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フランス大使館シンポジウム観覧メモ: 千葉雅也、池田剛介、濱野智史、黒瀬陽平、による「イストワールの現在」

12月12日(土)に、旧フランス大使館建物跡で芸大が主催しているイベントに行ってきた。その展示会場のある一室で午後2時から5時半まで開催されたシンポジウムを拝聴した。

以下は、その時の観覧メモ。

メモなので、文章としては未完成、内容は文脈無視、特定の専門用語の説明なし、のものであることを、予め断っておきます(たとえば、「セカイ系」とか、無造作に使っているけれど知らない人はググって下さい)。

そんなメモの状態でもポストしようと思ったのは、まず、単純に面白かったから。

話題の広さにしても、その分析視点の深さにしても、予想していた以上の収穫があったように思っているので、忘れないうちにとりあえず文章化しようと思った次第。

なので、まず、なにはともあれ、シンポジウムの登壇者をはじめとする、展覧会関係者の皆さんに対して、ありがとうございました、とても勉強になりました、と述べておきます。

展覧会自体は、12月27日まで続いているようなので、ご関心がある方は是非足を運んでみて下さい。フランス大使館自体、広尾の閑静な場所にあって、ちょっとした散歩がわりに行くにもいい場所です。近くに有栖川公園もあります。

なお、全編にわたって私の印象で書いているので、発言者の発言内容もそのままというわけではありません。その意味で「メモ」なのです。あらかじめご了解いただきたく。

*

会場はちょっとしたアングラ演劇調(すみません、昔、早稲田の文キャン地下の演劇を見ていた口なのでその頃の印象とかぶってます)に演出されていて、ああ、このスペースはやっぱり芸大コーディネートなんだと再確認。というか、久しぶりに、学園祭にでも行った感じ。

会場には小さな直方体状の木が椅子代わりに置かれていて、正直、3時間あまり座り続けるのはしんどかったのだが、木幡和枝芸大教授が主催者の一人だからか、どうやら、かつての学生運動の集会を気取ったようだ。

実際、会場の企画コンセプトの一つは「闘争」で、シンポジウム第一部の木幡と後藤繁雄のトークは、1968年パリの5月革命を巡る(半分は木幡の思い出)話だった。

彼らのトークからは、当時は、時代精神と政治思潮と芸術表現が、幸運にも互いにシンクロしながら影響し合い合う関係にあったことを再確認したものの、次の第二部(濱野智史や黒瀬陽平が登壇)と比べたとき、その断絶は大きいというのが正直な印象。

いまさら、マルクス主義や弁証法を引き合いに出しながら芸術の有り様を説明しようとしたり、反米の拠点としてのフランスを美化したりする語り方には、正直、時代の違いを感じた。

前者については、第二部で千葉雅也が20世紀的な知の中心に精神分析的知(フロイト-ラカンージジェクの流れ)があって、そこからどう展開するかに鍵がある、というようなことを言っていたことが、木幡・後藤へのアンチとしてあるようにも見える。

千葉はドゥルージアンだから、アンチ・ラカンというラインで、文字どおり、ドゥルーズ=ガタリの視点から事態を捉えているのだろうけど。千葉は、第一部で進行役として登壇していたわけだから、その場で木幡・後藤へ突っ込んでくれていたら、もっと面白かったかもしれない。

後者の反米の拠点としてのフランスという点については、2009年現在の事実で考えれば、フランス自体、サルコジという親アングロサクソンの大統領を選出している事実や、国際政治の文脈でいえば、アメリカに対するカウンターは全欧州=EUというのが常識だと思うので、この二点の現状について、木幡・後藤がどう考えているのか、できれば聞いてみたかったところ。時代認識としても聞きたいし、彼らが時代認識と相即した動きとして捉えている芸術思潮への影響、という点でも聞いてみたかった。

