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《ネット以後》のテレビフォーマット

このテキストは2003年2月12日に書いたものです。
渡米前の状況や、問題意識を記すため、2006年1月に再掲します。
当時の考え方と今の考え方で、当然変わっているところもあるのですが、一種のベンチマークとして掲載することにしました。

当時と比べると、ネットの環境が、高速化(ブロードバンド化)、高度化(Web 2.0の動き)、によって、著しく変わっています。
当時は、GyaOもなければ、Googleも今ほどには注目を集めていなかったし。

この間の変化が、メディア・コミュニケーション・サービスの受けいられ方に与えた影響については、別稿で検討する予定です。


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Index 
1.《ネット以後》を大晦日に発見する
2.「テレビの土俵」の設定変更
3.《ネット以後》的テレビフォーマット
4.NHKとの相違点:<国民性>の構成方法
5.テレビ=都市-内-存在の「動員性」がカギとなる

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1.《ネット以後》を大晦日に発見する

《ネット以後》のテレビというと、まずはデジタルテレビが想起されるかもしれない。やれ、高画質・高音質のクオリティ、クイズで投票、云々、といったお決まりの性質である。しかし、ここでいうのは、そうしたものではない。

《ネット以後》とは、95年以降、私たちの生活に浸透したITガジェット全般 ―インターネット、ケータイ、デジカメ、といったデジタル機器群― が、私たちの生活の「環境」となった現代のことを指す。殊更にこうした機器の異質性を意識することなく日々の生活で必要に応じて使ってしまっている 感覚、また、知人・友人に限らず任意の他人も自分自身と同じように利用しているであろうと無意識のうちに想定してしまう感覚、こうした感覚が浸透した現代 のことを指している。

《ネット以後》の現在、長らく私たちの日常生活の中心的役割を果たして来たテレビがどう変わったのか、その考察がここでの主題である。このテレビの変容を端的に示すエピソードと昨年の大晦日に遭遇した。

大晦日は一年の最終日として一種祝祭性を帯びた<国民的>高揚感が漂う日である。元旦とともに、自然な振る舞いの中で最も日本的なものを確認する日 である。クリスマス翌日の12月26日以降、街もメディアも一転して半ば強迫的なまでに日本性の演出に照準を合わせる。テレビはこうした街の動きを報道し つつ、自らもその演出の一端を担うべく、年末年始の特番編成へとテンションを上げていく。その盛り上がりは、大晦日で一つの頂点を迎える。主役は長らく NHKの「紅白歌合戦」であった。長期的に視聴率が下落しているとはいえ、いまだに40%を超えるお化け番組である。この化け物に対抗すべく他局は、あの 手この手で番組編成をしていくのが常である。たとえば、TBSの格闘技ものなどは明らかに若年層をにらんだものである。

こうしたNHKとの戦いの中で、今回異彩を放った(と少なくとも私が感じた)のが、日本テレビのラーメン特集であった。「史上最大!全国民が選ぶ美 味しいラーメン屋さん列島最新ベスト99」―――午後6時半から11時過ぎまで、ほぼ紅白歌合戦とかぶる時間帯を、ただひたすら全国の「ラーメン紹介」で つないだこの番組に、冒頭記した《ネット以後》の情報環境に適合した「テレビフォーマット」が垣間見えたように思うのである。

この番組は、全国津々浦々から視聴者が支持する、99の「ご当地ラーメン」を紹介する。その紹介の仕方は、紹介者がタレントであるか、番組レポー ターであるか、で異なっていた。前者の場合、数人のタレントでいわゆる番組で通常用いられるカメラを用いて中継がなされる。一方、番組レポーターの方は、 いわゆるハンディカムで映像を取ながら、ナレーションも一人で行う。一店の紹介につき、前者で10数分程度、後者で4~5分といったところか。時折タレン トが登場して大々的に紹介しつつ、残りはハンディカム的映像で独白的につないでいく、といった感じだ。

さて、この番組に対しては、大きく二つの点で関心を持った。一つは、主に民放局との対比になるが、テレビの競争相手がテレビの外部になり始めた徴候に対して。今一つは、NHKとの間の「国民性」を捉える視点の違いに対して、である。


2. 「テレビの土俵」の設定変更

他の民放局においては、NHK紅白という「与党」に対して、「野党」を構成するような、支持基盤の比較的容易なテレビジャンルをあの手この手で構成 していた(例えば、アニメ、演歌、クイズ、プロレス、など)。真っ正面から対決するのではなく、棲み分けのロジックを重視したのである。これはこれで、 「勝負の土俵」がテレビ画面の奪い合いである限りにおいては正しい選択である。しかし、「ラーメン」の番組フォーマットには、冒頭記した、《ネット以後》 の情報環境を加味した上での「土俵の設定」そのものの変更があるように思えるのだ。

