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「だまし絵」から“graffiti”へ: Escher, Patrick Hughes, Banksy

渋谷東急文化村の『だまし絵展』に行く。

出かけてみたら、最終日だからか、
子供連れであるにもかかわらず、行列ができるほどの大盛況。

それもあって、あまりゆっくり見て回るという雰囲気ではなく、
おもだった絵を一瞥しては次を見る、という感じで回っていった。

ほどなく巨匠の部屋へ。
といっても、要するに、マグリット、ダリ、エッシャー、なのだが。

「だまし絵」といって、結局この三人か、と若干萎えつつも、
久しぶりに見ると、確かに不思議空間。

そして、この三者を並べてみると、エッシャーが際だつことを再認識。

ダリの画風は過剰に写実的(シュールなリアリズム)。
マグリットは、色を含めての錯視喚起。

それに比べて、基本が「白黒の紋様」まがいの表現であるエッシャーは、
視覚的なごまかしのパタンを、情感を剥奪する白黒(濃淡)の二色で描いているせいか、
背後にある、アルゴリズム的なものを感得させる方に向かう。

二段構え、というか。

紋様的なもののパタン(その中に埋め込まれたパラドクス)に驚きながら、
その後に、さて、これは、どうしてこんな絵、というか、図象になってしまったのか、
そうしたパタンの生成要因としての、アルゴリズム的なものに関心がいってしまう。

そして、そのアルゴリズム的なものを感得させるが故に、
エッシャーの作品は、本質的に、複製okな作品なのだと納得する。
(このあたりは、昔、佐藤雅彦さんの広告づくりに感じたものに近い)。

ダリやマグリット(やそれ以前の部屋にあったもっと昔の絵の作者たち)らが、描線や色遣いを含めて、描き手の痕跡を残しており、その個性を含めて作品として受け入れられているのに対して、エッシャーはとことん、そうした痕跡を排していて、いわば、設計者としての建築家に近い感じの存在として彼の作品と関わっている。

作品から受ける視覚的効果もさることながら、その効果を支えるアルゴリズム的なものを感得させるところまでを含めてエッシャーの作品だとするならば、それは、それこそオリジナルもコピーも変わらない、ということになる。目の前の紋様から存在を想定してしまう背後のアルゴリズム的なものはおそらくは普遍的なものであろうと想像してしまうが故に。

よくポップカルチャーや大衆消費社会の到来をアートの世界で告げたのがアンディ・ウォホールだといわれるが、それにならえば、デジタル情報社会の到来を同じくアートの世界で告げたのはエッシャーだった、といってもいいのではないか。

*

と、こんなことをぼんやり考えながら次の部屋に移ったところで、
えええぇぇ!?、という具合に、素で驚いてしまったのが、

Patrick Hughesの “Vanishing Venice(『水の都』)”。

この驚きは現物を見ないとわからない類いのもの。
美術館の中を回遊しているからこそ驚いてしまう、類いのもの。

(と思ったら、YouTubeにこういうものがあった。
雰囲気はわかると思う。もっとも、驚きは現物の方が大きいけど。
あと、Partick Hughesのサイトも参考になる)。

“Vanishing Venice”の脇をすり抜けると、
あたかもその場にその風景があるかのように、
絵そのものの見え方が動態的に変わっていく。
正確には変わっていくように「見える」。

だから、「驚き」、それが最初の一撃。
次に来るのが、「仕掛け」に対する興味・関心。

つまり、主題は、最初に、「視覚効果」自身、
次に、それを生み出す「背後の仕組み」。

作品をよくよく見てみれば、それなりに大がかりな仕掛けがある。
仕掛けの中心は、この絵が単純な平面に描かれたものではないところ。
作品は、凹凸をもったものになっている。

遠近法に従った描かれた絵、
つまり、近景は大きく遠景は小さい、という構図の絵を、
小さく書かれた方が物理的に手前に来る(近くなる)ように配置されている。

その結果、見るものの視覚は騙されてしまって、
視点を動かすと、その動きにあわせて、遠景・近景のパラメータが変化し、
実際の風景のように動きがあるように見えてしまう。

