Congress)を訪れたとき、そのホールの天井や壁には、欧州大陸の文明を引き継ごうとする意志を表す図象が多数、描かれていた。</p>

<p>西洋文明の源泉である古代ギリシアやローマの昔から現代に至るまでの、西洋文明の哲人・賢人が描かれていたり、あるいは、中世の学問体系であった、神学・医学・法学、そして、自由七科（いわゆるリベラルアーツ）がホールの天蓋に記されていたり、という具合に。</p>

<p>*</p>

<p>以上をまとめてみると：</p>

<p>まず、iPadやJobsは、西海岸的なリバタリアン的心性という生き方＝「思想」によって「新しい生のあり方」を具体的に示していた。</p>

<p>次に、Bernankeをめぐる議論では、東海岸的な西洋文明の継承者の自負に基づくリパブリカニズム的な「共和的精神」の生き方＝思想によって、これからの「新しい生のあり方」の基盤＝アーキテクチャの設計で鎬を削っている。いうまでもなく、Fedの金融政策というアーキテクチャは私たちの「経済的生」の自由度を大きく規定する。</p>

<p>そして、オバマのSOTUは、こうしたアメリカの「新しい生の提案」の根底にある複数の（政治）思想を、一つの織物に仕立てて、わかりやすい言葉で人びとに語った。それが、当面は国内の経済問題に集中するという、クリントン時代のcenter寄りの政策発想への軌道修正になっている。</p>

<p>（ただし、Smart Government＝賢い政府、を標榜したオバマからすれば、社会情勢によってcenter寄りの政策を採らざるをえなくなった、というのは、実は望ましい方向転換なのかもしれない。確実な一歩を踏み出していく、という意味で）。</p>

<p>これらが、技術（iPad）、経済（Bernanke）、政治（SOTU）、というように、日頃はクロスしないものが、一日の話題として集約しているのがとても興味深い。</p>

<p>そういう「集約」「収斂」という文脈を想起させることで、一つのアメリカの物語が紡がれる。その物語を起点にして、「新たな生の様式」がまた新たに模索され、提案されていく。</p>

<p>だから、2010年1月27日は、アメリカにとって後になって振り返ってみれば、メモリアルな一日であったと位置づけられるのでないか。</p>

<p>そういう大きな予感を、三つの話題の集約はもたらしてくれるように感じている。</p>]]>
        <![CDATA[<p>*****</p>

<p>追記：</p>

<p>Bernankeの続投は、アメリカ時間で1月28日（木）に承認された。上院の投票結果は70対30であった。</p>]]>
    </content>
</entry>

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    <title>メディアの消費形態＝ビジネスモデルを変貌させるContent ViewerとしてのTablet</title>
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    <published>2010-01-26T07:47:17Z</published>
    <updated>2010-01-26T07:52:15Z</updated>

    <summary>AppleのTabletの公表を目前に控えて、Tabletの登場がメディアビジネスに与える余波についてNYTが伝えている。 With App...</summary>
    <author>
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        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>AppleのTabletの公表を目前に控えて、Tabletの登場がメディアビジネスに与える余波についてNYTが伝えている。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/01/26/technology/26apple.html?ref=technology">With Apple Tablet, Print Media Hope for a Payday</a><br />
【New York Times： January 25, 2010】</p>

<p>基本的には、iPodが音楽産業にもたらした変化を、出版・雑誌、ジャーナリズム、映像、ゲーム、などの他のメディア産業に同じようにもたらすとしている。</p>

<p>音楽の時と異なるのは：</p>

<p>プリントメディアについては、デジタル（オンライン）ビジネスの収益化が急務となっていること、</p>

<p>無線通信として３GとWi-Fiのデュアル仕様がデフォルトになりつつあること、<br />
（そのため、テレコムとPC/webの両者が鎬を削りそうなこと）</p>

<p>主要ウェブ企業大手がこぞってTabletに参入すること。</p>

<p>つまり、競争の激化は必至で、その中で、流れに乗り遅れまい、という心理が優先して、短期的には複数の企業連合≒プラットフォームが立ち上がり、併存する時期がしばらく続きそうな状況にある。</p>

<p>もっとも、昔のデジタルテレビや衛星放送とは違って、優勝劣敗が即座に決まるというよりも、「混戦模様」が続きそうだ。</p>

<p>というのも、とにかく参入するプレイヤーが多く、唯一無二の囲い込みポイントがあるようにも思われないため。なんといっても、オープンソース的な、ある種の自爆的振る舞いも今日では可能になっているため。つまり、勝ちすぎることは自らの負けを同時に呼び込む可能性すらある。それくらい、今のWebの世界は新陳代謝が激しい。</p>