「ラーメン」番組は、タイトルに「国民」とあるように、与党に対して四つに組む姿勢をとりながら、他局(NHK+民放)からザッピングで流出入する 視聴者の瞬間フロー量を、平均的に一定量にとどめようとするような姿勢が見られる。いわば、気散じする、浮気がちな「都市無党派層」を取り込もうとする姿 勢にとてもよく似たものだ(実際、年明けに筆者が何人か知人に尋ねたところ、他局からの「係留点」として、この番組を視聴していた人は多かった)。つま り、コンテンツのセグメントとしてピンが立っているというよりは、とにかく、ある瞬間に視聴者の一瞥を捉え、その累積が視聴率を構成する、という選択であ る。

この番組が「土俵の設定」を変えているように見えるのは、こうした一瞥を捉える相手として、「さっきまでテレビを見ていなかった人」たちをも貪欲に 取り込もうとする意思がかいま見られるからだ。例えば、テレビ視聴中に突然掛かってくる携帯電話や、そのまま屋外に出かけてしまうという行動。あるいは、 そもそも屋外に出ている可能性。テレビ視聴の大票田である東京圏に住むメディア制作者が何となく抱いてしまうこの妄想は、凡庸な日常、規則的な日常におい ては、単なる思考実験にとどまるだろう。しかし、大晦日という、普通に考えても、屋内外の人の出入り、コミュニケーションの頻度が、それこそ祝祭的に高揚 すると想像される、特別な一日においては、こうした妄想の現実性を疑うのはかなり困難に思えるのだ。特に、メディア接触時における「動態感」は、都市がメ ディア/コミュニケーションの舞台として、過剰なまでに成立している<東京>のような都市部において顕著な動きであろう(そして、国民のマジョリティは大 なり小なり今や都市に住んでいる)。

この「視聴の出入りの激しさ」の予期/妄想に対する一つの回答が、「ラーメン」という主題の選択に関わっていたように思えるのである。言い換えれ ば、「テレビは常に一生懸命見られているとは限らない」という感覚への愚直な対応。以前であれば、テレビが積極的に「消される」状況は想定しにくかった が、テレビの<外側>に現に存在する、一瞥を奪ってしまう「誘惑の多さ」をカッコにくくることができなくなった―――大晦日「ラーメン」番組は、その漠然 とした気分の現れであったように思う。

いわば「敵はテレビの外にあり」という認識の前景化。この認識とともに、テレビの情報環境変化への生態学的適応を果たしているのが、日テレのように 思うのだ。このような動きが日テレから生じるのはよく理解できる。90年代を通じて一貫して視聴率の最大化に注力し、そのための番組手法を開発し続けてき た。さらに、デジタル化に対する多チャンネル、ブロードバンドによるオンデマンドサービスへの対処として、他局が「コンテンツ・プロバイダー」としてペイ 収入(有料放送、セルDVD、レンタルビデオ、映画化、など)に注力する中、「テレビはライブだ」という考えにこだわり、視聴率最大化、広告収入最大化を 図ってきた。こうした「今この瞬間の一瞥」を捉える姿勢の徹底が、ついに「一瞥の競合」として、テレビの外部にまで行き着いたように思えるのである。

こうしたテレビの変貌は、一方で、表面的には「ライブ映像の垂れ流し」的テレビ映像を増やし、ドラマや報道などに代表される、従来型のテレビ的制度 /様式から逸脱したような印象を与えてしまうが(事実、電波少年の初期の映像には一視聴者としては随分驚いた記憶がある)、他方、その適合の根拠がテレビ の存立基盤(視聴率、広告放送など)に根ざしている分、型にとらわれない「自由さ」も相まって、どれほど70年代~80年代に制度化されたテレビ番組から 遠く離れようとも、テレビの変貌としては一種の正統性を帯びているように思えるのである。形式としては、株主価値最大化経営のように、集団の成因の中で、 株価を最大化させるというシンプルな目標の共有さえできれば(そして、それに適合した結果さえ得られれば)事業形態はメタモルフォーゼ(変態)しても構わ ない、という発想に似ている。

