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October 29, 2009

op-ed / commentary


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junichi ikeda

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代表性の確保と東浩紀のデータベース型民主主義

October 29, 2009

op-ed / commentary


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junichi ikeda

来年実施予定のCensus(国勢調査)について、結果の予測値が出始めている。それによると、カリフォルニアでも人口減、かわって人口増はテキサス。

California Would Lose Seats Under Census Change
【New York Times: October 28, 2009】

連邦議会下院は、人口分布によって各州に割り当てられる議員数が変動する。この予測値によれば、カリフォルニアは下院の議席を減らし、テキサスの議席数は増加する。

なお、上院は、各州二名が固定で割り振られているので、人口の増減とは関係ない。

従来は、サンベルト、特に、カリフォルニアとテキサスを含む南西部諸州で人口が増加。対照的に東部、特にニューイングランド周辺の諸州で人口が減少。ニューヨーク州やマサチューセッツ州が下院の議席数を減らして、その分が南西部に移っていた。

しかし、来年のCensusでは、カリフォルニアが議席数を減らす見込み。これは、近年の州経済の悪化から、人びとが周辺の諸州に移住するようになったため。特に、テキサスへの流入が顕著、ということになる。

(このあたりの、カリフォルニアvsテキサスについては、以前書いたこのエントリーを参考に。)

下院議席数の配分は、単純に下院での発言力の増加だけにとどまらない。というのも、いわゆる大統領選における「選挙人」は、その州から選出される連邦議会の議員数だけ割り当てられるからだ。つまり、下院議員数の増大は、そのまま大統領選での影響力の増大につながる。

いうまでもなくテキサスはGOP(共和党)の牙城。一方、カリフォルニアは基本的にはデモクラット支持。いずれも大票田であるため、大統領選での基礎票を固める上で重要な州となる。

もちろん、実際の選挙戦は、swing statesと呼ばれるGOPとデモクラットの支持が拮抗している州がキャスティング・ボートを握ることになるため、カリフォルニアやテキサスが事態を決めるわけではないのだが。それでも、基礎票として重要なことは間違いない。

このようにアメリカの場合、10年ごとのCensusに応じて議員配分が変わる。この点は、日本の選挙とは異なる。先日の、民主党が勝利した選挙においても、地方と都市部の一票の格差は放置されたままだった。

アメリカの場合は、人口増は政治力の増加にもつながる。だから、州政府としては、自州の魅力を高め、(経済力のある)人びとの誘引にも積極的になる。それが、たとえば、North Carolinaのテクノパークのような、州政府主導の産業地区の育成にもつながる。

人口分布にあわせて議員配分は、代表性の正統性を損なわないように厳格に行われるわけだ。

*

ここで少しばかり脱線すると、先週の『朝ナマ』出演からネットの中で盛り上がっている、東浩紀が提唱しようとしている「一般意志2.0」がらみの話も、定数是正の根幹にある「代表性の確保」という視点から見れば、ちょっと違った見え方がしてくるように思う。

番組内で東は、そもそも議員を減らして、直接的に人びとの間で処理可能なものはITを活用することで対処してはどうか、と提案していた。

上の文脈で言えば、日本の場合、一票の格差是正に対して鈍感なため、大都市圏居住者の一票の価値は低くなってしまう。本来ならば、アメリカのように一票の格差を修正するべく議員数の配分を変更することが必要なはずだが、いつまでたってもそうならない。そして、そのことを仮に声高に主張してみても過去の事実からするとむなしい結果しかえられない。そういう予期が普通だと思う。

であれば、議員数の配分調整のことは不問にして、むしろ、数そのものを減らせるように社会の設計方法を変えていこう、というのは実質的に不毛な議論から抜け出すためには有効な視点だと思う。

しかも、どうやら東の考えでは、「ITに支援された集合知」で処理する対象としては、主に公共サービス、行政サービスの分野が中心のようで、合点がいく。

だから、彼のいう「政治をネットで」というのは、直接民主制、ということとは違う。主に一人一人の有権者=市民=消費者が日頃関わる機会のある「行政サービス」について、利用者の意見、意向、・・・、というよりは、東の考えでは、実際の利用履歴から見いだされる傾向性を活用して(多分)自動的にサービス内容の改変がなされていくようなもの、なのだと思う。

ポイントは:

●政府、政策、の実体の多くは、多くの人びとが利用する公共財の供給であり、それは具体的には、個々の行政サービスとして提供されているもの。政策の対象をここまで具体的に絞り込む。

●裏返すと、人びとが日々関わらないような案件、今すぐ思いつくのは外交のように秘匿性の高い領域だが、そうしたところまでネットで集合知でということは、さしあたっては想定していない(もちろん、30年後を想定する彼の「一般意志2.0」構想では外交レベルのことまで射程に入っているのだろうが)。

つまり、政府による税金の投入先の多くは大なり小なり人びとの生活空間で遭遇するもので、その資源配分方法については、利用者の意向・・・ではなく「傾向」が半自動的に反映されるような方式を目指す、ということなのだと思う。