<p>また、ビジネス言説（ビジネススクールの戦略論など）でも、最近は極端に、Consumer志向が高まっていて、ユーザーの意向に照準する場合、一部競合企業との間で相互に経営資源を融通し合うことも、株主も含めて納得してもらえるような状勢にある。こうした状況は、複雑な網の目のような相互依存体制を産み出すことを排除しない。</p>

<p>*</p>

<p>既にiPhoneで見られるのだが、PC/Webとい情報コミュニケーション環境の中で人びとが利用する頻度の高いアプリを優先的に取り出してみたら、受動性の高い、メディア・コンテント・ビューアーであった、というのがTabletの基本イメージになる。</p>

<p>iPhoneの面白いところは、iTunesによってPC本体がiPhoneの制御機構になってしまったところ。PCの種別によらず、データ管理の部分をPCで行うようにして、その結果整理されたメディア・コンテントを実際に享受するビューアーがiPhoneになっている。もちろん、iPhoneに無線通信機能があるから、iPhone本体でも行えるのだが、そこにiTunesによるPCをかませることによって、PCとiPhoneとの間で役割分担が設定されていくところが興味深い。そうやって、PCと(Smart)Phoneとの間の機能のリシャッフルが促進される。</p>

<p>上の記事のポイントは、デジタル・オンライン・コンテントをいかにして課金するか、が大きな課題で、それを担うのがAppleになる、というもの。そして、仮に実際にAppleがそうした課金徴収の中核的存在になったとすると、その時点で、Appleがもたらした、Pod/Phone/Tabletの全てが、ポータブル・マルチメディア・ビューアーとして消費者に認識されるようになり、一つのメディアビジネスの「型」が確立される。そして、そこで確立された「型」が今度は本体としてのPCの方にも環流していく。</p>

<p>iPhoneユーザーの話を聞くと、もともとはWindows PCユーザーであった人が、iPhoneの旗艦マシンとしてMacBookを買ってしまうこともあるという。単純にiPhoneで経験したユーザーインターフェース的なものがWindowsよりも洗練されていて、Mac「も」使ってみたいと思ったから、ということもあるようだ。</p>

<p>また、既に二台目のiPhoneに買い換えた人の場合は、前のiPhoneはWi-Fiマシンとして、主に家で映像を見るためのものとして、つまり、電話の要素を全く排除したマシンとして利用されている。</p>

<p>だから、iPhoneや、これから出てくるTabletのユーザーは、期せずして、ホームネットワークとか、無線と有線の融合、といわれてきた事態を、実際に経験してしまうことになりそうだ。</p>

<p>Appleの戦略は、ウイルスの繁殖に似ている。最初は、既に確立されてしまった「体制」や「存在」に徹底的に寄り添う。Windows PCに寄り添う。3Gで携帯電話にも寄り添う。その上で、ユーザーの利用意向をくみ取ることで、その寄り添った相手の一番のコアの部分を自らの存続に有益な形に書き換えてしまう。</p>

<p>だから、Appleは、PC/Web体制にハッキングをかけているといっていい。</p>

<p>Web/PCに対しては、重要な収益源の一つである課金方法、という部分を自分に有利なように書き換えてしまうし、携帯電話に対しては、トラフィックが最も稼げるようなメディア・コンテントの流通量を自分に有利に制御可能なものに変えてしまう。</p>

<p>もちろん、寄り添った相手の全てを台無しにしてしまうところまでは踏み込まない。大事なことは、寄り添った相手に勝つ＝排除する、ことではなくて、寄り添った相手との力関係を逆転させ、Appleなしではその相手が存続できないような「依存体質」へと変貌させることになる。</p>

<p>こう考えるならば、件のメディア企業は、どのような形のApple依存症になるのだろうか。</p>

<p>その答えは、Tabletが登場して一年ぐらい経ったところで明らかになるのだろう。ただ、少なくとも、デジタル・コンテントの「表現様式」において、一定の基盤、つまりスタンダードをAppleは提供していくようになるだろう（AdobeがPDFを普及させたように）。なぜなら、Tabletという存在が、ユーザーインターフェースの枠組みを決めるものになるし、その結果、ユーザーがコンテントから受け取る効果＝経験、の多くの部分をAppleが制御することになるであろうから。</p>

<p>まずは、アメリカ時間で今週水曜に行われる、Tabletの発表に注目したい。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>アメリカ中間選挙に向けた動きが本格化： David Plouffe、デモクラットの選挙戦略参謀に。</title>
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    <published>2010-01-25T11:04:28Z</published>
    <updated>2010-01-25T11:11:09Z</updated>

    <summary>先日のマサチューセッツの上院補選でのまさかの敗退を受けて、デモクラットが11月の中間選挙に向けて動き始めた。 2009 Democratic...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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    </author>
    
