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「リバタリアンこそ、ポストモダンの今日、優秀なマーケターになる」 - Chris Andersonからの発想

連日、Chris Andersonに関するエントリーとなってしまうが、NYTでChris Andersonが新著“FREE”についてインタビューを受けている。

QUESTIONS FOR CHRIS ANDERSON
【New York Times Magazine: July 19, 2009】

なるほど、さもありなん、と思ったのは、最後の方で、Andersonがリバタリアンという自己規定を表明しているところ。リバタリアンといっても、小文字の“l”の方といっているから、政党支持者というのではなくて、もっと素朴に、リバタリアン的な傾向、つまり、自由を愛好する、束縛を嫌う、というタイプの人間だということだろう(どうやらその一因は、母の曾祖父が無政府主義者のJoe Labadieだったからのようだが)。

“FREE”という言葉は、英語では、「自由(freedom)」の意味と「無料(free of charge)」の意味がある。Andersonは先日、Bloombergのニュース番組に出演したときに、新著“FREE”は、後者の「無料」の方のFreeだと説明していたのだが、NYTのインタビューでは“Free people, free markets.”と言っているあたり、「自由」の方にも相当コミットしているわけだ。いや、むしろ、自覚的に、freeの意味を相手や文脈に応じて、「自由」と「無料」とで使い分けているのだろう。

そうすると、Andersonは、Naomi KleinやGeorge Clooneyのようなactivist(活動家)としての顔も持つeditor(編集者)、しかも、上のインタビューによれば両親がジャーナリストというのだからwriting ability も受け継いだeditorということだ。

これは人物として面白い。

Advocate(何らかの考えに基づいて主張を行い人々に働きかける人)の要素も持っているわけだから。

そして、彼のこういう傾向は、“FREE”の読み方に新しい視座を与えてくれる。“FREE”は、この本を読んでもらうことで、読者に行動を起こすことを目的に書かれているもの、という視座だ。

裏返すと、この本は、どこかの大学の教授が学説として書いた、「真理」が書かれた本でなく、 この本を読むことで“FREE”という行動を読者が実践してみるための指南書として書かれた本だということ。

*

そう考えると、Malcomm GradwellがNew Yorkerに掲載した“FREE”の書評は、かなり的外れな批評をしてしまったことになる。

Priced to Sell
【New Yorker: July 6, 2009】

Gladwellは、この書評の中で、再三再四、“FREE”の中で引用されている箴言のようなもの、たとえば、“Information wants to be free.”などの言葉が、あたかも“Law(自然界の掟としての法則・法)”や“philosophical principle(哲学原理)”のように祭り上げられて記述されていることにツッコミを入れているのだが、これは、Gladwellが“FREE”を「真理」の本として読もうとしたが故に引っかかってしまったことの現れだと思う。

Gladwellの本は、確かに、“Tipping Point”にしても“Outliners”にしても、ある分野で科学的真理と見なされる法則が他の分野にも当てはめられることを説明したり、仮説と思しき考え方を先に示してそれを例証するために現実世界の事実を説明したり、という記述スタイルを取っていて、本全体としては「科学っていろいろなことが説明できて凄いよね!」というものになっている。その意味で、Gladwellは優秀なサイエンス・ライターだ。

その科学的記述の視点から判断すると、Andersonの書き方はうさんくさいところが多い、と感じたからか、上の書評にあるように、逐一、Andersonのロジックの破綻する場面を暴いてみせている。

極めつけは、上の書評の最後の一文。

そこにはこうある:

「唯一鉄則といえるものは、(“FREE”のような)一冊の本を書くまでもなく明々白々なことだが、デジタル時代は、モノが作られたり売られたりする方法を(とんでもないくらいなほどに)変えてしまうので、鉄則などと呼べる法則は一つもないのだ。」

これは否定のしようがないことだけど、あまりに正しすぎて、「だから、どうなのさ?」と逆に突っ込まないではいられない。そして、こんなことを言われたら、少なくともビジネスの現場や、政策立案の現場や、とにかく何か現実にあたろうとしている人々からすると、全く実践的な価値をもつようには見えない。