(あまり構造についてはうまく解説できているとは思えないので、
できれば実物を何かの機会に見ることをお薦めます)。

*

もっとも、上の、“Vanishing Venice”の効果は、
「絵とは、かくかくしかじかの姿勢で見るものだ」という前提があればこそのサプライズ。
「美術館」内部での鑑賞、という振る舞いがあればこその出来事。

だから、「だまし絵展」という展覧会のテーマに即して言えば、
Hughesが取り上げている「騙し」は、
単に「絵の内部に騙しがある」というのではなく、
「展覧会」とかミュージアムが持つ、「絵というものを見る作法」について、
その中にも「騙し」があるのではないか、ということのように思う。

つまり、額縁の中に入れられた絵を、ある程度の距離から静止してみる、という姿が、
そもそも「遠近法」に沿った絵が要請する「鑑賞の仕方」。

けれども、今日の視覚文化の有り様を考えれば、視覚はもっと自由に、もっと動的に世界を眺めている。そもそも、展覧会ならば、複数の作品が展示され、その間を鑑賞者は回遊していくではないか。そういう静止的ではなく動的な鑑賞スタイルをもつ鑑賞者の一瞥を捉えるにはどうすればいいか。

こんなことを漠然とした課題として意識しながら、Hughesは“Vanishing Venice”を制作したのではないか。

いずれにしても

ミュージアムにおける「鑑賞姿勢」を批評している、という点でも
そのサプライズの仕掛けが、視覚効果を産み出す装置、という点でも、

“Vanishing Venice”はとても今日的。制作年が2008年というのもとても頷ける。

というのも、今日の視覚文化に対する制作側、鑑賞側の両方のコンディションを読み込んだ上での作品になっていると思うから。

今日の視覚文化というとき、それは、CGや加工済み(ポスプロ済み)の映像が当たり前になっている状態を指す。

そうした映像の氾濫による帰結の一つとして、computer-generated imageが当たり前である、という意識。あるいは、視覚イメージそのものがそもそも人工物である、つまり、artificial imageであることがデフォルトの認識枠組みであって、どんな映像を見ても、映像自身の鑑賞だけでなく、同時に、その背後でどうやってそんなものが作られているのか意識が行ってしまうことが当たり前になっている。ほとんど自動的に連想が働いてしまう。

(視覚映像の生成方法など普通の人は気にしないという人もいると思うが、それがもし正しければ、いくつかの作られた映像をそのままでリアルなものとして信じてしまう人が相当数続出するわけで、しかし、実際には、そんな破天荒な事態は生じていない)。

そういう、視覚文化とはフェイクなものである、という漠然とした認識があることを踏まえた作品をHughesは制作しているように思える。

(会場には、「ほら、こっちから見たら動いているようには見えないぞ」と、あたかも鬼の首を取ったように、Hughesの作品=トリックのあら探しに興じている人もいたのだが、こうした人の存在自体が、今日の視覚文化がフェイクで溢れていると思われていることのいい例だと思う)。

Hughesはエッシャーの産み出した「作品+アルゴリズム」という表現形態の、直系の継承者といっていいだろう。

先述のように、エッシャーはパラドクシカルなパタンの連続・反復をみせることで、むしろ、その背後にあるアルゴリズムを想像させてしまうところに彼の不思議さ(騙しのテクニック)があった。エッシャーの絵は、だから、「背後にあるアルゴリズムの想像」こそが「美的効果」のはずで、最初からそれは、複製に耐えうる、その意味で、複製が当たり前の時代の美術工芸のあり方を示した。

多分、権利保護の視点でいえば、著作権法(→表現物保護)と特許法(→アイデア=プログラム手順の保護)の中間にあるのがエッシャーであったように思える。それを、今日的な視覚文化状況に合わせて大がかりな(といっても簡単な構造なのだが。とはいえ、絵=平面、という先入観を覆したことはやはり大きいと思う)仕掛けにしたのが、Patrick Hughesだったのではないか。

