FERMAT communications visionary

January 29, 2011

op-ed / commentary


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junichi ikeda

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Al Jazeera、インターネットブレイクアウト、ウェブの位置づけの今後

January 29, 2011

op-ed / commentary


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junichi ikeda

エジプトにおける動きに対するAl Jazeeraの動きを伝えた記事。

On Al Jazeera, a Revolution Televised Despite Obstacles
【New York Times: January 28, 2011】


この記事のタイトルもそうだけど、アメリカの報道で、このような情報技術とメディア技術の節点を語るものはだいたい、「Revolution Televised=革命が遠視(テレビ中継)された」というタイトルを含むものが多い。そして、この表現自体は、89年の東欧革命におけるCNNの果たした役割に起因している。

ただ、象徴的だな、と思うのは、89年の時のCNNの影響は、もっぱら衛星放送の受信によるものだった。しかも、ある意味で、そのような衛星から「降ってくる」放送の内容が、アメリカを中心にした「西側」の「大衆消費文化」の実態のイメージの総体を伝えていて、それ自体が、一つの「西側」の象徴として受け取られた(とされる)。しばしば、西に「憧れる」とか「羨望する」という表現で(少なくとも西側の人達からは)形容された。

つまり、東西冷戦という対立構図があり、各々の盟主として、ソ連とアメリカがあり、その盟主に従う諸国、という形で全体の構図=世界観が決定されていた。だから、その頂上どうし(=米ソ)の様子の違いを強調することで、その頂上に付き従う人達に影響を与える、ということが、メディアの数ある役割の中の一つとして認識されていた。当時は、このようにある種のプロパガンダ性を実際に執り行っているからこそ、表の世界では、プロパガンダ性に対する公式の批判もかなり強くあった。

しかし、今回のエジプトもその一つだが、ここのところ話題になっている、主にアラブ世界の話の場合は、公式には冷戦時のような盟主どうしの対立という大々的な枠組み=世界観はない。プロバガンダ性という点では、むしろ、現地の人々の活動を短期間に効果的に組織化するものとして、主にはインターネットのような動員性をもつ情報技術が、肯定的に位置づけられる。そのような肯定性の方が際立っているように思う。例のGoogle Ideaのジャレッド・コーエンらが典型的だが、ボトムアップの、いわゆる「民主化要求」という表現で強調される。むしろ、デモクラシーを実現するツールとして絶対性を持つものとして位置づけられることの方が多いような印象がある。

そして、民主化「要求」のような、内側からの変化を求める動きを支えるものとしてインターネットのもつ「しぶとさ」が際立ってくる。

「しぶとさ」とは、インターネットが構造的にダウンしにくいものとして設計されているということだ。冷戦時に、アメリカ国内の意思決定ネットワークの「しぶとさ」を確保するために開発されたインターネットの水平分散の仕組みが、つまり、国防のために用意された「しぶとさ」が、他国においては、その国のシステムをゲリラ的にダウンさせるためのツールとして活用されている。現在、インターネットの政府にとっての位置づけは抜本的に変更されているように思える。

ここに、衛星放送とインターネットの並行性、つまり、冷戦時に軍事利用=国防を目的に開発された技術がともに、他国において逆の方向で利用されている、という、興味深い動きを見て取ることができる。(一般化していってしまえば、技術の開発動機を180度裏切るような利用動機は容易に生じる、ということだ)。

そこから、政府だけでなく、むしろ、「みんな=人々のインターネット」という位置づけも強化する動きが生じているようにも思える。

たとえば、インターネットの「しぶとさ」が、絶対的な「しぶとさ」として一般の人々にも了解されているがゆえに、エジプトで行われたインターネットの全面的停止、「インターネット・シャットダウン」や「インターネット・ブレイクアウト」という事態に、驚愕する人が世界中で現れてしまったのだろう。

Al Jazeeraは、ジャーナリズムメディアとして、使える手段はなんでも使う。衛星だけでなくインターネットも使う。むしろ、米国においてすら、ケーブルのチャンネルとして配備されている地区は限られるので、インターネット経由で、つまりは、TwitterやFacebookやYouTubeやAl Jazeera自身のサイトを通じて、実際にAl Jazeeraの報道に接触している人々のほうが多いと思われる。そして、そうした経験の記憶が、逆にインターネットのメディア性のイメージを形作っていくことにある(Twitterのソーシャル・メディア性ももっぱらイランの選挙の際の動きから「公式登録」されたことを思い出して欲しい)。

Al Jazeeraが、今回のエジプトにまつわる報道をクリエイティブ・コモンズ登録して、むしろ、積極的に世界中にインターネット経由で頒布されることを選択肢たことの意味も大きい。むしろ、(コーエンのいう接続技術の現れとして)個々の人々による伝播も、システムの稼働のための要件として見込んでしまっていることをも意味する。

Twitterやブログを含めて、アメリカで流れている反応からは、インターネット・ブレイクアウトのような、インターネットに対する所業こそが、直接的に、当該政府システムの横暴さを示している、という形で受け止められているように思える。

ここから、例の「インターネットの自由」がむしろ、絶対的な価値を持つものとして、人々の間で記憶されようとしている流れがあることに気付かされる。

つまり、インターネットのシャットダウンが、世界中の政府関係者から見たら、それだけはやっちゃいけない「象徴的」な「暴挙」として位置づけられた、ということを意味するようになると思われる。裏返すと、今後は、インターネットこそが、テレビや新聞に変わる、一国の体制のあり方に直結する「メディア」として位置づけられるということになるのだと思う。

既にアメリカは、昨年のGoogleの中国からの撤退をきっかけに、クリントン国務長官が「インターネットの自由」の確保を、民主国家の条件の一つとして、人権外交のような、外交上の重要な価値として位置づけている。その手前、今後は、ある政府のインターネットへの処し方を、その国の民主化度の一つのリトマス試験紙として大々的に位置付けていくことになるのかもしれない。

今回のエジプトの一連の動きがある程度の収束を見た後、「インターネット」という存在がどのように位置づけられるのか、また、どのように位置づけようとする意見や発言がどこから生じるのか、そのあたりに照準して、今後の様子を眺めておきたい。

おそらくは、そうした「インターネットの公式的価値」の設定と強化が、今後のウェブのあり方の方向性を占うことになるだろうから。

もちろん、今回のエジプトがチュニジアの後に起こった出来事であるように、エジプトの後にもまた別の地域で異なる動きが生じるのかもしれない。むしろ、この、「一連の」という形容がふさわしい、出来事の連続性に注目することも必要かもしれない。どの段階で、誰が、そうした「連鎖」に断絶を与えるか、というのも大きな決定になるように思われるからだ。

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