形は異なるけど、これは、ケインズが「長期的に見れば我々はみんな死んでしまう」といって従来の経済学を批判したのに近いのではないか。論理的には正しくても、それが現実世界の時間スケールにあわなければ、実生活の中では意味を持たないわけで。

(少し意地悪く見れば、科学的な言説を引用しながら興味深い本を書くという点では、多分、普通の読者からすれば、AndersonもGladwellも同じようなカテゴリーにあって、そうした消費のされ方を、つまり、Andersonと同類視されるのをGladwellが拒んだために、これほど頑なな批判になったのではないだろうか。Andersonと違って僕の方は科学的な方法論についてもっと忠実だよ、という具合に。つまり、期せずして、New Yorkerでの書評は、Gladwellがどういう書き手か理解するのに役立つものとなっているわけだ)。

*

だから、“FREE”は、行動を促す本、いい意味で「マーケティングの本」ととらえるべき。

ここでいう「マーケティングの本」とは、行動を促す本のことで、(上のGladwellが志向していると思われる)真理が書かれている本ではない。真理が書かれていない、というのは、要するに、嘘も方便、口八丁手八丁で、とにかく、人をその気にさせることを重視している本だ、ということ。advocateすることが目的の本だ(ちょっと前の宮台真司だったら「人を見て法を説け」と言っていたことに近いと思う)。

これは、前書の“Long Tail”の時にも感じたことで、つまりは、良くできたマーケティングの本ということ。(こう書いたら著者である東浩紀はもしかしたら嫌がるかもしれないけれど)「データベース型消費」や「ゲーム的リアリズム」などと同じようなニュアンスを「ロングテール」あるいは「フリー」というアイデアにも感じた、といえば少しは伝わるだろうか。もっとも、今書いた傍で思ったが、東の方が遙かにオリジナリティのある造語であるが。

つまり、経験的にある程度正しいと思われるような素材を、数字や史実といった事実と実例を通じて一つのストーリー=仮説にまで練り上げ、そのストーリーのplausibility(もっともらしさ)をいくつかの学説を引用することで補強していく、という記述様式。

ところで、誤解を招かないうちにいっておくと、ここで「マーケティングの本」というとき、否定的なニュアンスは全くない。むしろ、実践の指南書としてポジティブに捉えている(なぜ、こういうことを書くのかというと、科学畑だけでなく、芸術畑、ときに人文畑でも、「マーケティング」を必要悪のように捉えている人がいるため)。

*

そして、“FREE”のようによくできたマーケティングの本が、冒頭のNYTのインタビューであるように、リバタリアンを自称するAndersonの手によって書かれたことは、とても興味深いことだと感じている。

というのも、こんなふうに捉えられるように思うから。

つまり、リバタリアンが、自由の確保のため、自由を政府や国家から自由を死守するために、「市場の有用性」、「市場の有効性」を示そうと、しゃかりきになって取り組み、頭をフル回転させると、その結果、最もアグレッシブな市場交換推進者、つまりは、最も有能なマーケターになってしまうのではないか、ということ。

市場の有用性を追求していく過程で、市場のほころびが出てくるところ、市場が破綻するところ、が顕わになり、それをうまく工面して機能させるために、さらに知恵を絞って、それなりの解決策、対応策をひねり出してしまうわけだ。

だから、若干皮肉に見えるのは、AndersonがFREEの実例として引いているものの一つに中国の音楽市場(このことは昨日のエントリーでも触れた)を取り上げているところ。海賊版の横行によって不可避的に生じてしまった事実上の「音楽ダウンロード無料」市場において、音楽事業を新たに経済的に回す仕組みは、楽曲の直接販売ではなく、企業によるスポンサーシップに求めている。Communismの社会体制の下で所有権概念が曖昧なところで、スポンサーシップという間接的な対価徴収方法に注目するに至ってしまうくだりは、自由をとことん追求していくとそのほころびの方が目について、大なり小なりcommunismやsocialism的なものを呼び込んでしまうように見えてしまう。

