Space Shuttle 最終便、天空へ

February 11, 2010

op-ed / commentary


author
junichi ikeda

フロリダのケープカナベラル基地からEndeavorが打ち上げられた。スペースシャトルとしては最後の打ち上げだ。

Shuttle Blasts Off for Space Station
【New York Times: February 8, 2010】

For Human Spaceflight, Can Measured Beat Bold?
【New York Times: February 8, 2010】

A New Space Program
【New York Times: February 8, 2010】

最後、というのは、オバマ政権になって科学政策が見直されたから。この政策方向転換によって、ブッシュ(W)時代に立ち上げられた「人類を再び月面に」という、アポロ計画アゲインであった“Constellation Program(「星座計画」)”は中断された。

宇宙に人を送り込むのは、これからは民間企業が行う。そして、NASAの役割は、オバマのいう“Game-changing Technology”の開発が中心になる。たとえば、宇宙空間での精密作業が行えるようなロボティックスの開発や、宇宙ステーションの稼働のためのエネルギー確保手段など。

わかりやすくいうと、民間企業が行う「宇宙ビジネス」で継続的にアメリカ企業が優位となるように、その基盤を支える技術開発を国家予算の下で行うということ。つまり、オバマ政権は、宇宙開発を産業として本格的に立ち上げる準備に入った、ということだ。アメリカでは珍しい「産業政策」が採択されたことになる。

NASAは、これ以後、宇宙という「フロンティア」を探索する最前線から一歩退き、様々な企業が宇宙進出するための支援機関、宇宙産業に奉仕する機関に様変わりする。

この方向転換は、だから、単なる予算削減、という以上の意味合いを持つ。

つまり、

宇宙開発という「夢」を希求する場所から、
粛々とイノベーションそのものを目的として遂行する場所へ。

あるいは、こういってもいいと思う。

かつてはシリコンバレーのスタータップに多数の技術を直接的・間接的に提供し、いわばシリコンバレー全体のインキュベーターの役割を果たしたNASAが、自分の育てた子供たちであるシリコンバレー=ハイテク産業に追い越され、時代状況の違いから、むしろ、そうした外部のハイテク産業の「イノベーション」に直接奉仕する立場になった、と。

フロンティアの探索から、イノベーション自身へ。
夢から産業へ。
科学から工学へ。

NASAは大きく様変わりしようとしている。
それは、同時に、私たちが長らく科学に求めてきた「夢」が一端リセットされることでもある。

*

スペースシャトルといって思い出されるのは、打ち上げ直後皆が見守る中、爆破してしまったチャレンジャー号。

あの映像は衝撃だった。今まさに成層圏を突破し宇宙に飛び立たんとするその瞬間に、チャンレンジャー号は無残にも爆破してしまったので。その瞬間、アメリカ人の夢は悪夢へと一変した。

そう、シャトルが宇宙に飛び立つとき、私たち(それはアメリカ人のみならず中継映像でその様子を見る私たちのような日本人も含むのだが)は、宇宙というフロンティアへとつながる夢、ロマンを感じてきた。

そして、この「フロンティアへ乗り出す夢」はアメリカ史について回る夢でもある。

端的にいって、NASAは20世紀におけるアメリカの夢を生み出す装置として機能した。

その夢とは、アメリカ人としての「一体感」。

*

しばしばNASA、あるいは、アメリカ航空宇宙局、といってすませてしまっているけど、正式名称は

the National Aeronautics and Space Administration

で、“National”が付けられている。

この“National”という言葉はアメリカでは特別なニュアンスを持つ。単純に「国立」といってすむものではない。

アメリカの場合、政府機関にはFederalと呼ばれるものが多い。おおむね、建国の頃からある機関は、federalが冠に付けられている。それは、stateとの対比の上からのこと。たとえばFBI(Federal Bureau of Investigation)。管轄として州をまたぐ犯罪を扱う。

FederalとStateの区別はアメリカでは厳密で、あくまでも、州の連合体(United States)がアメリカだ(of America)、ということになる。

一方、nationalには「連邦か州かを問わずアメリカにいる人みんなのために」というニュアンスが強い。だから、冠としてつく対象は、軍関係や、図書館・博物館などのアーカイブ系、あるいは、学術集団、など、「アメリカ市民に対する普遍性」が必要な機関が多い。

