「テレビはどうなるのか?」

4月29日の夜中にやっていた、田原総一朗の朝まで生テレビ。今回は、竹中懇座長の松原聡が出演して、テレビの今後のことを話すというので見たのだが・・・・。

無駄骨だった。

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タブーに挑戦する、と冒頭意気込んだ割には、結局、規範的なテレビ像と、テレビジャーナリズム像を確認したにとどまった。期待外れ、というか、期待した方がバカだった、と明け方眠りに就く頃に大反省。

「テレビの構成はあまりにもリテラシーに制約がある(あるいは、端的に「低い」)、だから、言いたいことはほとんど言えない。原理的に曲解しか生じない」というようなことを、東浩紀がどこかで言っていたのだが、それを裏付けるような内容だった。

とにかく田原総一朗の所作そのものが、あまりに紋切り型なのだ。

テレビ的=物事の単純化、というのが、テレビの中では当たり前の空気として、不問になっている。そうした凡庸な所作は、新聞があればこそ成り立っていたはず。けれども、パネリストの間での暗黙の合意は「新聞はもうだめだ(ラジオ、雑誌なんてとうの昔にもうだめだ)」というものだった。であれば、「わかりやすくする」という解釈のベクトルしか持たない「テレビの語り方」そのものを問題にしないとどうしようもない。少なくとも、「テレビジャーナリズム」が大事だ、というなら。

番組途中の観客からの質問で、「ネットジャーナリズムって言葉はあるけど、テレビジャーナリズムって聞かない」という発言があった。ひとしきりジャーナリズムはどうかって話をしてきた中で、こんな質問が出てしまうこと自体、視聴者から見れば、何を言おうがテレビの語りは端的に娯楽、スペクタクルにしか見えないことを象徴した発言だろう。もっとも、自称テレビジャーナリストの田原総一朗の面前で、「テレビジャーナリズムってあるんですか?」と問う青年も、ある意味天然ですごいのだけど。

いずれにしても、一人ずつ順番に話さなければならないという、リニアな語りの構図が、端的に苦しい。情報が薄い上に平面的で、アテンションを持ち続けるのが困難。久しぶりに見て痛感した。

朝まで生テレビは20周年に入ったという。80年代後半には僕自身、比較的まめに見ていたことはあらかじめ記しておくけど、その上でどうしても今のテレビの構成は平板な印象しかもてない。もちろん、自分自身が年をとった(だから、多少は世の中がわかるようになった)ことは影響していると思うけど、それ以上に、ネットを通じての情報摂取機会の拡大の中で、上記のようなだらだらした、リニアなテレビの作り自体がじれったくて仕方がない。そんな自分がいるのもまた確かだ。

つまり、昔は朝生で「しか」知れなかったことが、いまは「検索」すればそれですんでしまうわけだ。急いで付け加えなければならないのは、検索した結果、ネットの中で必ずしも完結してしまうわけではなく、検索後の所作としては、どこかに行ってみようとか、書籍を手に取ってみよう、とか、も含む。だから、ネットの中で完結するのはどうか、というパネリストの疑問は不適当だろう。もっとも、ジャーナリスト自身が、ネット検索だけで記事やネタを作るとしたら、それは、職業倫理上大問題だ、としてくれないことには、困ってしまうけど。

最後に気になったのが、パネリストが高齢組によっていること。50代前後って、テレビビジネス的に行けば、F3/M3といわれる高齢者層。で、関東圏についていえば、人口構成でいけばこのF3/M3というのが、大体半分くらいの人口を占める。だから、単純に視聴率を取りましょう、ということになれば、大なり小なりこちら側にあわせないとレートがとれない、というのが実体のはず。

この事態を、パネリストや田原総一朗がどこまで自覚しているのかは疑問だった。

総じて、話に筋が通っていた順でいくと、池田信夫、デイブ・スペクター、世耕弘成、の順か。彼らは同時に、相手の話、場の流れをうまく掬い取りながら、話していた分、わかりやすい。というか、世耕弘成のような人が増えるとマスメディアの人々は困るだろうな。端的に不勉強さが目立ってしまう。これは、新しい発見だった。

パネリストの中には、日テレのT部長も出演していた。彼自身の言葉を借りれば、視聴率1%≒60万人、で、通常、1%台の番組なんて、テレビジネス的にはNG。プライムなんて絶対無理。けれども、一人100円払ってくれたら、それで1億円の収入。(これでペイするかどうかは、制作費とのかねあいだから、ここでは不問にしておく。番組ストックがあるかどうか、あるいは、地上波番組のフッテージを再利用できるかどうか、でその見かけ上のコストは全然変わってくるはず)。

で、さっきの人口構成の視点からすれば、プライムは年寄りにもアピールする内容をつくらなきゃならない。そのため、ベタに年寄りの好みに合わせるというのもある。あるいは、(これは日本的な現象だけど)、当初は若者向け商品だったものが意外と年齢高めに支持されることから、広告や番組は「若さ」を強調することがいいといわれがちで、結果的に一見若者向けのものが出てくる可能性も残る。けれども、その「若さ」は、いわば、年寄りから見たときの、ノスタルジーとしての「若さ」、若さへの憧憬、とも言える内容になる。例えば、雑誌の『LEON』や、今更ながらの『あぶない刑事』なんて、エイティーズ(80年代に20代-30代だった、今の50前後の世代)向けのリバイバルにしか過ぎないはず。「若さ」はそうしたノスタルジーとして表象されることになる。

裏返せば、リアルタイムの若者の「リアル」なんて掬い上げられる機会は、テレビの中には見いだせなくなるのではないか。こんな疑問が生じてしまう。

でも、それって、テレビの高齢化、ってことを端的に意味するんじゃないか。で、それって、20年前の新聞と同じなんじゃない、とつっこみをいれたくなる。そうした動きに、「制作者の直感」としてかぎ分けてしまったからこそ、T部長は第2日テレにつっこむようになったのだと思う。つまり、本当に若者向けにおもしろいことを作ってみたいという制作者の性に応えるには、若者の母数は、テレビビジネス的に小さくなりすぎた。彼らを掬い取るには、ネット的な方法論を使うしかない。昔、アニメのコアオタクにOVAという形でビデオ経由で到達したように。裏返すと、テレビのトップ制作者自身が、図らずもテレビの限界をかぎ分けてしまった。それは、「テレビはつまらなくなった」ことを内部から指し示す徴候として解釈できるだろう。

ということで。

テレビはどうなるのか?という問いを発している場合ではないのでは?

author: junichi ikeda