このあたりは、最近は一時ほど邦訳を見かけなくなったスラヴォイ・ジジェクが、2008年の著書“Violence”中で、シリコンバレーのインターネットやソフトウェア系の企業の経営者(Bill GatesやGoogleのLarry Page、Sergey Brinなど)、あるいは、George Sorosや、NYTのコラムニストのThomas Freedmanらを取り上げて、“liberal communist”と呼んでいることと符合していることなのかもしれない。

もっとも、Andersonのひいひい爺さんにあたるJoe Labadie(1850年生まれ)も、wikipediaによれば、anarchistといいながら、デトロイトのSocialist Labor Partyに参加していたようだから、自由の追求(リバタリアン的傾向)と社会全体の救済(socialist的傾向)はある段階で共存可能になるのかもしれない。むしろ、その結びつきが固定されて、一つの様式として結晶化したのが、アメリカでいう“liberal”なのかもしれない。そうすると、オバマノミクスの中心にいるCass Sunsteinのいう“libertarian paternalism”というのも、第一印象ほどには不思議な言葉の結合ではないのかもしれない。

*

以上をまとめると、

日々市場で商取引が行われることを促すことに精を出す人物を「マーケター」とするならば、

また、Gladwellがいう、デジタル技術がもたらす「何の鉄則もない時代」を、「ポストモダンの時代」とさしあたって読み替えるならば(しかし、この読替はそれほど無茶ではないと思う)、


「リバタリアンこそが、ポストモダンの今日では、優秀なマーケターになる」


というのが、上の議論を経て、今回たどり着いた私なりの仮説。

もちろん、リバタリアンであることは、優秀なマーケターであることの必要十分条件にはならないが、それでも、近道になるのではないかと思う。

というのは、Gladwellのいう「何の鉄則もない時代」は、何かに一生懸命取り込むことが空転する可能性があることを予め知ってしまう時代だと思うので、「市場はずいぶん頼りになるぞ」と思える人こそが、最後まで頭を使い切ることができるように思うから。やり終えてみて初めてその意義がわかることも多いから。

もっとも、マーケターになってどうするのさ、という疑問は当然出てくる疑問で、それに応える準備はまだできていない、としかいえないのだけれど。

*

いずれにしても、Chris Andersonの“FREE”は、前作の“Long Tail”と同様、インターネットが普及した時代における、商品交換の適切な方法≒marketing、を考案する上でヒントになる部分は多い。「マーケティングの本」としてきちんと読むのがいいと思う。

これは私のバックグランドのせいでそう思うのかもしれないが、“Long Tail”が従来の物流・流通が見逃していた(見逃さざるを得なかったという方が適切)小さな商取引のもつ可能性を掬い上げ、「販売」の可能性を広げたのに対して、“FREE”は、情報財が対象であり、次代の音楽ビジネスでスポンサーシップが出てきたように、従来であれば「広告」が引き受けてきた領域について、今後のありようを考えてみるのに適しているように思う。

最後に、老婆心ながら繰り返しておくと、“FREE”という本は、真理や理論について書かれた本ではない。だから、ここに書かれたことを鵜呑みにすることは避けるべきで、むしろ、それぞれの人が抱えた現場に応用することで、適用限界を確認していくのが正しい読み方になるだろう。

その意味で、“FREE”は、玉石混淆の、実践指南書、と捉えておくのが適切だと思う。

******


補足 1:

Gladwellに少し冷たいような書き方になったので、彼の擁護も少しばかり。

科学的学説を意図的にadvocacyに援用することに対しては、学者の側からはやはり厳しい意見がある。

Andersonは“FREE”の謝辞(acknowledgements)の中で、“FREE”の論を作る上で参考にした人物として、George Gilder、Hal Varian、そして、Kevin Kelly、の三氏を挙げている。

Gilderは『富と貧困』『マイクロコズム』などを著して90年代初頭に「IT革命」の気分を用意した人。当時は日本にもよく講演に来ていた。Varianは元々はミクロ経済学の大家だが、情報経済学の要諦をまとめた“Information Rules”はITバブルの時のビジネスモデル構築のアンチョコとして頻繁に利用された。UCバークレーの教授で、今はGoogleのエコノミストでもある。