というのも、Hughesについても、“Vanishing Venice”同様の仕掛けを再生産すれば、どこでもその効果は狙える。その意味で、複製okな作品。

そして、作家性は、そうした「視覚効果」の方に宿る。
著作物自体というよりも「アイデア」の方にこそ作家性が宿る。

******

さて、こうして、「だまし絵展」から出てきたところで、ふらっと立ち寄ってしまったのが、

“urban/graffiti art exhibition” @Bunkamura Gallery

そして、ここに、“graffiti”として紹介されていたBanksyが思いの外、良かった。

(ちなみに、こちらは 8月14日から25日まで開催中)。

(Banksyの作風については、彼のサイトと、この映像が参考になる)。

*

「だまし絵展」の最後で見た“Vanishing Venice”が、それなりにインパクトがあって、上で書いたような印象を、そのときはまだ言語化できずに悶々としていた状態であったことも、以下のBanksyの評価の仕方に多分に影響を与えているとは思うのだが、

当たり前のことだが、graffitiには「額縁がない」、ということが大きい。

正確に言うと、ギャラリーで展示してあったBanksyの作品が、そこがギャラリーであることから、当然、実は、額縁に入れられていた。だから、最初は単純に、彼の描く絵がユニークで、そこに込められているメッセージが、UKらしくシニカルな視線で溢れていて面白いと思っていた。

そこで終わっていれば、多分、普通のgraffiti、つまり、Tシャツあたりにプリントしたらちょっといいかも、と思うぐらいのしゃれたイラスト/デザインぐらいにしか思わなかっただろう。

ところが、そこで手にしたBanksyの作品集をパラパラ見ながら、次の部分を見つけたときに、いろいろなものが反転した。

それは、Broken window theoryに関するもの。

これは、もっぱら、graffiti=落書き、に対して、治安維持の観点から、ネガティブに捉える視点。

Broken window theory(「壊れた窓」理論)というのは、ジュリアーニがNY市長を務めたときに採用した理論で、この理論の教えるところに従って予防警察的な活動をNYPDに大々的に許可したことで、90年代を通じて、NYは、とりわけマンハッタンは、それまで危険で治安の悪い街と言われていたイメージを払拭することができた。

私がいた2004年頃のNYでは地下鉄が危ない、ということはなくなっていた(もちろん、日本の地下鉄みたいにゆるゆるの自分をさらけ出しても安全かというとそんなことはないのだが)。普通に利用するには問題がなかった。あるいは、Lower Manhattanの一部では、たとえば、East Villageのあたりは、治安が悪い(麻薬売買が行われていたという)というイメージから抜けだし、今では、不動産開発が進んでいる。

そうした効果をもたらした、Broken window theoryというのは、要するに、割れた窓、や、落書きなどを放置してはいけない、そうしたものが放置されている状態が、その場所が何の管理もされていない、いわば一種の無法地帯、「法の外」にある場所であることを暗に示していて、そうした状態がより悪質な犯罪を惹起してしまうから。だから、そうした荒廃した地域の手入れをすると同時に、そうした状態をもたらす人々(要するに、窓を割ったり、落書きをしたりする人々)を一種の器物破損という理由で、大々的に取り締まることをよしとする(このあたりは、酒井隆史『自由論』に詳しい)。

こうした予防措置の強化によって、実際、NYは「浄化」され、ジュリアーニはNYを犯罪から救った市長として称賛されるようになる。たとえば、このBroken Windows theoryによる「NY奪還作戦」は、ケネディスクールのケースとしても取り上げられていて、アメリカのPublic Managementのクラスでは、ケース分析の対象として必ず取り上げられるものになっている。それくらい成功した事例であり、その成功を支えたのが、Broken Windows theoryということになる。

*

そして、繰り返しになるが、そのBroken Windows theoryの下では、Banksyの作品の要であるgraffitiは「治安の赤信号」であり、事前に排除すべき対象となる。

Banksyは作品集で、このBroken Windows theoryの主旨=「graffitiは悪」、というロジックを紹介しながら、しかし、その脇に同時に、次のような主旨の手紙を添えている。

「・・・私はあなたがgraffitiを描いたXXXという街の生まれなのだが、Banksyさんよ、頼むから、もうgraffitiを描くのはやめてくれないか。あなたの描くgraffitiのせいで、だれもがこの街を超クールな街と思ってしまって、不動産価格は上昇、家賃もどんどん上がってきていて、このままだと私たちはもうこの街にすめなくなっちまう。頼むからやめてくれ・・・」

