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August 10, 2009

op-ed / commentary


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junichi ikeda

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リバタリアン・パターナリズムと東浩紀の懸念

August 10, 2009

op-ed / commentary


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junichi ikeda

東浩紀が週刊朝日の彼のコラムで、最近邦訳がでた、Cass Sunsteinの“Nudge(邦題:『実践行動経済学』)”に触れている。

『批評するココロ』 第14回 
週刊朝日 2009年8月14日号 46頁

Libertarian paternalismでいわれることを形式だけとりだせば、選択設計(“choice architecture”)をきちんとすることで、合理的な選択を市民一人一人が行えるよう誘導することができる、というもの。

(Sunsteinの説くlibertarian paternalismについては、年初に書いたエントリーで触れているので、そちらも参照下さい)。

真性の自由主義者(libertarian)が説く「自由」も、自由が実践される対象は、個人の外部から環境として与えられる。その意味で、「無限の選択肢」から選べるわけでは決してなく、実は、「誰かの手がかかった選択肢」、つまり、「人為的な有限の選択肢」から選んでいるのが現実だ。だから、その「選択の人為性」について、「選択する」側も、「選択肢を提供する」側も自覚的になった上で対処しよう。特に、「選択肢を提供する側」は、予め社会的に望ましいという意味で合理的な選択がなされるような選択肢の策定と、選択肢が選ばれる状況を用意すべきである。その点で温情主義(paternalism)を受け入れようではないか。

とりあえず、こんなところが“Nudge”でいうlibertarian paternalismで意味されているもの。

しかし、これが、政治の世界や、マクロ経済の世界で語られるとたいそうなものに見えるのだろうが、日常世界に引き寄せれば、体のいい「マーケティング志向」の発想に過ぎない。

東自身も「付和雷同が基本のこの国(=日本)ではあたりまえの指摘」といった上で、むしろ、日本の政治経済的文脈でとらえれば、「民主主義の軽視」と「官僚制の肯定」にしかならないリスクも同時に指摘している。

この背後には、東の考えによれば、「米国の政治の強靱さ」があるから、ということになる。

私自身も、東の指摘は、非常に的を得たものだと思っている。ただ、残念なことに、1頁のコラムということで、そうした判断をする上で重要になる日米の状況の違いについてはあまり指摘がなされていない。

そこで、少しばかり、その補強をここでしておきたいと思う。

*

東が、「アメリカの政治的強靱さ」を見て取ったのは、“Nudge”の著者(二人)が、著作中で、「民主主義の正統性確保の重要さは疑われない」ことに驚いたからのようだ。

このことは、おそらく二つの点から補うことができると思う。

一つは、実際のアメリカの政治の動き方。
もう一つは、著者の一人であるCass Sunsteinの政治に関する考え方。

*

まず、実際のアメリカの政治の動き方だが、これは、このサイトでも今まで、個別の政治的案件(政策決定、選挙、政府高官任命、等)について、アメリカの政治的な判断のされ方=「政策過程」については触れてきている。

そうした個別の状況がある、というのを前提にした上で、多少教科書的に聞こえるだろうが、まとめて書くと、日本との違いという点では、大きく次の三点が指摘できると思う。

●連邦制 → 50の州政府と一つの連邦政府の二層構造

しかも、「はじめに州ありき」。
アメリカ憲法は、もともとは独立戦争を戦うときの「連合規約」の改訂からスタート。
州の権限のうちのいくつかを連邦に委譲した、という構造。

その意味で、アメリカは「分権制」。
国があって都道府県や市町村が定められているわけではない。
日本は「廃藩置県」と「内務省」によって強固な中央集権体制が作られていたところを、戦後、分権構造に移った。アメリカでは、このような「集約化」は起こったことがない。建国以来200年間、基本的には同じ分権制を維持している。

●大統領制 → 大統領と連邦議会の利害対立ありき

議院内閣制とは異なる。
大統領≠党首(総裁)。
大統領が「アメリカ市民」の声の代表とすれば、連邦議会は「各州民」の声の代表。

●政府高官は任命制 → 恒常的な官僚制はない

連邦政府職員は公務員として試験を受けて雇用されるが、そのトップは、大統領による任命となる。もちろん、公務員として技能と地位を高めた結果、大統領の指名を得る人も多くいるが、それが絶対ではない。

「猟官制」のため、大統領が変われば、政府高官は総入れ替えになる。
政策も、連続性よりも断続性が目立つことになる。

おそらく、この官僚制のあり方の日米の違いが、東が最も気にしたところではないかと思う。

裏返すと、アメリカの場合、日本的な官僚制がない故に、libertarian paternalismのような言葉で、GOPとデモクラットの表面上の対立を昇華して、連続性のある政策を導入する土台を作ろう、という方向に議論が向かうのだと思う。

つまり、強固な官僚制の伝統のないところに、しっかりした「官僚制」を一定の範囲で根付かせよう、という意図が、おそらくlibertarian paternalismという、一見ヌエのような、「折衷案」のような言葉にはこめられているのだが、その考えを、そのまま日本にスライドさせると、日本には(というか、中国の科挙の影響を受けた東アジア諸国には)既に強力な官僚制があるが故に、その存在の肯定と強化にしかつながらない、ということだと思う。