        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>先日のマサチューセッツの上院補選でのまさかの敗退を受けて、デモクラットが11月の中間選挙に向けて動き始めた。</p>

<p><a href="http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/01/23/AR2010012302967.html">2009 Democratic agenda severely weakened by Republicans' united opposition</a><br />
【Washington Post： January 24, 2010】</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/01/24/us/politics/24union.html?ref=politics">Obama Moves to Centralize Control Over Party Strategy</a><br />
【New York Times： January 23, 2010】</p>

<p>具体的には、大統領選キャンペーン中のObama陣営の中心人物の一人であったDavid Plouffeが、11月の中間選挙対策の陣頭指揮を執ることになった。</p>

<p><a href="http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/01/23/AR2010012302949.html">Former Obama campaign manager to be White House adviser</a><br />
【Washington Post： January 24, 2010】</p>

<p>以下は、PlouffがWashington PostにOp-Edとして寄稿したデモクラットの処方箋。</p>

<p><a href="http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/01/22/AR2010012204216.html">November doesn't need to be a nightmare for Democrats</a><br />
【Washington Post： January 24, 2010】</p>

<p>早期にヘルスケア改革法案を通過させ有権者を安心させる、など、選挙対策の視点からの助言が挙げられている。</p>

<p>*</p>

<p>大統領制をしくアメリカでは、議院内閣制の日本と違って、大統領と連邦議会議員は別々の選挙で直接選ばれる。そのため、大統領と連邦議会の多数派が、異なる政党になる「ねじれ」は生じうる。</p>

<p>そして、大統領一期目の最初の中間選挙では、しばしばこうした「ねじれ」をもたらすような選挙結果が起こってきた。</p>

<p>「ねじれ」の状態では、ホワイトハウスは常に連邦議会との妥協を強いられることになる。その結果、思い切った政策は打ち出ににくくなる。政策は、法案として通過しないと実行するのは難しいから。もちろん、既存の法体系の範囲で、大統領令によって進めることもできるが、思い切ったことをするには限界が生じる。</p>

<p>また、Obama大統領の場合は、2012年の二期目を目指す大統領選も控えているわけで、そのためにも11月の中間選挙は、現状通り、デモクラットが多数派を占める連邦議会をなんとしても維持し、政策実現に弾みをつけておきたいところ。</p>

<p>David Plouffeの抜擢も、こうした先々のことを考えてのことでもある。</p>

<p>*</p>

<p>ところで、これは、<a href="http://www.defermat.com/journal/2009/000627.php">以前のエントリー</a>でも触れたことだが、アメリカの場合、選挙日程は予め決められている。このことは、有権者の選挙への関わり方のベースラインを決めている。そして、日程が決まっているからこそ、選挙キャンペーンは計画的に、「戦略」として、実行される。</p>

<p>その結果、アメリカでは、選挙キャンペーンは、新商品のキャンペーン同様、産業化している。</p>

<p>その選挙キャンペーン産業を支えるのが政治献金なのだが、その政治献金については、従来は「金額」に制限をつけてきた。</p>

<p>ところが、先日、アメリカの最高裁は、政治献金について「上限を設けるのは、アメリカ憲法で保障された『表現の自由』を損ねるものだ」という判決を出した。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/01/22/us/politics/22scotus.html?ref=weekinreview">Justices, 5-4, Reject Corporate Spending Limit</a><br />
【New York Times： January 21, 2010】</p>

<p>今回、Obamaが11月に向けた対策を急いでいるのには、この最高裁の判決も影響を与えている。政治献金の上限が撤廃されれば、相対的に資金に余裕のある大企業を中心に献金額が増える。そして、そうした大企業の政治的影響が増える。</p>

<p>伝統的には、デモクラットよりもGOPの方が企業との関係が深いため、今回の判決は、選挙資金面でGOP優位に働く可能性が高い。この点が、Obamaをはじめとするデモクラットの有力者（Nancy Peloci下院議長やHarry Reid上院議員など）が選挙戦略の策定に焦り始めている理由の一つ。</p>

<p>有権者の支持を取り付けるために、Obamaの大統領府の政策のトーンも「中道」を意識した方向にシフトせざるを得ない。</p>

<p>*</p>

<p>中間選挙は、大統領選ほど華々しいものではない。また、全米で分散して行われるので、大統領選ほど一様なイメージで報道されることもない。とはいえ、下院議員は全員、上院議員は三分の一、そして、各州の知事(Governor)についても選挙が行われる。つまり、一大行事であることは間違いない。</p>

<p>ということで、今後は、折に触れて、中間選挙に向けた取り組みについても気にかけていこうと思う。</p>

<p>今回のScott Brownの勝利のように、もはやウェブを活用した「有権者の動員」は当たり前になっている。そして、アメリカの場合、選挙の現場は、新しいコミュニケーションツールの利用方法が考案される場の一つでもある。この点にも注目してきたい。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>HillaryのInternet Freedomスピーチの余波、Cloudへの序章</title>
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    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.695</id>

