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名和晃平@HERMES' Le Forum

銀座のHERMES(エルメス)8階のギャラリー(“Le Forum”)で開催されている名和晃平展を見てきた。

L_B_S: Kohei Nawa (Le Forumでの紹介はここ

*

正確には、薦められて見に行ったのだが、予想を越えて、興味深い展示だった。

展覧会は9月23日まで開催されているので、実際に足を運んで自分の目で見てもらう方がいいのだが、以下は、私が惹かれた点について記しておく。

(ぜひ、実際に作品を見に出かけてみてください。)

*

名和晃平の作品は、普通の美術の分類では「彫刻」に位置づけられるのだが(これは会場配布のパンフレットの記述にあったのでさしあたってはそのような位置づけでいいのだと思う)、実際に作品を目にすると、それは、通常イメージする「彫刻」とは随分と異なる。

今回の展示は、名和自身の言葉によれば、「Cell(細胞・器)」という概念を彫刻の方法論として展開」したもので、それは、「3つのフェーズ」からなる。

実際、会場には三種類の作品(群)が展示されていた。

<LIQUID>
<BEADS>
<SCUM>

このうち、まず目を引くのは<BEADS>で、これは、おそらくはトナカイをモチーフにした彫像(むしろ剥製に近い感じ)を題材にしながら、その体表上を大小様々な透明の球面で覆ったもの。パッと見た印象では、巨大な動物の彫像らしきものがあることはわかるのだが、しかし、通常の体表から反射する光と、球面から反射する光とでは屈折率が異なるので、体表上にある毛並みを含めて、トナカイのイメージは決して私たちの視覚にはストレートに入ってこない。

「トナカイ」というのも、むしろ、全体の形象から私自身の記憶を掘り起こして、あ、これはトナカイだ、と同定したに過ぎない。その意味では、この作品は、観覧者が実際に記憶をトレースすることをも計算に入れたものになっているように思う。

また、体表を覆った球面のため、仮に近くまで寄っても、その球面には、体表を敷き詰める体毛が巨大化されたイメージをみせるか、あるいは、光の加減によっては、むしろ天井や壁など、作品を取り囲む周囲のイメージが映り込んでしまう。

だから、遠のいても、近づいても、決してその下にある「実際のイメージ」に到達することはできない。常に、乱反射の結果私の視覚に飛び込んでくる光学的イメージと、記憶の中にあってその背後にあると勝手に想像してしまうトナカイのイメージとが、頭の中で合成されて見えることになる。

つまり、そこにあるものだけでない何かを脳が勝手に補うことであるイメージを構築してしまう。

同時に、そういうイメージの生成過程に気付いてしまうと、つくづく私たちの視覚イメージは(昔、高校の物理の時間で教わったように)物質の表面から反射された光線が網膜に飛び込むことで形成されているだけだ、ということに気付いてしまう。

そう考えると、この<BEADS>という作品は、「光学迷彩」とか「ステルス」とかいわれる、「そこに在るのだが見えない」状態へと至る過程にあるもの、その途上にあるものにすら見えてくる。

透明な存在へと変化するものとして。

*

<SCUM>は、<BEADS>と異なり、モチーフの体表を覆うものは透明な球体ではなく、樹脂の球体。そのため、こちらは、モチーフとなったものは、光学イメージとして視覚に入ってくる、もこもことした「塊」から想像するしかない。

<BEADS>のモチーフが一つであったのに対して、<SCUM>は複数のモチーフが列挙された形で展示されている。つまり、「何かモチーフとなったもの」をポリウレタンの球体が取り囲んでしまったものの「群体」としてまず目に入ってくる。

そのため、全体の印象は、たとえば、『風の谷のナウシカ』にあった「腐海」の中の存在のような、何か胞子のようなものに一面が覆われてしまったもののように見える。その分、何かさっきまで「生きていた」ものが突然「朽ちて」「死んでしまった」ような印象をもった。

名和によれば、これらは<BEADS>になり損ねたモチーフからできあがった作品というのだが、その意味では、コーティングの方法論の違いによって、こんなにも印象が異なるものなのか、と、<BEADS>と<SCUM>の印象の差異に驚いた。