*

もう一つの、Sunsteinの政治に対する考え方について。

Sunsteinの専門は憲法学者であり、しかもその中でも、Republicanism(共和主義)といわれる考えを基本的な立ち位置にしている。

Republicanismは、アメリカの場合、一方の極に独裁制を、もう一方の極に直接民主制を置き、その両者の、いわば間に立つ立場で、その意味で現実的で保守的な考え方。

Republicanismが最も嫌うのは、「腐敗した政治権力による自由の剥奪」。「権力は必ず腐敗する」というのが彼らの立場なので、権力機構の随所に、チェックアンドバランスを働かせようとする。

また、直接民主制は衆愚政治に堕する、ということで忌避するものの、デモクラシー自体を否定しているわけではない。ただ、デモクラシーに参加する人々は、一定の見識を持つ必要がある、と思っている。裏返すと、政治に関心を持たせる、という点で啓蒙的な行為を歓迎する。

Sunsteinには“Republic.com”(改訂版が“Republic.com 2.0”)という著書もあるのだが、そこでは、インターネット上でのフィルタリングは、文化のタコツボ化と、政治言説の極化、を促すのでよろしくない。必要なのは、“deliberative democracy(熟慮による民主制。「討議型民主制」ともいわれるもの)”だと指摘している。

つまり、Sunsteinは、まず、Republicanismをよりどころにした時点で、極めて「現実主義」的な志向性をもつ。そして、上述の、連邦制のような特徴をもつアメリカの統治構造についても、それが、権力の腐敗を事前に、もしくは適宜排除するように設計されていればよい、というように考える。この時点で、すでに「設計主義」であるわけだ。

こうした観点からすれば、Sunsteinがlibertarian paternalismを推奨するのもよくわかる。

共和制としてのアメリカがきちんと稼働するためには、常にそのシステムの土台そのもの稼働状況をチェックしなくてはならない。そのチェックは民主的な手続きを経て行われるが、その担い手は「有徳の市民」である。「有徳の市民」を再生産するのはデモクラシーのために必要なコストとして意識して取り組むべきである。

(補足すると、Republicanismは「徳」を重視する。それが統治者に当てはめられると、ある種のelitismを容認する、さらには、称賛する方向に向かいやすい)。

こうした共和制アメリカであれば、libertarian paternalismに基づく制度設計がなされても、問題点があれば、修正を行う民主的な手続きが発動する。さらに、paternalismを明示することで、「制度設計が人為的になされている」し、その制度設計には「ある政策的目的が選択された」という事実の履歴に対して、意識を向けることができる。だから、政府による一方的な「管理」が跋扈するような事態は生まれようがない。

Sunsteinはこんなふうに考えているのでないかと思う

*

“Nudge”の最終章では、著者は、libertarian paternalismが、本当の意味で、デモクラットとGOPがそれぞれ墨守する、「伝統的なリベラリズム」と「伝統的な保守主義」の二つの道に代わる「第三の道(The Third Way)」になると主張している(つまり、信じている)。

今、アメリカの政治は、ヘルスケア改革で大もめにもめているが、その際、常に参照されるのが、クリントン時代の失敗で、オバマのホワイトハウスとしては、クリントン時代との差異をどう形容するか、に困っているところでもある。

「第三の道」は、アメリカの場合、ビル・クリントン大統領の時代に、neoliberalismとして導入された。そう考えると、同じく、右もなく左もなく、スマートな政府こそが大事だ、と主張するオバマ大統領からすれば、彼の取る「第三の道」を形容する言葉を欲していることだと思う。
(というか、メディア自身が求めているに違いない)。

この点で、libertarian paternalismはオバマ流の「第三の道」を形容する言葉として浮上するかもしれない。

そして、この言葉が、アメリカにおいて人口に膾炙することによる、日本への波及効果を加味すると、東浩紀の懸念に結びついてしまうことになる。

そういう意味では、翻訳タイトルである『実践行動経済学』は、いかにもハウツー本的に聞こえる。上で述べたようなSunsteinの考えどころか、そもそも、彼が経済学者ではなく法学者で、その見地から行動経済学の政策的応用を企図していることが微塵も感じられない。

繰り返しになるが、行動経済学でいわれていることは、経験的には「マーケティング」で実践されてきたものと大差ない。あるいは、「巨大商業施設の設計・建築」によって蓄積されてきた知恵と大差ない。あるいは、工学の世界で実践されてきた実験主義を、コンピュータによるシミュレーションによって実現可能になったという、方法的な洗練に大きくよっている。

それでも、行動経済学が革新的だと喧伝されるのは、東も指摘しているとおり、「経済学サークルで従来の理論を覆したから」という内輪の論理がほとんどだと思う。

だとすると、“Nudge”の意図を正しく受け取るには、そうした「行動経済学のハウツー」の部分ではなく、この本を通じてSunsteinが文字通り「実践」しようとしてきた、社会政策上の目的や意図を読み取らないといけない。

そして、それは、手垢にまみれたneoliberalismという言葉から一旦離脱して、オバマ時代の「第三の道」をポジティブに形容する言葉としてlibertarian paternalismを浮上させること、のはず。

そここそを“Nudge”からは読み取らなければいけない。

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