    <published>2010-01-23T04:04:02Z</published>
    <updated>2010-01-24T09:50:03Z</updated>

    <summary>昨日のエントリーで紹介したHillary Clinton国務長官による“Internet Freedom”スピーチに対して、中国側が反応して...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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    </author>
    
        <category term="NOTE" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p><a href="http://www.defermat.com/journal/2010/000694.php">昨日のエントリー</a>で紹介したHillary Clinton国務長官による“Internet Freedom”スピーチに対して、中国側が反応している。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704509704575018491868895922.html">China Hits Back at Clinton on Net Freedom</a><br />
【Wall StreetJournal： January 22, 2010】</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/01/23/world/asia/23diplo.html?ref=technology">China Rebuffs Clinton on Internet Warning</a><br />
【New York Times： January 22, 2010】</p>

<p><br />
基本的には、スピーチの中で中国について触れられた部分は事実無根であり、このままではG2ともいわれる米中関係に影響を与える、としている。中国の外務当局からの反応（反論）であり、これで、本件は、両国から外交問題として扱うことが了解されたことになる。</p>

<p>Googleはgoogle.cnを運営していく上で中国政府が示したガイドラインに沿って検索結果にフィルタリングをかけていた。これがcensorship(検閲）と呼ばれている部分。公平のために記せば、「検閲」という言葉を使うとものものしいが、たとえば、公序良俗という基準から表現の程度に基準を設けるのは、社会政策の一環としてどこの国でも行われている。たとえば、青少年への影響を考えて、というのはアメリカでも日本でも行われている。政府が直接介入せずとも、事業者の方で内規を設定するということもある。</p>

<p>今回の話が微妙なのは、だから、状況としては単純に、「Googleという一企業が国外で営業活動している国（この場合は中国）から課せられる基準が、社内基準から見たとき、承伏しかねるので、営業活動をとりやめようと考えている」ということに過ぎない。</p>

<p>話が複雑になったのは、この意向にあわせて、ハッキングのことをセットで伝えたことと、当該市場からの撤退が当該国の利用者に取って生活レベルでもそれなりの不都合が生じてしまうこと。</p>

<p>前のエントリーでは、だから、ポイントは、ハッキングからのprivacyの保護であり、それは、Gmailシステムのその一部であるCloud Computingを進めていく上で必須案件である「個人情報の秘匿性の確保」というところにあると指摘した。</p>

<p>これと同じような考えをしめしているのが、次のコラム。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703699204575016801501346056.html">China, Google and the Cloud Wars</a><br />
【Wall StreetJournal： January 22, 2010】</p>

<p>だから、こうしたCloudにまつわる経済的利得の話が全面に出ないようにするために、主題が、Freedom、に変えられた、と見ることもできると思う。実際には、Freedomという抽象概念で常に検討を続けていくチャネルを確保しながら、私企業の具体的な活動のためのガイドラインは、適宜用意されていく、という現実的な解決が図られていくのではないか。</p>

<p>たとえば、Googleの撤退可能性によって、件のAndroid Phoneを中国市場でどう扱うか、という問題既に生じているわけだが、（IBMのPC部門を引き継いだ）PCメーカー大手のLenovoは、Android Phoneの発売を計画通りに進められると考え、待機状態にあるという。</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703699204575018264249401490.html?mod=WSJ-Tech-LEADSecond">Lenovo Stands By Google Android Phone</a></p>

<p>【Wall StreetJournal： January 22, 2010】</p>

<p>この記事は香港からのものなので、中華圏（Greater China)も一枚岩ではないということを表しているだけなのかもしれないが、しかし、ビジネスの場合は、それがビジネスであればこそ、破綻、という極端な事態を選択するには至らないと思っている。ビジネスの現場は粘り強いというのが実感なので。</p>

<p>一歩引いた視点で見れば、今回の件は、米中の外交問題にまで発展したという事実に至ることで、</p>

<p>「インターネット上の情報は、それが銀行においてお金を扱うのと同じくらい、関係者も政府も神経を使っているのだ、だから、皆さん、安心してください、私たちを信頼して下さい」</p>

<p>というメッセージを改めて世界に伝えるためのものだったのではないかとすら思えてくる。</p>

<p>つまり、「信頼」の確保が、金融業同様、インターネット上の情報・コミュニケーション事業では不可欠であることを、世界中のユーザー＝普通の人びとに知らせ、その「信頼」の調達のために関係者は鋭意努力している、ということを周知させるためのものだったのではないか、と思える。</p>