もっとも、この「2009年現在の芸術思潮」という点については、第二部で、「脳と環境」という二つの視点が提示されていた。

*

で、シンポジウムの第二部。

登壇したのは、千葉雅也、池田剛介、濱野智史、黒瀬陽平、の四人。

第二部に入ってから圧倒的に来場者が増えたのだが、それは、濱野と黒瀬が『思想地図』周辺の論客としてすでに名を馳せていたからか。

ただ、個人的には、今回、初めて話すところを間近で見た、千葉、池田、の方が、キャラとして興味深かった。俺たち、信念入ってるもんね、という感じの、時折見せる語気の荒さが、かえって清々しい感じがしたから。

彼らの話はいずれも興味深かったのだけど、話の内容に触れる前に少しばかり、会場の様子について。

*

二部に入って俄然会場が熱気を帯びたモノになり、この点では、木幡の狙い通り、アングラ演劇を観劇する風の会場の雰囲気になっていた。

来場者の多くが、iPhoneを利用して「tsudaる(Twitterによる実況)」ことに一生懸命になったり、あるいは、iPhoneを使って、そのままストリーミングで中継をしていた(ググれば、そのサイトも見つかるはずです)。あるいは、iPhoneを使って録音をしていた。

「パワポがないと『ゆとり脳』はtsudaれない」という濱野の指摘はご愛敬だとしても(笑)、その場の雰囲気は、とにかくこの場で語られている様子が全てそのまま「中継」されていく、ということだし、多くの来場者がそのことに情熱的に取り組んでいた。

今まで何度か、iPhoneの革新性については指摘してきたけど、さすがに、20代ばかりが観客という場には久しぶりに出て、改めてその革新性に気付かされた。

端的に言って、iPhoneは、ウェブ利用のためのポータブル端末、として登場した、ということ。裏返すと、iPhoneの登場によって、PCもインターネットの利用端末の一つとして位置づけられることになる。そして、その結果、インターネット=ウェブ、が(PCやiPhoneなどの)端末とは別個に存在する「モノ」として認識することが可能になった、ということ。

つまり、iPhoneの登場は、インターネット=ウェブのサービスが、端末とは独立した存在として認識される道を開いたわけだ。

なにをいまさら、といわれるかもしれないが、日本人の感覚では、携帯電話の高度化がSmartphoneだと思っていたわけで、その意味でiPhone app storeは、i-modeの今日的アメリカ版と捉えてしまいがち。i-modeに代表される日本の携帯電話アプリが、もっぱらインターネットとの連続性を断絶する方向で進化していったのに対して、iPhoneは、登場時にすでにインターネットのサービスが多数存在したからだと思うが、最初からその利用形態としてウェブ上での利用を想定している、ということ。

その意味で、iPhoneは、ウェブ・アプリのための、入出力デバイス(の一つ)という位置づけになる。

つまり、初めにウェブ上のアプリありき、というのがiPhoneの発想(そして、おそらくは、Android Phoneを含めた海外のSmartphoneの発想)。i-modeに代表される日本の高度化ケータイとは、設計思想が全く異なる端末系列と思わなければいけない。

この点は、別の機会にもう少しきちんと掘り下げてみたいと思う。

*

ということで、シンポジウムの第二部について。

誰が何を話したか、ということについては、ググれば、詳細なレポート、というか発言録がすでに見つかるので(恐ろしい話だが(苦笑))、それらを参照してもらうとして、ここでは気になったことをいくつか。

シンポジウム第二部のタイトルは、

<歴史=物語(イストワール)の現在:情報・芸術・キャラクター>

であったのだが、適宜イストワールに回帰してくるものの、話題としては、

「セカイ系」という想像力=創造力
21世紀の思潮のベースとなる「脳」と「環境」
「脳と環境」に見られるハードウェア志向=新たなマテリアリズム
「中景」の想像力源としてのインターネット=ウェブ文化

というところか。

そして、進行役が千葉であったから、全体の印象としては、

フーコーが言った「人間の終わり」の時代をマジで受け取るために、
ドゥルーズ=ガタリによる、新たな唯物論=機械論を突き詰めよう。
そのことを具体的に実感させてくれるモノとしてインターネットがある。
そのインターネット体験を共通通貨として受け取って、
「脳と地球」の時代となる21世紀の想像力を創造しよう。