そして、Kevin Kellyだが、この人は、アメリカ西海岸のカウンターカルチャーを先導した、Whole Earth Reviewのグループの重鎮の一人。WIREDの編集委員も務めていた。著書も多数あって、たとえば邦訳では『「複雑系」を越えて』がある。

しかし、この「複雑系」の分野を真面目に探究している学者からすると、advocacyのために学説や概念が利用されることは決して気持ちのいいことではないようで、たとえば、先日出版された『非線形な世界』の最終章で、著者の大野克嗣は、複雑系の言説が、「自己組織化」や「創発」を強調することで、アメリカにおける新自由主義(=デモクラットの政治言説)や新保守主義(=GOPの政治言説)のお先棒を担ぐようなところがあったことを指摘している。

そして、この複雑系の言説を政治的言説に接続した張本人の一人がWIREDであり、その流れをつくったのがKevin Kellyらであった。93年から96年ぐらいのWIREDを見た覚えがある人なら、George Gilder、Newt Gingrich(アメリカの保守の筆頭の一人)とBill Gatesらが同じ紙面に載っている場面を見かけたと思うし、「創発」がビジネス・キーワードであったことを記憶している人も多いと思う。

そうした、いわば「複雑系言説バブル」という祝祭的状況に対して、大野のようなその道の学者は専門家としての禁欲的態度を貫こうということなのだと思う。

だから、上で批判してしまったけれど、理論の重要性をきちんと守ろうとする態度、そして、わからないことは語らない態度、あるいは、未解決なことについてはそのことをきちんと語ろうとする態度を、Gladwellが愚直に取っていることは理解しておくべきだと思う(そして、こういう態度があるから、欧米では“Nature”や“Scientific American”のような科学ジャーナリズムがジャンルとして生き残っているのだと思っている)。

*******

補足 2:

上で中途半端に東浩紀に言及してしまったので、こちらも補足を。

というのも、今回、Andersonを、いわば「リバタリアン・デジタル・マーケター」として捉えたのは、以前から、東浩紀という人をそのような人物と感じていたからで、だから、順番としては、Andersonの本を読みながら、何となくこの人、東浩紀と似ているなぁ、という印象をもったのが今回のエントリーの発端だったので。

東浩紀については、80年代であれば広告会社(電通とか博報堂あたり)が行っていたことを90年代後半からゼロ年代にかけて行った人だと思っている。

こんなふうにとらえていた。

「データベース型消費」にしても「ゲーム型リアリズム」にしても、一昔前=80年代であれば、広告会社のマーケが絞り出していたような標語(コンセプト)。90年代に入って、バブル経済が弾けたり、高齢化社会のカウントダウンが現実味を帯びたりで、標語(コンセプト)だけではなかなかモノが売れなくなり、広告会社からはなかなか標語(コンセプト)を言い出せなくなった時代に、つまりは90年代後半からゼロ年代にかけて、言い切ったのが東浩紀。

正確に言うと、90年代後半から言葉だけではモノが売れなくなったのだけど、「時代を指し示す言葉」を欲する「気分」は雑誌編集者を中心にメディア関係者の間から抜けなかったので、そうした標語的言葉を流通させる回路は、引き続き雑誌を中心に残っていた(「トリセツ」や「チョイ悪」のような言葉が浮上したのも、80年代的気分が編集者界隈にはまだ残っていたから)。

Window 95が日本に上陸した95年以降、PCやネットが普及するにつれて、一億マーケターの時代、とか言われて誰もがパワポでプレゼン資料を作るようになり、広告会社的プレゼンノウハウは一挙に社会に流出することになるのだが、その一方で、モノが徐々に売れなくなっていたため、広告会社周辺では「標語(コンセプト)づくり」に対して冷ややかな雰囲気があった。

(コピーライターというと糸井重里でイメージが固定されるように「コピー」でモノが売れる時代は、90年代前半で終わっていたと思う。広告業界でいえば「クリエイティブ・ディレクター」というように、クリエィティブの現場の「総監督」の固有名に注目が集まるようになったのが90年代後半。「総監督」というように、テレビCMを中心にした広告表現全部が重要だ、ということになり、さらに、ゼロ年代に入ってからは、ネットを援用した「動員」や「お騒がせ」の比重が高まった。いずれにせよ、「コトバ一発勝負!」は、広告の世界ではトーンダウンしている)。