<p>裏返せば、今回の案件が首尾よく一定の妥結点に至った後は、むしろ、1980年以後の金融業並みに、世界中で情報の流通が加速度的には早くなるような事態が現出するのかもしれない。</p>

<p>だから、後から振り返れば、今回の一件は、世界的なCloud時代の幕開けに至った陣痛のようなものだったと位置づけられるのかもしれない。</p>

<p>いずれにせよ、本件は今後も気にかけていくつもり。</p>]]>
        
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    <title>Freedom to Connectを掲げることで「一つのウェブ」は“Global Networked Commons”として堅持されるのか。</title>
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    <published>2010-01-22T14:59:56Z</published>
    <updated>2010-01-23T01:08:46Z</updated>

    <summary>先週生じたGoogleの中国撤退問題を受けて、Hillary Clinton国務長官が、「インターネットの自由」に関するスピーチを行った（国...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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        <category term="NOTE" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>先週生じたGoogleの中国撤退問題を受けて、Hillary Clinton国務長官が、「インターネットの自由」に関するスピーチを行った（国務省は日本の外部省に相当）。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/01/22/world/asia/22diplo.html?ref=technology">Clinton Urges Global Response to Internet Attacks</a><br />
【New York Times： January 22, 2010】</p>

<p><a href="http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/01/21/AR2010012101699.html">Hillary Clinton calls for Web freedom, demands China investigate Google attack</a><br />
【Washington Post： January 22, 2010】</p>

<p>スピーチの本文：　<a href="http://www.foreignpolicy.com/articles/2010/01/21/internet_freedom?page=full ">Internet Freedom</a></p>

<p><a href="http://www.defermat.com/journal/2010/000686.php">前のエントリーで触れたように</a>、今回のGoogleの問題は、「一つのウェブ」＝インターネットは世界共通のネットワーク基盤、という考えをご破算にして、「多数のウェブ」＝インターネットの上に多数の亀裂・境界が設定される状態、をもたらすように思われていたのだが、そうした懸念に対して、Hillaryのスピーチは、いわば楔を打ったことになる。</p>

<p>あくまでも、ウェブは一つ。</p>

<p>そして、Global Networked Commons＝地球規模でネットワークされた共有地、としてウェブが機能するようにメンテナンスしていくのが、アメリカの外交方針の一つとなる。</p>

<p>Hillaryのスピーチでは、FDR（Franklin D. Roosevelt）が大統領任期中の1941年に行ったスピーチで説いた「四つの自由」、すなわち、</p>

<p>Freedom of Expression<br />
Freedom of Worship (Religion)<br />
Freedom From Want<br />
Freedom From Fear</p>

<p>に従って、インターネットにおける「自由」を説明している。</p>

<p>最初の二つのExpressionとWorshipについては、アメリカ憲法のBill of Rights（権利章典）のFirst Amendment（修正第一条）で具体的に記されている。いわゆる「表現の自由」と「信仰の自由」にあたる。後の二つは、FDRが独自に唱えたもので、経済的な「窮乏からの自由」と、安全保障としての「恐怖からの自由」。</p>

<p>そして、これらを経て、Hillaryのアメリカ国務省は、こうした自由を実現するために、インターネットに必要な「自由」として</p>

<p>Freedom to Connect＝接続する自由、自由につながることができること</p>

<p>を掲げている。</p>

<p>これは、ウェブを一種の公共圏、公共的な討論ができる場所のようにとらえ、ちょうど集会を開く自由（Freedom of Assembly）のようなものをウェブで自由に行えることを保障するものとしている。</p>

<p>そして、こうした「自由」が人びとに確保されるためにアメリカ連邦政府は活動するし、また、その「自由＝権利」をアメリカ国外でも確保されるよう働きかけていくと唱えている。ちょうど、EUが域内市民に対して「インターネットの自由」を保障するとしているのに近いことをアメリカも行っていくことになる。</p>

<p>*</p>

<p>基本的には、アメリカで昨年来ずっと話題になっていたアメリカ国外からのhackingに対して、本格的に防衛行動に移ることを企図したもの。</p>

<p>今回のGoogleの件は、そのための、わかりやすいきっかけとして位置づけられたことになる。</p>

<p>実際、スピーチの中では、Googleの公表を、企業として勇気ある行動として称えている。そして、ちょうど現在の企業がsustainabilityやCSRのことを考えるのが「企業市民」として適切な姿だというのと同じレベルで、インターネットの自由を守ることを企業のあるべき姿として位置づけている。</p>

<p>だから、Googleは外交特使のような存在として扱われたといってよい。Googleから見れば、多国籍企業は一定の「倫理基準」に従って行動する際には「外交」的なチャネルに訴えることも一つの手段だ、ということなのだろう。実際、Googleの発表に対して、Yahoo!などアメリカのIT企業大手が賛同していることを踏まえれば、Googleは期せずしてSilicon Valley企業の代弁者にもなったわけだ。</p>