ちなみに、コンテンツ・プロバイダーへの特化、という戦略は、広告収入+ペイ収入のトータルでの最大化という点では間違っていない。ただ、反復視聴への対 応という点では、ドラマ的な「作り込みの多い」番組への傾斜が多くなるだろう。このドラマのリピート志向は、いつまでも色あせない「無時間性」と相反する 「イマ・ココ性」の間でジレンマに陥りやすかったり、また、視聴率に比べれば「トータル」の結果が見えにくかったりする、という点で、テレビフォーマット 変貌の駆動力としては、いささか曖昧である。今しばらく経験値を積むための試行錯誤、時間が必要に思われる。


3. 《ネット以後》的テレビフォーマット

以上のように考えると、先述の「ラーメン」特集番組は、《ネット以後》の、「(潜在的なものも含む)全てのメディア/コミュニケーション環境が競合する」時代のフォーマットとしては、よくデザインされている。以下にその特徴をまとめてみる。


特徴1:データベース消費的、情報のユニット化

第一の特徴は、番組名に「最新ベスト99」とあるように、情報のユニットが4-5分程度で構成されており、ザッピングの途中でも参入退出が容易な構成と なっている点だ。各ユニットの間には出演者による過剰なコメントがない分、ドライに視聴が可能である。むしろ、肉声としての「批評」が挿入されていないこ とで、参入退出の行為がザッピングというより、ネットへの「アクセス」あるいは「ダウンロード」の行為に感覚的に近い。情報と視聴者の間の媒介性がよりダ イレクトなのである。

テレビ視聴を「ダウンロード」と捉える感覚は、近年、カウントダウン型の番組によく見られるものともいえる。しかし、「ラーメン」特集番組の目の付 け所の良さは、それら、個々の情報(オブジェクトレベルの情報)を束ねる、より上位の概念、メタ情報として「ラーメン」という融通無碍な解釈が可能な<マ トリクス(基体/母胎)>を採用したところにある(さらに、このマトリクスを国民性の醸成と結びつけたところが秀逸なのだが、それはNHKとの対比のパー トで後述する)。

番組を見ながら実感したが、よく言われるように、北海道と九州、関西と関東など、ところ変われば具体的なラーメンの内容は全く異なる。まず、蕎麦 (関東)やうどん(関西)と異なり、分布の地域的偏りが全く見られない。どの地域に行っても、必ず、そこのご当地<ラーメン>が存在する。しかし、その見 かけは恐ろしいくらい「異なる」。旭川ラーメンと博多ラーメンとでは、同じ麺類とは思えない。にもかかわらず、それらは、同じ「ラーメン」として認識され ている不可解さ ―ここまで書いて気付いたが、同様の国民食であるカレーについて『カレーライスと日本人』(講談社現代新書)を著した森枝卓士氏であれ ば、日本の近代化・都市化の過程と随伴して全国に普及していった模様に、文字通り<国民>の食として認知、周知されるメカニズムが内在していたことを説明 してくれるかもしれない。― この不可解さが逆に、視聴者に融通無碍な想起や解釈を可能とし、同時にまた一種の「異種」格闘技戦のように、「我がラーメ ンこそが真のラーメン」というようなコミットメントを惹起する力も擁しているといえるだろう。つまり、一種の「相互活動的(inter-active)」 な状況を生み出す力を擁しているのである。

このような構図は、東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)で紹介された「データベース型消費」の構図にすっぽり当てはまる。つまり、 背後に、ラーメンという、データベースの存立を支える「大きな非物語」があり、実際の消費は、個々のオブジェクトレベルのラーメンである、という点だ。お 店の数とお客の数だけ個別の「ラーメン」があるにも拘わらず、誰もが共有できる幻想として<ラーメン>が機能し続けるのである。


特徴2:テレビ外部のアクティビティとの潜在的接続

フォーマット上の第二の特徴は、テレビ外部のアクティビティとの接続性が予め想定されている点である。これは、「食」ジャンルという、どこまでいっても情 報としては「半完成品」にとどまる分野の性質を逆手に取ったものともいえる。「食」のエンタテインメント化は90年代に浸透した出来事であるが、初期の 「食」とは、いわば「高級店」のものであった。端的にいって、高級食の消費とは一種の記号消費であった。つまり、実際にそうした料理を味覚を通じて食する 経験をできるのは限られた人々である、という前提に基づきながら、多数の視聴者は一種冷めた目で番組を見ていた。これがラーメンになると、俄然日常的に経 験可能な対象となる。後日紹介されたラーメンを実際に食することにより、「半完成品」であったラーメン情報を、単なる記号ではなく生きた経験として回収 し、視聴体験を一つの出来事として完成させることになる。こうして完結した一連の体験は、番組の基体としての「ラーメン談義」を再生産していく。つまり、 ケータイ型のメディア/コミュニケーションが環境として実現した「都市における機動性」と行為面でリンクすることにより、テレビの内外という境界が消失し 地続きになっていくのである。


