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December 08, 2008

op-ed / commentary


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junichi ikeda

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「ウェブ進化論」以後の絶望

December 08, 2008

op-ed / commentary


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junichi ikeda

先日発売された『新潮 2009年1月号』で、水村美苗と梅田望夫が対談をしている。

[対談]日本語の危機とウェブ進化/水村美苗+梅田望夫

先頃出版された、水村の『日本語が亡びるとき』を、「新潮」掲載時点で、梅田が自分のブログで絶賛したことが、対談のきっかけのようだ。実際、ウェブ上では、梅田のブログをきっかけに、水村の著作にたどり着いた、という人が多いようだ。

水村の著作自体は、既にウェブ上では賛否両論が溢れている。ただ、賛否両論ということは、英語で言うprovocative(=論争を喚起するような問題作の属性をもつ)な要素を持つ著作だったことは明か。グローバル化の中の文化状況を、西洋中世のそれになぞらえて、英語を当時のラテン語のような普遍語と捉え、その一方で、日本語は、当時のガリア語のようなローカルな言葉だ、という位置づけをしている。

今回の対談中でも、たとえば、水村がイェール大学在学中に専攻したフランス文学を引き合いにだしながら、フランス文学自身に触れる、あるいは、フランス文学を書く場合には、フランス語が必要となるが、ひとたび、そのフランス文学を批評しよう、あるいは、学問的に捉えよう、さらにいえば、そうした分析を足がかりにして、新たな(フランス)文学の可能性を追求しようと思った途端に、英語の方が遙かに使い出があることが判明してしまう。それを水村は「メタ言語」という表現で表している。つまり、言葉を通じて表現された個別のもの=文学(多分娯楽などのエンタメも含む)や思考・思索、に対して、その「個別性」「固有性」から抜け出して、「普遍性」のある次元で思索する(=言葉を使って「考え」て「表現」する)ためには、メタ言語たる英語に頼らざるを得ない状況にある、ということ。

梅田は、普遍性の高い言語で普段仕事をしなければいけないところでは、その通りだ、という見解を示している。想像するに、そうした普遍性の高い仕事、とは、端的にいって、(民族や地域性に寄らないという意味で「普遍的」な)テクノロジー分野を第一に指すのだろう。さらに、そうしたテクノロジー=工学的思考形態、を活用することが当たり前になっている、金融、エコノミスト、あるいは、政府関係者をも含むことになる。つまりは、エスタブリッシュメントは全て、ということになる。

(しばしば指摘されるように、現代の経済学は、ほとんど応用数学だ。日本の状況はわからないが、コロンビア大学留学時に、履修したり聴講したりした経済学の博士課程のゼミで参考されていた論文は、むかし早稲田にいた頃に、数理工学で学んだような表記法やロジックがほとんどだった。位相数学、集合論、確率過程論、は現代の経済学のロジックを作る上では、前提となるツールだ。そして、そうしたツールの上で作られたロジックが、たとえば、オークション理論のような形で昇華され、グーグルで利用され、周波数オークションのような「政策」で利用される。政府の規制や制度の基礎は、数学化された=普遍言語で綴られたものだ。こうした様子を直感的にとらえて、梅田は、「普遍性の高い言語で行う」仕事といっているのだろう)。

水村や梅田がいう、普遍語としての英語、メタ言語としての英語、というのは私も普段感じていること。というか、帰国後、むしろそうした思いを強くしている。日本語で書かれたことは、なべて言葉遊びに終始して、先に進まない。言葉で書かれたことを踏み台にして次に進む、ということがない。

多分、似たような感覚で、梅田が指摘したのが、対談の中であった、「『ウェブ進化論』以後の絶望」というところだと思う。簡単に言うと、彼が、あの本の中で書いたことは、その後、アメリカでは実現したが、日本ではほとんどそうなっていない、ということ。たとえば、一億総表現者、といったが、アメリカでは、実際、そういう方向に向かっている。

梅田は、たとえば、新聞を例に出して、ウェブの登場で、アメリカでも、新聞の売れ行きが悪くなっていて、経営的には問題だが、しかし、彼らの場合、売上が下がるからという理由で、ウェブに向かうことに手をこまねいてはいない。むしろ、「報道する」ことに伴うジャーナリズムの「public interestの論理」を重視して、今日のジャーナリズムとしてどうあるべきか模索する意味も含めて、ウェブの世界に対峙している。そのため、今後の生き残り策としては、非営利化、という方向なども検討されている、という。その一方で、梅田が日本の新聞について指摘するのは、そこには、「商売の論理」しかない、ということだ。日本の新聞には「public interestの論理」はなく「商売の論理」だけがある。だから、売上が下がることはやらない。