<p>そして、こうした動きは、Googleらが進めるCloud Computingの推進のためにも不可欠なものとなる。hackingの首謀者が誰であれ、Googleの発表によれば、Gmailシステムがhackingされたことは間違いない。Cloud Computingの本質が、巨大データセンターによるスケールメリットの追求である以上、世界中で同一水準の「インターネット・セキュリティ」が保持されることは大前提となる。Privacy≒個人情報の保守、が、この点で、経済的な利得にもつながることになる。</p>

<p>Human Rights Movementというのは、国際関係の世界では真剣に取り扱われている。少なくとも国連関係者は真面目に取り組んでいる。けれども、その実効性というと、国際法の取り決めでの内政干渉を避けるため、「奨励」という形で外部から主張するか、NGO等の活動を支援するくらいしかなかった。国際関係では、実行力（強制力）のある、恒常的な調停者を想定することができないため、政府どうしが直接対峙するのをできるだけ避け、第三者的存在（第三国やNGO）が特使として動く、というケースは多い。</p>

<p>こうした状況で、今回のGoogleのケースは、Privacy保守が企業活動の根幹にあるため、Human Rights Movementが直接企業活動につながってしまう、それがゆえに、逆にHuman Rights Movementに従事する側からすると、恰好の推進力になる。つまり、インターネットにおいては、人権外交が貿易問題に直結する、という事態が生じてしまった。外交関係者と企業関係者の利害がその点で一致してしまった。だから、国務省が登場する。</p>

<p>実際、Googleが取った行動は、戦略論でいう、Hold-up Strategyそのもの。つまり、Baiduに水をあけられているとはいえ、中国のインターネットユーザーの三分の一が利用するサービスが「撤退」する、というのは、（英語圏のジャーナリズムで今回のGoogleの振る舞いを描写するのに使われているように）threat＝脅し、といってもおかしくない。</p>

<p>裏返すと、そうしたthreatが可能になってしまうのが、ウェブの世界の怖さでもある。短期間に一国規模のユーザー数を確保することができるだけの「感染性」をもっているからだ。そして、そのthreatを正当なものと裏書きするために登場したのがHillaryの国務省であったともいえる。</p>

<p>だから、今回のGoogleの一件は、ウェブの登場が国際関係や国際政治にどのような影響を与えるのか、を理解するにも適した案件だといえる。ウェブが蔓延した世界では、情報・コミュニケーション事業は、政治的価値と経済的価値を短絡させてしまう。その短絡は、政治的手段を変えてしまう。自由貿易が普通になって相互依存が高まったからこそ「経済制裁」という言葉が意味をもったように、「情報制裁」ないし「コミュニケーション制裁」のような手段が実効性を持つ時代になった、といってもいいのかもしれない。</p>

<p>いずれにしても、Hillaryのスピーチによって、本件は外交問題に格上げされてしまった。外交問題である以上、長丁場になることは必至。</p>

<p>「一つのウェブ」を堅持する動きとして引き続き注目していきたい。</p>]]>
        
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    <title>New York Times、2011年1月からウェブ有料化へ：　迫られる「マス性」の再定義</title>
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    <published>2010-01-21T04:22:52Z</published>
    <updated>2010-01-21T04:25:13Z</updated>

    <summary>有料化といっても、完全にPay Wallを設けるのではなく、Financial Times方式を導入するようだ。 The Times to ...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p>有料化といっても、完全にPay Wallを設けるのではなく、Financial Times方式を導入するようだ。</p>

<p><a href="http://www.nytimes.com/2010/01/21/business/media/21times.html?ref=media">The Times to Charge for Frequent Access to Its Web Site</a><br />
【New York Times： January 20, 2010】</p>

<p><a href="http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704320104575014891649907142.html?mod=WSJ_Tech_LEFTTopNews">New York Times to Charge for Web</a><br />
【Wall Street Journal： January 20, 2010】</p>

<p>Financial Times方式というのは、一定期間一定数の記事を読むまでは無料、それ以降は契約をしない限りアクセスブロックされる方式。Freemiumの一形態ともいえる。</p>

<p>紙の新聞の定期購読者についてはフルアクセスを認める。2011年からスタートというスケジュールは、この購読者データベースとの照合システムの準備のためだという。</p>

<p>有料化計画を発表した後、NYTに寄せられたユーザーからの意見・コメントでは、おおむね有料化を支持するものが多かったようだ。</p>

<p>もっとも、新聞に意見を寄せる読者自体が、全読者からすればレアな奇特な人たちであることは間違いなので、この結果だけで首尾よくスタートできるかどうかを判断することはできない。もっといえば、実際に稼働してみないことにはユーザーの行動は読めない、というのが現実だろう。</p>