特徴3:私的映像の滑り込みとその異化作用

第三の特徴は、ハンディカムが醸し出す「私的映像」の滑り込みだ。ハンディカム登場後、多くの日本人が自らの手で映像を取り、再生して見ている、という行 為が一定の現実性を帯びるようになった。この「手ぶれ」「画質の悪い画像」という画像の経験が反転して、逆に、ハンディカムの映像を「個人的映像」として 認知する身体をつくりあげている。このカメラ・フレームの中だと、違和感なく一般人の登場を受け容れることができる。「私的映像」の流入は、かつてテレビ が映画から引き継いだ「銀幕性」の終焉に止めを刺すことになるが、それでも、テレビは新たなメディア・テクノロジーを飼いならすことで、引き続きメディア の中心として君臨し続けていくであろう。


4.NHKとの相違点:<国民性>の構成方法

以上見たような「ラーメン」特集のもつ、民放内でのテレビフォーマットの突出性は、大晦日という特殊状況においては、国民性、国民の動員性、という 社会全域に関わる視点ともリンクしてしまう。そして、この点こそ、NHK紅白との対比上、興味を引かれた点である。つまり、「ラーメン」番組の試みた、 (セグメント化された視聴者ではなく)とにかく「マスとしての視聴者=国民」の一瞥を捉えようという身振りの中に、現代日本における「国民」を認識し構成 するフレームが変容したように感じたからである。

予め論点を示すと、「理念による国民的一体感の現前的醸成(NHK)」と、「動員性を通じた国民的一体感の事後的構築(日本テレビ)」という、国民性を語る上での方法論上の違いが見られたように思う。そして、どちらが《ネット以後》によりリアルであるかというと、紅白よりも「ラーメン」ではないか、 というのが、筆者の考えである。

理念としての「全国で均質な国民性」および「均質な空間性」を想定しているNHKは、紅白歌合戦において、従来「国民性」を作り上げてきた「国民 歌」を担い手である歌手が渋谷NHKホールに一堂に会しつつ提供することで、<国民性>を引き続き「理念」として体現しようとしていた。これに対し、日本テレビは、テレビを巡る経済的現実に忠実(=視聴率最大化)になろうとした結果、図らずもそうした「国民の均質性」とは対岸にあるようなフレームを呈して しまったことになる。つまり、同床異夢のフレームに基づく「動員性」とそれらを案配よく配置する「統治性」のブレンド、とでもいうべきフレームである。日本における「公共性」の構成に関して、NHKと日テレで異なる立ち位置を占めてしまった、といえる。

こうした背景には、東京と非東京(=東京以外の地方全般)の間のアンバランスな空間性がある。経済の東京への一極集中と呼応した情報機関の一極集中 により、メディアの中では、地方は東京に対するスペクタクルの供給地としての役割を果たしていること、そして、メディアの中で語られる多様性とは、実質的 に東京内で観測され分節された多様性を意味していること、こうした考え方が背景にある。

これらの理解のために、まずは、(大晦日のような祝祭性をもたない)凡庸な日常の中にどのようににして日本のテレビがおかれているか、触れてみる。 既に様々な差異(地域、世代、等)が存在する日本においては、個人視聴率の導入以降、その差異に適応した形でテレビ自体が「セグメントメディア」として機 能している。雑誌のように、オーディエンスを特定の年代に絞った形で、個々の番組が制作されている。このような状況下では、一日の番組編成全体で「公共空 間」の実現に努めているのが実態であり、制作上、テレビが考慮するメディア/コミュニケーション環境は、最大消費市場である<東京>のそれが想定されてい る(この文脈でいう<東京>とは、消費市場としてはキー局の放送エリアとなっている、首都圏ないし関東一円を意味する)。

テレビが最適化すべき市場である<東京>には、都市化の徹底により、他のマスメディアばかりではなく、様々なメディア/コミュニケーション環境が整 備されている(多数の、大型CDストア、巨大レンタルビデオ店、大型書店、映画館、ゲームセンターなどの供給拠点のみならず、ケータイ普及の高さなどが指 摘できる)。過剰なまでのメディア/コミュニケーション環境を競争の前提として、テレビは番組編成に取り組まなければならない。したがって、民放は<東 京>の視聴者に最適化した番組編成を行うことになる。このようにして、<東京>的現実観のフレームによりテレビ内部の現実を構成していく。