この対比によって、視覚イメージは、視覚イメージだけでなく、その視覚イメージを特定=同定するための何らかの「知識」として結合することで「意味」をもつものとして立ち現れることを実感するし、同時に、私たちの脳が勝手に「意味」をもつものにまで同定しようとしてしまう、自動的なプログラムの下で動いていることを想像してしまう。

実際、<BEADS>にせよ、<SCUM>にせよ、最初に視覚に入ってきた、いささか普通とは異なる「変な」イメージも、その素材になったであろうモチーフが同定される(正確には、同定されるという確信を持つに至る)ことで、すっかり普通のイメージにまで還元されてしまう。

そして、その時点で、当初あった「奇妙な」印象は消えてしまう。
「不気味さ」もどこかに行ってしまう。
*

こうした、視覚経験がいかに構成されたものであるか、というのを、改めて実感させてくれるのが、<LIQUID>。

シリコンオイルをはったタンクから、グリッド上に配置されて多数の気泡が浮上しては消えていく作品。消える傍から、新たな気泡が同じタイミングで発生してくるため、視覚の印象としては、常に三層ぐらい気泡(風船ガムの中で風船ガムを膨らませるような感じ)が常時そこに「在る」ように見える。

けれども、そこにあるのは、三層の固定された泡ではなく、延々と成長しては消えていく「泡」の、生成・消滅、という「動き」だけで、その残像が、あたかもそこに泡なる実態が存在するかのようにみせてしまう。

だから、これは、「波」であり、波の有り様は、その動きの残像のみが、いわゆる「~~~~」のような波打つイメージとして残ったものでしかない、ということになる。

*

時間にして多分10分もかからない観覧だったが、上記のように、視覚の動きに関して考えさせられるものだった。

HERMESのビルを出てから、ぼんやり考えついたことは、こういう、視覚イメージのフェイクさを直観してしまう自分は、大なり小なり、CG的な、生成する視覚イメージの存在に晒されているからかもしれない、ということだった。

もっとも、CGといわず、それこそ活動写真=映画、の頃から日常化している体験かもしれないが。しかし、映像の生成がそれこそ「瞬時に」なされうるというのは、電子的なインターフェース(≒ディスプレイ)の上で映像を日々目にしている経験があればこそ、「瞬時に」思いつくようなものであったのかもしれない。

だとすると、上述したような視覚経験を内省的に考察してしまうところまで含めて、名和の作品の美的効果だったといってもいいのかもしれない。

*

いずれにしても、単なる、マッシブな鑑賞素材としての彫刻とは、ずいぶん異なる類の作品であったことは間違いない。

ほとんど偶然に見かけたようなものとはいえ、こうした経験を与えてくれる作品、つまり、何か世の中の背後にある仕掛けのようなものの片鱗をかいま見させてくれるようなものとしての作品、に出会えたのは僥倖だった。

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最後に。

HERMESは、ギャラリー活動を地道に展開しているところで、名和に限らず、若手の、創作活動に勤しんでいる人々に発表の機会を与えている。

ともすれば、ブランド品企業として通俗的に紹介されがちなHERMESだが、背後では、このような、いわゆる「芸術活動」のサポート、スポンサーシップも地道に行っている。このことは、もっと世の中に知られてもいいことだと思う。

これは、私の想像だが、彼らの扱う商品そのものが、ひとつの文化的な秩序、文化的な世界観の中でこそ価値を持ちうるものだということをわかっているからだと思う。つまり、自分たちの事業の存立基盤を自覚し、その存立基盤を破壊したり摩耗させたりしないように、常に目を配っている帰結としての活動だということ。

HERMESはフランスの企業だが、こうした振る舞いはNYでも何度か見かけることがあった。ニューヨーカーはフランスコンプレックスが強いからさ、と揶揄することもできるかもしれないが、だが、こういう表現活動のサポートやスポンサーシップについては、それによって作品と会合できた人々はきちんと敬意を表すべきだと思っている。

なんにせよ、短いながらも得難い経験だった。

author: junichi ikeda

CONCEPT

FERMATは、コミュニケーションという社会の基底を与える領域の変化の徴候に照準しながら、未来のビジョンを描くことで、新たな何か=“X”、の誕生を促します。