<p>そういう意味では、開始当初の混乱は必至だろう。そして、すぐに浮上する問題が、何に対して、いくら請求するのか、というプライシングの問題。この段階で、ウェブの世界での「ニュース」というものの位置づけが随分変わっていくのではないだろうか。</p>

<p>*</p>

<p>ウェブのニュースサイトの有料化については、昨年ずっと話題になっていたことなので、ようやく方針らしきものが示されたことになる。NYTは、いうまでもなく、アメリカのジャーナリズムのフラグシップの一つなので、今回発表した計画は、他の新聞社の意思決定にも影響を与えていくと思う。</p>

<p>そういう意味で、気になるのは、むしろ、従来の新聞が、それこそ19世紀末から提供してきたといわれる“General Interest”と呼ばれる、報道カテゴリー、がどうなっていくのか、ということ。</p>

<p>もっとわかりやすく言うと、「大衆紙」と「高級紙」というような区分がどうなっていくのか、ということ。</p>

<p>書かれた記事が、単なる暇つぶしのために読まれるのであれば、それは、娯楽あるいは慰安の一つであり、大衆紙のカテゴリー。それにわざわざ対価を支払おうとする人は稀だろう。</p>

<p>一方、書かれた記事が、何かの「ため」になると思って読んでいる人は、そこに対価を支払う意志が発生してもおかしくはない。</p>

<p>そして、今回のNYTの発表にあったのは、「質の高いジャーナリズムには金がかかるのだ」ということを明示的に示したことだ。つまり、NYTは、自ら「高級紙」であると宣言したことになる。</p>

<p>だから、容易に想像がつくのは、「General Interests=一般に関心のあること＝みんなが読むこと」であると思っていたものの多くは、実は、そのことに関心のある人が読む、という意味で、数ある“Special Interest”の一つでしかない、ということ。「社会に関心がある」ということが、「金融に関心がある」ことや「技術に関心がある」ことなどと変わらない、等価なモノとして同一平面上に乗ってしまうことを意味している。なぜなら、それが「高級」な話題であるから。</p>

<p>だから、きっと、新聞が想定してきた、あるいは、ジャーナリズム論が前提にしてきた、社会「一般」、社会の「全体」、という感覚が、実は、「一般」ではなく「特殊」なこと、「全体」ではなく「一部」のこと、を指していたことが明らかになっていく方向に向かっていくのだと思う。</p>

<p>アメリカの場合は、80年代以降の「保守メディア革命」によって、従来の新聞・テレビのマスメディアが「リベラルに傾斜」していることが明らかにされ、実態としては、ジャーナリズムの全体性、という考えは実効性を失っていた。それでも、NYTのようなジャーナリズムは、Foxのような保守メディアの台頭を、イエロージャーナリズムやポピュリズムと色分けし、我関せず、金持ち喧嘩せず、という感じで等閑視してきた。</p>

<p>けれども、ウェブの時代になって、広告出稿やユーザー・アクセス数によって、「General Interest」の分析が可能になり、Generalなことがどんどんspecialなことに解体可能になってしまった。</p>

<p>NYTについていえば、それはリベラルという政治的バリューの体現というものだし、そのリベラルもNYという街に深く根ざしたタイプのリベラルだということもわかってきた（たとえば、西海岸のリバタリアン的なリベラルと比べればやはり国を中心に据えて考えがち、とか）。</p>

<p>裏返すと、Foxら保守系メディアが作りだした「ターフ」にNYT自身がとうとう降りてきてしまった、ということでもある。面白いことに、Foxの親会社であるNews Corp.が買収したWall Street Journalは、確かに、以前よりも目に見えて、「政治」について語る部分が増えている。Murdochは、高級紙、としてWSJをNYTにぶつけようとしているのがあからさまにわかるほどに。</p>

<p>その誘いに、NYTが乗ってしまうことになるのではないか、というのが、今回の有料化計画発表で気になったところ。</p>

<p>そういう意味では、「マス」メディアの「マス性」に対する信憑性が落ちていく、ということ。裏返すと、ウェブが普及した以降の状況で、「マス性」を再定義しないことには事態を見誤るような事態にいよいよ直面していく、ということ。</p>

<p>ウェブの普及によって、経済的には一種の兵糧攻めにあってしまったNYTが、とうとう我慢ならず有料化に向かい（つまり、株主らが増資などの手段で支えられなくなり、あるいは支えられるとい期待を持つことができなくなり）、そうすることで今まで「否認」してきたウェブによるマスメディアの退潮という事態を直視せざるを得なくなった。</p>