簡単に言えば、行政サービスにコンビニのPOSシステムのようなシステムで随時改変可能なサービスにするということ(今風に言えば「進化する」行政サービス、ということ)。

政府活動の多くが行政サービスであれば、この議論は可能だし、実際、政府をあたかも企業のように経営するための手練手管を整理したPublic Managementという分野では、むしろ、こうした考えに沿って知恵が多数蓄積されている。

Public Managementというのは、アメリカでは、NY州政府の財政破綻への対処などをきっかけに具体化されてきた。それは、低経済成長に移行し、税収増を大きく見込めなくなる中、放漫財政を見直して、政府をあたかも有限の経営資源を持つ企業のように経営することを目指した。

低成長経済の中で、(社会政策としての)「理想」と(経営資源の有限性という)「現実」の間で折り合いをつけることがどうしても必要になる。その要請からPublic Managementという知識セットが生まれたわけだ。

いうまでもなく、経営学は実践の学であるため、理論よりも実践知、つまり経験的な成功・失敗の分析が重要になる。いきおい、ベンチマーク、比較の視点が重要になる。この点、アメリカの政府は、ベンチマークの対象に事欠かない。州政府は50あるわけだし、NYやLAのような、小さな州よりもよほど巨大で複雑な構造をもっている市政府もある。個々の行政サービス提供主体も、バラバラに編成されていて、たとえば、警察であれば、NYPD、LAPD、というように、複数の存在がある。

だから、アメリカの場合は、IT登場以前でも、互いに同種の行政組織を比較することで、managementの技能を互いに磨くことができた。

加えて、アメリカでは、非営利企業(non-profit corporation)という形で、政府と企業の中間項のような経営組織も存在する。こうした事業体との比較も有意味だ。

(ちなみに、OpenでFreeなInternetは、直接の受益者以外がシステム維持のために資金供与するという点では、単純にお金の流れだけ見れば、政府やNPO的な存在ともいえる。)

おそらく、日本の場合は、こうした比較対象が見いだせず、いきなり対象を民間企業にしなければいけないところが、実践知の蓄積を困難にしていたのだと思う。

そして、そのデッドロックを回避するために、いきなり利用者の視点に立って、ITを活用することで効率よく行っていこう、というのが、東浩紀が提案していることの最初の意味ではないかと思う。

彼は、おそらくは、現在構想中の「一般意志2.0」への接続を考えて、データベース型民主主義というように「民主主義」という言葉を選択しているのだと思うが、実際に行うことを考えれば「データベース型Public Management」とした方がいいのかもしれない。

(言葉の選択としては、市場活動について、capitalism=資本制のことを語るレイヤーと、個々の企業の経営=managementのことを語るレイヤーを分けるのと同じようなものだと思う。理念型としての「政府」と、具体的に公舎に入った「政府」というような二面性に対応したものともいえるけれど)。

「データベース型Public Management」という表現のネックは、Public Managementと言った時点で、政府関係者が行うことで、有権者には関係ないことというように線が引かれてしまうような印象があること。また、30年後の日本の構想にはいささか議論が矮小化してしまいかねないところだろう。

しかし、いうまでもなく、ネットを介した場合は、人びとは、それと気づくことなく、つまり無意識(=意志を持たずに)のまま、行政サービス活動に関わり、そこに利用の痕跡を残すことで「関係」することになる。

*

アメリカのCensusの話から、東のデータベース型民主主義というのには、距離があるのは確かだが、しかし、アメリカのように、代表性の確保に厳格になる振る舞いがあれば、選挙や議員に対する意識も本来ならば変わっていると思う。その点で、議員に決定権を委ねる今の日本の仕組みを見直した方がいい、という東の意見は合点がいく。

もう一点、アメリカの場合、代表性の確保は、個々の議員が議員立法を通じて「政策」を提案することに強く関わることで維持されている部分もある。正確には、その議員の選挙戦勝利に貢献した個々のinterest groupのアイデアや、もう少し中立的な外部のシンクタンクや学者のアイデアを活用して、議員立法がなされる。一方、日本の場合は、従来であれば、官庁が素案を作成し、それを議員が追認する、という形態であった。

だから、常に、官僚制をなんとかしないとどうしようもない、という議論になる。けれども、それも、過去50年間変わらなかったのならそうそう簡単には変わらないだろう、という予期を、日本人の多くがもち、その結果、そういう要望を断念するに至るのも至極当然なことだと思う。だから、官僚制の扱いを直接検討課題にするのは回避して、むしろ、ゴールたる行政サービスに照準する方が戦略的にも適切。そこで、利用者の意向を汲み反映させるシステムの運営者として官僚を再定義することで、官僚にも「擬似的な代表性」を付与していくことができる(官僚は選挙に晒されないので民主制における代表性をもちえない、というのがアメリカ風の考え)。

とすると、これは、東浩紀流の「リバタリアン・パターナリズム」の実践提案でもあるのだろう。

*

いずれにしても、東の言う「データベース型民主主義」や「一般意志2.0」については、いろいろと考えさせられるところも多いので、機会を見ては考えていきたいと思う。

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