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November 16, 2018

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junichi ikeda

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スタン・リー亡き後のマーベル・ユニバースの行方

November 16, 2018

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junichi ikeda

マーベル・ユニバースの生みの親、スタン・リーが亡くなった。享年95歳。

Stan Lee Is Dead at 95; Superhero of Marvel Comics
【New York Times: November 12, 2018】

・・・とこの訃報を聞いて、え、95歳?そんなに長生きしていたの?というのが、率直なところ、一番の驚きだった。

なにしろ、今年95歳ということは、今ではすっかり世界のドル箱映画シリーズであるマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の第1作である『アイアンマン』が10年前に公開された時点で、すでに85歳だったことになる。それから10年、MCUの新作が制作されるたびに、彼はカメオ出演を果たしてきた。いずれも一瞬登場するだけの役だったが、それでもかくしゃくとしたひょうきんな爺さんが出ている!という感じで、いつも楽しませてもらった。

それにしても95歳というのは驚きで、今更ながら、彼が1922年生まれであることを知った。1922年とは、日本でいえば、大正生まれ。それで気になって調べてみたら、手塚治虫が1928年生まれ、石ノ森章太郎が1938年生まれで、もちろん彼らよりもスタン・リーのほうが年長だ。そして、手塚治虫も石ノ森章太郎も、ともに60歳で亡くなっていたことまでわかると、そりゃ彼らよりも30年長生きした分、製作に関わる量も増えるのだから、マーベルの神様に祭り上げられたも仕方ないなぁと思ったのだった。

実のところ、この10年間あまりのMCUの躍進ぶりをスタン・リーはどのように見ていたのか、思い切り気になってきた。85歳になって、若い頃に創作に関わったコミックのキャラクターが映画の中でヴィヴィッドに「動いて」いくのを、どのように感じたのか。しかも、この10年ですっかりCGI全盛の映画になり、文字通り、彼が生み出したヒーローたちは、スクリーンの中を所狭しと駆け回り、飛び回ったのだから、その様子を、どのような視線で眺めてきていたのか。

実際にシリーズ作品を見ればすぐにわかるように、MCUの作品には、戦後アメリカ社会で生じた社会事件を反映した物語が多い。だが、そのほとんどが、スタン・リーが実際に「生きた」アメリカを映しとったものだったわけだ。

その意味では、MCUとはスタン・リーによるアメリカ現代社会史であり、視聴者は、彼がコミックの製作に関わった75年間――18歳ですでにマーベルの前身となるコミック出版社に務めていたのだという――の記憶を、10年間で20あまりの映画作品として圧縮して体験したことになる。いわば戦後アメリカ文化社会史のパノラマでもあったわけだ。

ファンからすれば「幸い」にも、来週公開のMCUの最新作である『キャプテン・マーベル』とアベンジャーズ第4作では、スタン・リーの姿を見ることができるのだという。

『アイアンマン』から10年経ってのアベンジャーズ第4作で、MCUは一区切りされると言われている。つまり、10年経って初期から登場しているヒーロー役の俳優も年齢を重ねたこともあり、MCUを支える中核キャラクターも入れ替わるのだという。

そのタイミングで見事にカメオ出演を果たして亡くなったというのだから、まさに大往生だ。

ただ、それだけに、今後のMCUがどうなるのか、気になるところでもある。

簡単に言えば、ジョージ・ルーカスの手を離れた途端、『スター・ウォーズ』が、とりわけ『スター・ウォーズVIII』のように、ルーカス時代のものとは全く異なるテイストの単なるフランチャイズ映画に成り下がってしまったのと同様のことが起こりはしないか、という懸念だ。

というのも、なんだかんだ言って、原作者がカメオ出演するというのは、映画の製作を任された者たちからすれば、緊張を強いられるものだったように思えるのだ。つまり、スタン・リーが出演することで、これはスタン・リー公認のMCU映画です!、と、中身の保証がなされていたようなものに思えるのだ。一種の、品質保証というか。

実際のところ、スタン・リーがMCUの製作過程にもの申したかどうかはわからないが、そもそも監督や脚本家、あるいはプロダクション・デザイナーなどのスタッフたちにしても、年齢を考えれば、大なり小なり、マーベルの作品に触れたことがあったことだろう。とすれば、同じクリエイターとしてオマージュなりリスペクトなりを抱かない人はいないはずだ。

そのような、いい意味での緊張感が、スタン・リーの死去によって、以後のMCUから消えてしまったりはしないのか。

逆に言うと、スタン・リーの死去をきっかけに、いまやマーベルの親会社であるディズニーが、スター・ウォーズ同様、ディズニー色にマーベルを染めようとしたりはしないかという心配でもある。

いや、心配したところで、今後、ディズニーも、ネットフリックスやアマゾン・プライムのように、ワールドワイドでストリーミングサービスを展開していくことを思えば、マーベルのコンテンツ資産を最大限活用しようとすることは間違いないわけで、きっと変わってしまうに違いない。なにしろ、ディズニーなのだから。

スティーブ・ジョブズを失ったアップルが、ジョブズ亡き後も、ジョブズが残した遺産であるiPhoneやiPadを、その後の技術革新に合わせながらバージョン・アップし続けているのと同じことだ。

ただ、そうは言っても、ガジェットと異なり映画やドラマのようなコンテントの場合は、ストーリーがあり、世界観があり、キャラクターがあり、それらが相互に支え合って一つのユニバースが作られている。その微妙で危ういバランスの上に成立する世界を、いわば「重し」としてのスタン・リーがいなくなっても、維持されるものなのか。

もちろん、既存のそのような「物語秩序」を破壊することが創作の一つの手段であることもわかっている。その意味で、スタン・リーの世界は、確実に将来、破壊される。問題は、それがいつやって来るのか、ということだ。

それはまた、同一作品が、微妙なアレンジのもとで、延々と上演され続ける「フランチャイズ」の宿命でもある。

その意味で、ディズニーランド的な「ネバーエンディング」の、いつまでも終わらない夢をどこまで見せ続けられるのか、ということでもある。

裏返すと、75年もの間、アメコミ界に君臨した重鎮たるスタン・リーを失った後に、それでも今までのようなアメコミ界が続くのかということでもある。

デジタル後のコンテントは、ひたすら「流転が常」のオープンエンドの、いわば垂れ流し状態のものが増えているだけに、スタン・リーのような特定の個人名が、文字通り、重しとなって、放っておけば拡散するばかりの世界を、なんとか閉じたものとして完成させることができたように思える。

そのような流儀がどこまで持つのか、あるいは維持されるものなのか。維持されるとしたら、どのような意図やマインドセット、すなわち〈精神〉のもとでなされるのか。とりあえず、スタン・リーの影が完全に消えた後の企画が映画として上映される2-3年後が気になるところだ。

それがまた、期せずして2020年代の映画の基調の一つとなるようにも思えてくる。

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