<p>そういうギリギリ感が今回の発表の背後にあるのではないだろうか。</p>]]>
        
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    <title>Webを活用した“Underdog Strategy”で上院選挙に逆転勝利したScott Brown</title>
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    <id>tag:www.defermat.com,2010://1.692</id>

    <published>2010-01-20T07:20:43Z</published>
    <updated>2010-01-21T08:57:27Z</updated>

    <summary>先ほど伝えたように、デモクラットの牙城であるマサチューセッツ州の上院議員特別選挙で勝利を収めたScott Brown氏だが、随所でウェブを使...</summary>
    <author>
        <name>junichi ikeda</name>
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    </author>
    
        <category term="NEWS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.defermat.com/">
        <![CDATA[<p><a href="http://www.defermat.com/journal/2010/000691.php">先ほど伝えたように</a>、デモクラットの牙城であるマサチューセッツ州の上院議員特別選挙で勝利を収めたScott Brown氏だが、随所でウェブを使いこなしたことが勝利の方程式の一つだったようだ。</p>

<p><a href="http://blogs.wsj.com/washwire/2010/01/19/atwitter-in-mass-browns-social-media-skills-top-coakleys/">Atwitter in Mass.: Brown’s Social Media Strategy Tops Coakley’s</a><br />
【Wall Street Journal： January 19, 2009】</p>

<p>短期間で認知を高めるために、FacebookやTwitterを活用、また、YouTubeのビデオも利用した。正確に言うと、対抗候補であったCoakley氏もそれぞれの利用を心がけたのだが、上の記事が伝えるとおり、いずれもそのフォローのされ方が段違いにBrown氏の方が多い。</p>

<p>したがって、動員をかけるところで、よりウェブの活用を心がけたという。そのあたりについて記しているのが次の記事。</p>

<p><a href="http://blogs.wsj.com/digits/2010/01/19/how-scott-brown-used-google-to-get-results-in-mass-election/?mod=">How Scott Brown Used Google to Get Results in Mass. Election</a><br />
【Wall Street Journal： January 19, 2009】</p>

<p>ここでは、Googleを活用し、エリアを限定してウェブアドを投入し、選挙戦初期においては、知名度の向上とボランティア募集を行い、選挙戦後半から当日にかけては投票に出かけるよう呼びかけていた。</p>

<p>戦略的には、徹底した“Underdog Strategy”。</p>

<p>直訳だと「負け犬戦略」となるが、選挙に限らず、一般的にはマーケットシェアなどで劣勢に立たされている側が取る戦略をいう。そして、Underdog側は、使える資源が限られているため、基本的にはゲリラ的な戦略を展開することになる。</p>

<p>今回のマサチューセッツ州の場合、1972年から連邦議会上院は全てデモクラットが占めてきていて、デモクラット候補のMartha Coakley氏は、盤石な支持基盤の上で選挙戦を展開していた。各種団体（労組やリベラルな市民団体など）の支持を早期に取り付けた上に、ケネディ家やオバマ大統領の支援も受けた。当然、通常のメディアカバレッジも増える。</p>

<p>Brownはこうした状況で、independent votersの取り込みに集中した。というか、当初から劣勢に立たされているのは明らかで、デモクラット優位の州ではメディアには積極的にも取り上げられないわけだから、選挙戦の最初からゲリラ的に展開していくしかなかったともいえる。</p>

<p>このあたりは、ヒラリー優勢の中でオバマが大統領選に立候補した時と状況は変わらない。</p>

<p>裏返すと、Underdog Strategyは、「メインストリームメディアで取り上げられていることだけが真実ではない」と感じている人びとの心理を逆手に取る戦略ともいえる。つまり、「本物はここにある」ということを、ウェブを活用したグラスルーツのゲリラ戦略で、ボトムアップで伝えていく。</p>

<p>実際、今回の選挙では、とにかく40年間続いているデモクラット支配に風穴を開けたい、という理由で、independent voterが動員されたようだから、</p>

<p>マサチューセッツ≒ケネディ≒デモクラット≒リベラル</p>

<p>という通念を何とかひっくり返したいと思っていた人びとの意向をうまく掬い上げることができたことが、Brownに勝利をもたらしたといえる。</p>

<p>*</p>

<p>総じて、Underdog Strategyはウェブと親和性が高い。</p>

<p>ただ、上のように考えると、それは、マスメディアというマジョリティ支持が明確なメディアが健在であればこそ、通用する戦略ともいえる。</p>

<p>しばしば指摘されるように、ウェブの普及と生まれたときからウェブに触れてきた世代が増えて行くにつれて、この先、旧来のマスメディアの影響力は相対的に低下する一方、ウェブの影響力は増していくと見込まれる。</p>

<p>そうすると、Underdog Strategyが想定する「メ