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“Good Enough”から“Fair Enough”へ: World Marketのもう一つの開発軸

昨日のエントリーで図らずも触れてしまったG20だが、先日ロンドンで開かれていたG20会合についてWSJがまとめている。

G-20 Sets Broad Bank Pact
【Wall Street Journal: September 7, 2009】

世界規模の景気後退の中で必然的に注目が集まる会合であり、それを反映して多くの記事・論評が既に紡がれている。だから、G20の内容そのもの、たとえば、金融会社トップの報酬(Executive Payment)の問題や、経済刺激策を協調採用した国々のexit strategy(金融としての「有事」を解除し「平時」に移行する)について今更ここで書くことはない(大体、金融の専門家ではないわけだし)。

ただ、昨日のエントリーの流れで考えてみると、つまり、World marketに流通する商品について、“Good Enough”が商品開発の一つの指標になるのだとすれば、なかば言葉遊びではあるのだけれど、たとえば、タイトルに掲げたとおり、“Fair Enough(理に叶った「もっともなこと」)”というものも商品やサービスの一つの指標になるのではないかと思い始めている。

(補足しておくと、“Fair Enough”という表現は、英語の会話の中でよく出てくる。相手の言うことが、理にかなっていて納得できるとき、発する言葉。「そりゃ、そうだ」「ご説、ごもっとも」というようなニュアンス。“Fair”という言葉が使われていることから、「誰もが常識として認めている規範的な尺度から考えたとき、妥当な言い分で反論の余地がない」というようなニュアンス)。

G20会合のExecutive Paymentの問題は、“Greedy(強欲さ)”に一定の歯止めをかけながらも、しかし、当の本人たちのやる気を損なわない、あるいは、一定の質を保った後人が引き続き金融の世界に参入してくるに十分な“Interest(利害)”や“Motivation(動機付け)”を付与するにはどうしたらよいか、という問題、バランスをどう調整するかという問題を含んでいる。

そこで、誰もが“Fair Enough”と納得できるような仕組みをどうやって作るのかが大事になる、と言い換えても良いのかもしれない。

こう言ってみて思い出すのは、以前、留学中に取ったnon-profit managementのクラスで扱った、non-profit corporationのexecutive paymentのこと。

アメリカのnon-profit corporationでは、税制優遇される分、その会計処理についてはルールが厳格で、たとえば、executive paymentについては、当のexecutiveの報酬額の開示義務だけでなく、親戚・縁者を含めた人びとにnon-profit corporationから利益が流出されていないか明らかにするため、彼らの収入についても報告義務が課せられている(非営利法人が脱税の温床になる、というのはどこの国でも起こりうること)。

また、executive paymentについては、その報酬額の妥当性については、for-profit corporationとして経営されている病院のexecutive paymentの金額をベンチマークにして、non-profit corporationにおける報酬額の妥当性を証明することにしていた。つまり、for-profitで経営されている病院の経営者や院長先生がこれだけの金額を得ているのだから、それに相応する能力をもつ人材をnon-profitで経営されている病院で確保するには、同程度の報酬が必要になる、というロジック。

そうすることで、non-profitの病院の経営者の報酬額も“Fair”なものとして承認されることになる(もっとも、そうした報酬額の一覧表が作成されるくらい、情報開示がなされていないと、こうしたスキームはとれないのだが)。

つまり、そうやって理論武装された報酬額を見せられた人びとは、“Yeah, Fair Enough.”といって納得することになる。

*

それでは、どうして“Fair Enough”が“Good Enough”と同様の商品やサービスの開発指標になるのかということだが、それは、

“Good Enough”というのが、既存の商品の開発目標が単なるクオリティ・インフレになっていて、いつの間にか大多数のユーザー=消費者の意向を無視したものになってしまった状態を調整する、つまりクオリティ・インフレを是正する方向に働く「合い言葉」だとすれば、

“Fair Enough”というのは、そうして価格の下方圧力がかかってしまったときに、品質や水準を最低限維持するのに必要な価格設定であり、商品ができあがる過程(原材料調達や加工、流通などの一連のプロセス)に無茶がない範囲で行っていることを表明することで、商品としての「信任」をユーザー=消費者から得るための「合い言葉」として使えるように思えるから。

もちろん、“Fair”がFair Tradeでも使われているから、という連想も当然あるけれども、それだけにとどまらない広がりを“Fair Enough”という言葉は持つように感じている。

ちなみに、私がFair Tradeと聞いて思い出すのは、マンハッタンのEast VillageにあったMUD Coffeeというカフェ。ここはコーヒー豆をFair Tradeで調達してコーヒーを入れていたし、そのコーヒーをヴァンの屋台として、路上でも売っていたし、コーヒー豆の通販もしていた。マンハッタンもすっかりStarbucksが席巻し、昔ながらのカフェも随分減っていたのだけれど、それでも、やはりEast Villageということで、売る方も買う方も、ある種の共同体意識で売買をしていたように思う。「同じコーヒーを買うならこっちで買おう」という感じで、まさに購入が一種の支持投票のようにみえる感じがあった。

(だから、大企業がただのキャンペーンの策の一つとしてとりあげるだけなら、おそらくは、Naomi Kleinのような人から思い切り非難されてしまうことになると思うけれど)。

とまれ、Fair Tradeのような動きが、商品が溢れているのが当たり前の「成熟消費社会」だからこそ成立する「選択肢」であることも間違いない。

そして、そうした「成熟消費社会」だからこそ、“Good Enough”で象徴される、商品スペックの再調整による「代替商品・サービス」の提供が意味を持つし、同様に、(ここで提案してみせた)“Fair Enough”という言葉で象徴されるような、「選択価値軸のずらし、新たな付与」によってもう一つの「代替商品・サービス」の提供が可能になるように思える。

ということで、World marketを見据えたとき、“Good Enough”という軸だけでなく、“Fair Enough”という開発軸を設定してみるのも有用な発想起点ではないだろうか。

author: junichi ikeda

CONCEPT

FERMATは、コミュニケーションという社会の基底を与える領域の変化の徴候に照準しながら、未来のビジョンを描くことで、新たな何か=“X”、の誕生を促します。