という感じかな。

もちろん、これは、千葉が表象文化論専攻の哲学者=メタ思想家としての立場から、池田、濱田、黒瀬、が述べた状況論を総括しているからだけど。

池田は、実作者として、彼なりの思想の結晶として自作を紹介し、その体験から彼自身の思想を逆に立ち上げようとしていたし、

黒瀬は、美術家兼批評家として、芸術活動の駆動因(個々人の芸術家の動機付け)としての想像力の源泉を、「セカイ系」の分析を通じて示していたし、

濱野は、フランス現代思想の用語法も使える、社会学者兼IT研究者として、インターネットの利用状況から、新たな社会(統治)原理とでもいうべきものを取り出そうとしていた。

こうした、個別状況についての報告を、千葉がドゥルージアンの言葉を持ってまとめていた、という感じ。

というか、こと、インターネットについて人文学的に語ろうとすると、

(アンチ)ラカン → フーコー → ドゥルーズ=ガタリ

というラインは、やはり通りがいいことを再認させられたように思う。
この枠組みだとストーリーとして上手く流れる。

あるいは、ガブリエル・タルド風のライプニッツのモナド解釈というか。
ドゥルーズ=ガタリ自身、タルドを引いているし。

そう思うと、東浩紀が先日のウェブ学会で紹介した、ルソーの『社会契約論』中の、一般意志の立ち上がり方(各人が、コミュニケーションせずに、熟慮を示すと・・・、という発言)も、この流れにうまくはまるように思えてくる。

濱野が、複雑系の数理の延長線上にある、シミュレーション志向の数理的な社会学のありようを、socio-physicsとして紹介していることとも通じることのように思える。

要するに、「人間外し」。
人が集まって話し合おうという方法論に固執するから、政治も、社会の随所の意思決定もバグばかりになる。

*

もう一つ気になったのは、濱野による「中景としてのインターネット」。

この「中景」というのは、とりあえず、セカイ系には、近景と遠景しかない、つまり、

近景: 私的関係性、親密性の描写(要するに、色恋沙汰)
遠景: セカイ(=人類世界)の帰趨(通常は「破滅」シナリオ)

しか描かれず、

中景: 背景としての社会状況に関する記述、描写

がない、というときの「中景」のこと。

だから、この文脈では、

中景≒各種の「中間集団」

という意味で取っていいと思う。

そして、「中景としてのインターネット」という命題は、インターネットが、「私と世界」の間にある「Xとしての集団」を構成する力を持つ、というようにとれる。

ただ、ここは扱いが難しくて、

「中間集団」としては、様々な可能性があるにもかかわらず、
しばしば(日本では)「中間集団=コミュニティ」と短絡的に捉えられ、
コミュニティの復活≒地方の復活、という従来からあるスローガンと手を結びかねない。

実際、このあたりの「窮屈さ」を直感的に取ってか、このインターネットによる「中景」回帰の命題に対しては、池田と千葉が明確に反対の立場を取っていて、むしろ、スローガンとしては、

「セカイ系を徹底せよ」

という方向性を主張していた。

このあたりは、池田・千葉の発言の方が納得できて、なぜかというと、「中間集団の貧困」というのは、日本に特殊的な主題だから。「学校化」や「郊外化」という話題の延長線上にあるもの。

けれども、たとえば、アメリカでは、実際には、多数の中間集団が存在する。企業、学校、教会、のみならず、各種利益集団、協会、財団、等が実際に稼働しているわけで、いくらパットナムが『ボウリング・アローン』で、アメリカの中間集団による紐帯関係=社会資本が減じている、といったところで、日本に比べれば、はるかに中間集団の活動は盛ん。そして、それら新規の中間集団の成立を可能とする法律や習慣もある(アメリカ的なnon-profit companyなど)。公平のためにいっておけば、中間集団の活動が盛んな分、そこにおけるトラブルが社会問題化するケースも多い。