そして、それは時期的には、アメリカで「連邦か、州か」という対立軸が未曾有の経済不況によって強制的に無効化され、「大きな政府」が当たり前になるFDR以降、さかんに利用されるようになる。

とりわけ、第二次大戦を通じてアメリカが国際的に台頭し、ソ連との対立が冷戦として明らかになる時期(1940~60年代)に設立された機関で多用されるようになる。

NASAもその一つ。

(その他にはNSA(National Security Agency:通常「国家安全保障局」と呼ばれる)やNSF(National Science Foundation)など。)

Nationalが負う「国民的統合」やそれによる「国民国家」という意味合いが、第二次大戦後のアメリカでは、建国以来、ようやく実体的意味を持つものになった。

だから、ロケット開発からミサイル開発に連なる研究を、ソ連との間の「宇宙のフロンティア争奪戦」へと転調させることで、軍事的覇権と国民統合がセットになり、いわば「統一アメリカ人の夢」としてNASAの活動は徐々に象徴的意味合いの負荷が重くなっていく。

州と連邦の対立を越えて、アメリカ人として一体となる、そういう意味が“national”には込められている。

NASAはその急先鋒だったわけだ。宇宙にアメリカ人を、それもソ連に先駆けて、というミッションからスタートした時点で、「国民統合という夢想」を背負ってスタートしたといってよい。

そして、宇宙にフロンティアを求めることで、アメリカの歴史に色濃く残るマニフェスト・デスティニイを、他の国家との摩擦の少ない、「未踏の地」としての宇宙で再度求めるようになった。

だから、はなからnation-stateとして自律していた諸国が連合を作るEUをUSAになぞらえてUSEと呼ぶのは全く間違っている。

アメリカは、いまだに「国民的統合の夢」を見続けている、一種の領邦国家なのだ。

*

従って、今回の路線変更の歴史的意義は想像以上に大きい。

国家=USAが率先してフロンティアを開く、というミッションが消えた。

今後、宇宙に踏み出すのは、民間企業とのコラボレーションとなる。

そして、NASAは、そうした宇宙空間のような、特殊な環境の下で、人類(というかさしあたってはアメリカ人)がどのように活動できるか、そのための各種支援のための技術が開発されることが優先される。それが、ロボティックスであり、代替エネルギー手段の開発、だ。

裏返すと、宇宙、少なくとも、地球の上空から月にかけては、もはやフロンティアではなく「開拓すべき空間」として認識されたことになる。その開拓・開墾に必要なものから技術開発が行われていく。

つまりは、イノベーションに屈した。

イノベーションを自己目的化し、それを国が支援していくための枠組みとしてNASAは、新にその存在を再定義することになる。

つまり、以前は、NASAの研究開発成果のスピンオフが、シリコンバレーのハイテク企業を誕生させていったのだとすれば、今後は、むしろ、NASAはそうしたシリコンバレーの夢を回し続けるための、いわば産業利用を自己目的にした機関になる。その時点で、シリコンバレーとの向き合い方が逆転する。

NASAはイノベーションが自走するためのエンジンとなる。


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補足:

「アメリカはいまだ国民国家ではない。」

これは、それほど奇異な発想ではないと感じている。

たとえば、リチャード・ローティの『アメリカ未完のプロジェクト』。原題は“Achieving Our Country”であって、Nationという言葉は巧妙に回避されている。

ローティは、この本の中でアメリカの文化的断絶を乗り越えて、統合を呼びかけているのだが、その統合は、国民的一体感というよりは、ローティ特有の、互いに価値観がバラバラであっても公の場では融通を付け合おうという気持ちを互いに共有することで成立するもの。

だから、多分、nation-stateという具合に、nationとstateが自明のように並記される事態にアメリカはいまだにない。むしろ、nationという統合感をstateに直結させることをできるだけ忌避する力が常に働いている。その結果、「バラバラの中の統合」、という社会編成が貫徹される。

その一方で、そのバラバラ感に対して、個々のアメリカ人(国民ではなく市民)が実存のレベルで正気を保ち続けるために、伝統的な宗教や、新宗教、もう少し緩い感じのスピリチュアリティが遍在している。

このあたりは、また別の機会にもう少し掘り下げてみたい。