さらに、メディア的スペクタクルの視点は、東京在住者にとって「生活圏」である空間までも、執拗なまでに「来訪すべき街」として分節していく。その分節は 際限なく東京の人々を細分化していく。自らも東京に住まう、<東京>-内-存在である、メディア製作者の深層にあるのは、こうした<東京>の無限微分可能 性である。この統一性のなさを目の当たりにしながら、それでも<国民>として都市生活者を動員するとしたら、「ラーメン」のような大衆食、個々人にとって 融通無碍にイメージをダウンロードできる対象を取り上げるしかないのではないか。日テレの大晦日ラーメン特集には、そうした都市生活者を束ねることの苦悩 が見て取れるのだ。

一方のNHKは、おそらくは上述の都市的現実には気づきながらも、一年を締めくくる国民の祭典としての紅白歌合戦において、都市も地方も関係なく、 老若男女を問わず、一人一人に等しく一票がある国民を想定し、かつ、国民による共同体性を規範的に確認しなければならない責務がある。しかし、歌の合間に 挿入される歌手たちの会話―――普段なら同じ番組に出演することのほとんどない歌手たちが交わすせりふの居心地の悪さ。かえって、この間(ま)の悪さが、 国民的一体感の高揚の原理的困難さを浮き彫りにしてはいないだろうか。政治的視点から<理念としての日本>を演出しようとしたNHKと、経済的視点から <都市国家・東京とその後背地からなる日本>を描こうとした日テレ。全国のご当地ラーメンを紹介しながら、首尾よく地方の映像をも全国に流し、図らずも 「行く年・来る年」まで実現してしまった「ラーメン特集」に、これからのテレビフォーマットのあり方として軍配をあげたくなるのだ。


5.テレビ=都市-内-存在の「動員性」がカギとなる

メディア的誘惑が屋内外を問わず充満している<東京>に照準を当て、テレビの外部とも積極的に接続しながら、都市生活者の一瞥をイベント的動員性の 中で確保していく―――これが《ネット以後》の遊動性のある都市空間を前提にした、テレビフォーマットの鍵であろう。こうした動きはお台場にフジテレビが 移転して以来顕著になってきたことだが、日テレは汐留新社屋の移転に当たって、自らのご当地ラーメンとなる「汐留ラーメン」開発プロセスを、番組として都 市イベント化している。ここにおいて、テレビの内外の区別は完全に取り払われ、汐留ラーメン開発の時間の流れを視聴者が同時体験しながら、開発の終了=番 組の終了=汐留移転の完了、という形で、社屋移転が都市的出来事に組みかえられていくのである。テレビの外部にこそテレビの敵がいる。《ネット以後》の時 代には、動員性こそがテレビ的=都市的現実を構築する。それが、テレビ=都市-内-存在である私たちのリアリティなのである。

こうしたテレビの変化を加速させる動きがテレビの外側でも始まっている。「テレビの都市的動員性への接近」の傍らで、Yahoo! BBに代表されるADSL事業者が、街頭プロモーションを通じて、さながら「高度成長」期の日本の再来のように急速に加入者数を伸ばし、テレビ、ネット接 続、オンデマンドのハイブリッドサービスを実現しつつある。90年代を通じて実現されてきた新自由主義的・競争主義的な通信規制緩和は、なし崩し的に<東京>をサービス・インキュベーション(孵化)の場として機能強化してきた。ここでもまた、都市のメディア的現実に生態学的に適合したサービスが投入されよ うとしている。<東京>内の人口移動の流量に最適化しターミナル駅周辺に集積したパッケージコンテンツ系サービス(レンタル+セル)が蓄積した動員に関す る経験値が、BB的ハイブリッドサービスに流入しようとしている。さらに、BBは無線LANと接続することで、私的空間(家庭)や公共空間(オフィス、カ フェなど)を問わず、同一のメディア/コミュニケーション体験を提供できる。携帯電話を通じて取り払われてきた屋内外の壁がさらに低くなっていき、そもそ も屋内/屋外という区別そのものが生活空間としては失効していくことだろう。こうして「都市的動員性のテレビへの接近」と、「テレビの都市的動員性への接近」の二つのベクトルが交差するところに、これから10年先の《ネット以後》のテレビがメタモルフォーゼ(変態)する先が見えるに違いない。

author: junichi ikeda

CONCEPT

FERMATは、コミュニケーションという社会の基底を与える領域の変化の徴候に照準しながら、未来のビジョンを描くことで、新たな何か=“X”、の誕生を促します。