この手紙が示しているのは、「graffitiは悪」どころか「graffitiは善」、つまり、graffitiがあった方が、むしろ不動産価格が上がって、街にとって万々歳なんだ、という、Broken Windows theoryが想定していることとは真逆のことが起こっている、ということ。

もちろん、このメール事態が、Banksyのでっち上げ、という可能性は残るのだが。

それでも、この、graffitiに対する価値反転については、一定のリアリティがあるように感じてしまうのも確か。

その理由は、不動産市場に刺激を与えるために、クールネスが動員されるから、というのが一番わかりやすい理由。

そして、より今日的な理由を求めれば、それは「ユビキタス」という事態によって、publicもprivateの境界を無効化しつつ、様々なイメージが、それこそ、強固な支え=額縁、もなく、そこかしこに現れる(現れ得る)ことが普通に思えるようになったから、だと思う。

実際、Banksyの画風は、相当写実的でリアルなもので、作品集の中で、実際の壁や路面に描かれた彼の作品を見ると、そのリアルさが一種の「だまし絵」に見えてしまう(これが、バスキアのような、いかにもgraffitiと思えるような原色を散らした画風であれば、初見で、異物としてのイメージが組み込まれていることがわかるのだが、Banksyの描線や色遣いはそういうものではない)。

それでも、そうした「だまし絵」が普通の空間に混入してくること自体は、もはや当たり前のことのように感じられる。

Graffitiというか、もともとパブリック・アートという存在は、アートをミュージアムの「外」に置くことで、アート自体がミュージアムに飼い慣らされてしまう文化制度への批判であったり、ミュージアムでの陳列という制約に囚われない作品を作ろう、という主張であったり、と、いずれにしても、ある制度に対する抵抗的意味合いを持つものが多くあった。

実際、Banksyの作風も、メッセージのレイヤーでは、UKらしく、かなりシニカルで、かなり抵抗色の強いもであるけれど、しかし、それが壁に描かれたgraffitiとして描かれる物理的存在のレイヤーでは、それ自体が持つ「抵抗性」の温度は著しく下がっているように見受けられる。

それが、上で紹介した、Broken window theoryの横に添えられたメールの内容だと思う。

これは、同時に、アメリカでしばしば問題にされる、「なぜカウンターカルチャーは、その対抗性を失って、主流メディア、消費社会のモードの中に組み込まれてしまったのか」という疑問と同型の構造を持っているように思う。

そのことは、また、別の機会にでも論じたいところだが、さしあたって、今は、ユビキタスという状況で、確固とした額縁のないイメージが、多数溢れるような情勢下にある私たちの感覚が、Banksyのようなgraffitiを、むしろ、普通の空間の中に突如得浮き出した「幻想的イメージ」ぐらいにしかとらえない。そうした「幻想的イメージ」が街中に現れてもさして違和感をもたずに受け入れられる、そんな感覚があることを指摘するにとどめておく。

もっともユビキタスという言葉には、キリスト教で言うところの「神の遍在」のニュアンスがあるので、何かを幻視する、という表現自体、同語反復なところがあるのだが。

*

「だまし絵展」の絵は、いずれも額縁があった。
その額縁をあたかも窓枠のように乗り越えようとする少年の絵すらあった。
展覧会の最後にあったHughesにも額縁はあった。
もっとも、その動態感から、むしろ(テレビ)カメラのフレームぐらいの存在だったのだが。

そして、その「だまし絵展」という(展覧会)という額縁の外には、もっとゆるい、千客万来な感じのギャラリーがあり、そこには、額縁を必要としないBanksyのgraffitiのモチーフが(暫定的な額縁に囲われて)そこにあった。

残念ながら、graffitiの性格から、Banksyの本物の、額縁なしのgraffitiをそこで経験することはできなかったのだが、しかし、graffitiは「額縁」はない。

だから、額縁はもはや「だまし」のよりどころにならない。
そのとき、だまし絵、とは何なのか。


ギャラリーを出ると、そこは、渋谷の街並みだった。

author: junichi ikeda

CONCEPT

FERMATは、コミュニケーションという社会の基底を与える領域の変化の徴候に照準しながら、未来のビジョンを描くことで、新たな何か=“X”、の誕生を促します。