このように、時代やマーケティングを総括的に表現する「標語(コンセプト)」に対して、需要と供給のアンバランスな状態にあるところを(本人が企図したかどうかによらず)ピッタリ衝いてしまったのが、東浩紀的な、アカデミックからのマーケティング参入組の言説だった。もちろん、東は先鞭をつけたという点で別格で特権的だったわけだが。もっとも、広告やマーケティング的のようなものとの連関は、東本人は否定する、もしくは、彼が直接擁護したゲームやラノベを中心とした文化領域に限ると、限定条件をつけてくるのかもしれないけれど。

東がデビューしたての頃、しばしば、デリダとエヴァンゲリオンを同列に等距離で扱う姿勢にとまどう人たちがマスコミを中心に確かに存在したのだが、そうした「異種交配」は広告会社のマーケやクリでは日常的に行われていた(そうした「異種交配」の方法自体を、大塚英志や上野千鶴子が電通に教えたんだ、ということもあるかもしれないが、実際の現場では、方法の起源や来歴など気にせずに作業はどんどん進んでいく。大事なのはプレゼンに勝てるかどうかだから)。

というわけで、東浩紀という人物は非常に優秀なマーケターだ、というのが私が持っていたイメージ(Anderson同様、非常に優秀な編集者であることはいうまでもない)。

あと、もうひとつ、リバタリアン、という条件があるが、これは、東が北田暁大との対談を本にした『東京から考える』の中で、北田がジョン・ロールズ支持、東がリチャード・ローティ支持を出しているところで最終的には納得したのだが、それ以前でも、東がアニメやマンガやゲームやラノベのような、市場的には十分受け入れられているにもかかわらず、言説的には一段低く見られているものを擁護し、あまつさえ、むしろ、そちらにこそ可能性があることを主張してきたあたりに、「もっと自由で多様であってもいいじゃないか」という考えが既に行動として示されていたと捉えていた。

もちろん、ここでリバタリアンというのは、主義者としてではなく、そうした心性や傾向をもつものとして、ぐらいの意味。くりかえしになるが、念のため。

そして、そうした「自由さや多様性の擁護」というコアとなる想い(情熱?)があったがゆえに、市場交換が恒常的に行われるメカニズムや市場交換が円滑に進めるための極意などを、さながらマーケターのごとく東はつまびらかにできたのだと想う。

そういう意味では、今日よきマーケターであるためには、リバタリアンである前に、まずもってadvocateであることが大事なのかもしれない。「好きこそものの上手なれ」とはよくいったものだ。

そして、標語(コンセプト)は、時に嘘から出た誠のごとく、人口に膾炙すれば、それ相応に世の中を動かしてしまうのも事実。「データベース型消費」は、当初リミックスが先行していた音楽業界の方が受けが良かったようだが、今日では、それこそユニクロのウェブサイトのようにコモディティ化した商品の「パラメータ化された商品選択」でも見られるし、「ゲーム的リアリズム」もそう名づけることで、「偶有性(contingency)や「可能世界」のような言葉が、ログやGPSの瞬時参照なども含めてマーケティングを考える上でもリアリティを持っていることになる。もちろん、こうした動きは、いい意味で最初の言葉が持っていた意味の「誤読」の連鎖によるものだが、それでも、最初の一滴は波紋を起こすためにはどうしても必要になる。

ちなみに、広告会社がこうした言葉づくりに踏み切れなかったのは、広告会社は構造上、クライアントの意向にそって動くことが要請されるので、決して自らの意思で進んで何かのadvocateにはなれないから。ポジションを固定することはできない。どこまでいっても「応援」「支援」にとどまるのが、広告会社(に限らず一般的に代理業といわれるもの)の本質だから。

author: junichi ikeda

CONCEPT

FERMATは、コミュニケーションという社会の基底を与える領域の変化の徴候に照準しながら、未来のビジョンを描くことで、新たな何か=“X”、の誕生を促します。