(アメリカ時間で昨日放送された、”Face the Nation”という番組の中で、トーマス・フリードマンが、今後の代替エネルギーに向かうトレンドの中でGMなどのビッグスリーはどうしたらよいのか、というような質問をされたときに、インターネットを引き合いに出しながら、「blogger ageの時に新聞がそのままの経営形態や商品形態で生き残れるわけないのと同じこと」というような発言をしていた。タイムリーすぎて笑ったのだが。フリードマン自身、New York Timesのコラムニストであり、NYTの現状も知りながら、こうした発言をしているところは頼もしい。というか、そうした発言を公の場ですることをとがめないNYTの方こそ見識がある、ということか)。

もちろん、日米では、メディア産業を支える背景が異なる。そうしたことを梅田が了解した上で上のような発言をしているのかはわからない。たとえば、日本の場合、非営利事業化がアメリカのようにはできない、という事情を梅田がわかった上でいっているのかどうかは不明だ。あるいは、アメリカに比べて日本の場合、既に、新聞が「全国紙」化しているため、アメリカのように、合併による合理化・集中化で、当座の経営難を乗り切る、というようなオプションが事実上存在しない、というようなことを、梅田が知っているかどうかはわからならい。

とはいえ、おそらく、ここで焦点が当たっていることは次のようなことなのだろう。つまり、重大な業界構造の変革期に直面したとき、その事業が担っていた「(社会的=消費者的)価値」を重視するのか、それとも、蓄積された「資本の増殖」を重視するのか、どちらを選ぶのか、というとき、日本の場合、後者しかどうやら前面にでない、だから、梅田は「絶望」した。

足下の広告不況の折に、こうしたことを言われても新聞社も返答に困るのだろうが、しかし、当の新聞は、総じて、「社会のためになる」ことをめざして、何かを報じてきたととらえるのが、一般的な印象だろう。梅田も、そうした一般人の一人として、public interestを重視する象徴的主体として新聞社に期待していたのかもしれない。ということは、その絶望は、ひとり梅田だけのものではないのだろう。

もっとも、水村・梅田のいう「メタ言語」が英語であることを踏まえると、「社会のためになる」ことを報じたところで、日本語による記述は、現行の問題点(の端緒)を書き留めることがせいぜいで、その問題点を普遍的に考え対処するには、英語を使って考えなければならないのかもしれない。

日頃感じていることだが、日本経済に関する分析的報道は、日本の新聞報道はほとんど意味のあるものが無く(たいていの場合、企業のプレスリリースの引き写し)、むしろ参考になるのは、The Financial TimesやThe Economistであることが多い。日頃、英語を読まずとも、経済人や実業家で、たとえば、ビル・エモットが「日はまた昇る」と書けば、それを信奉してしまうケースは多い(ピーター・タスカもこの範疇)のも、そうした、報道にまつわる文化的状況を象徴的に表しているのかもしれない。

存外、梅田の絶望は深い。


(追記)
水村の著作の指摘の含意については、機会を改めたい。
彼女の著作そのものの内容についてもさることながら、彼女の、素朴な、しかしそれ故率直な指摘が、今回の梅田のような反響を及ぼしているところは興味深い。
つまり、著作そのもののコンスタティブな効果のみならず、そのパフォーマティブな効果を同定し評定することが大切なところだと思う。
その意味で、『日本語が亡びるとき』は、日本の書き物では珍しいくらい、provocativeなものだ。

(追記2)
このエントリーを実際にアップしてから改めて思ったが、そもそも、「新潮」の対談をリンクできないのがもどかしい。「新潮」に類するような、アメリカの雑誌のサイトであれば、こうした対談記事は、それがprovocativeである、という認識が出版社や編集者側にもあるがゆえに(つまり、これが、今回の目玉!ということで)、たいていの場合、その雑誌のウェブサイトで閲覧が可能だからだ。
このあたりは、梅田の絶望は、単に新聞のみならず、日本の(少なくとも)活字文化全般に対するものだ、というのを再認させられたように思う。

(追記3) *2009年1月15日
このエントリーをアップしてから約1ヶ月経っているけど、新潮社のサイトで、梅田・水村対談が「たちよみ」できるようになった。関心がある人はググって下さい。

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