だから、確か、池田が、ショーン・ペンによる、セカイ系的な短編映画のことについて言及したのは全く正しくて、そうした多数の中間集団が蝟集するアメリカだからこそ、むしろ、セカイ系的な、中景を欠いた、近景と遠景の直結、が一つの表現様式として意味があるし、その結果、新たな中間集団の可能性を示唆することにつながるように思う。

(最近は、日本の作品でも、単に友達どうし、仲間どうしの関係を「家族」と称し、それによって紐帯関係の新たな可能性を探ろうとするものが散見されるように思うが、この「家族」概念の拡張については、つまり、「拡大家族」のような考え方は、アメリカの、Social Workのような文脈でよりリアリティがあるモノとして出てきたように思う。そして、たとえば、この「拡大家族」のような概念が、上でいった、「新たな中間集団の可能性」に後押しされた一つのあり方のように思う)。

*

本当にまとまりのないメモになってきた。

これは、シンポジウム全体の印象でもあるのだけど、つくづく、日本の芸術活動においては、フランスの言説≒フランス現代思想的言説、がいまだに強い影響を与えているのだな、と感じた次第。

何かを作るための動機付け、あるいは、作りたいという衝動を向ける先、そうした衝動を水路づけるものとして、こうした思潮が求められている、ということも何となくわかった気がする。そして、今は、その思潮がなんだかよくわからない、ということも。

とはいえ、たとえば、知り合いの、アートの実作者たちを見ていると、こうした「思潮」とは無縁のところで、むしろ、単純に「描くことが楽しい」とか「作るのが楽しい」と思っている実作者=アーティストがいて、彼/彼女らは、モチーフやコンセプトよりも、表現手法の拡大や、新たな表現手法の習得の方に関心を持っている。そういう人たちも実作者として存在する。

そういう事実もあることを考えると、「何か思潮がないとモノが作れない」というのは、だいぶ窮屈なことなのだろうな、とも感じてしまう。

それに、今回の話が、インターネットの前景化という後押しもあって、ドゥルーズ=ガタリ的な考え方の妥当性が浮上してくる様子を見ると、意地悪くいうと、フランス的な現代思想の人びとは、いろいろと語句を連ねながれも、結局のところ、

フランス的な考え方をどうにかアングロサクソン的なものに書き換えよう

とあくせくしているようにも思えるときがある。

一つには、ドゥルーズの哲学は、イギリス経験論の読み直しに大きくよっている、という事実や、あるいは、フーコーが晩年(というには若いのだが)、西海岸のバークレーの自由自在な雰囲気に憧れた、というのもそういうことを表しているように思える。

単純に、窮屈なフランスから抜け出して、自由なアメリカ的なものを志向したい、

というか。
裏返すと、

フランスはアメリカが嫌いといいながらアメリカになりたがっている、
アンビバレンツな様を示しているようにも見える。

たとえば、東浩紀が、「一般意志2.0」といって、ルソーに回帰しているのも、広い意味では、表象文化論系の人たちの苦悩と同類の悩みに根ざしているのかもしれない。

あるいは、もっと肯定的に捉えるならば、

「トクヴィル的な態度」でポジティブにアメリカを見直そう、

としているのかもしれない。

*

ということで、随分雑多なメモになってしまったけど、これでも実はいろいろと思いついたことを書き切れてはいない。だから、おいおい、思い出しながら考えていきたい。

最後に。

先日のウェブ学会準備のシンポジウムの中継をウェブで見たときにも思ったことだが、とはいえ、ウェブは、現実的に日本のある年齢以下の人びとにおいては、共通経験の母体となっているし、その共通経験の母体の所在を糧にしながら、何らかの「まとまり」のある協働活動をしようという意志が芽生えているようにも感じている。

それは、ウェブ学会の様子を見ていると、とても従来のイメージの学会ではなく、どちらかというと学生の同好会のようなノリが感じられたから。

そのノリとおそらくは変わらない「臨場感」を、今回のフランス大使館跡地の芸大シンポジウムで、内容的にも、雰囲気的にも、使用されているツール群からも、感じることができたように思っている。

これらの一連の動きには、何らかの形で通底するモノがあるように感じている。

ようやく、日本のウェブも面白くなってきたのかもしれない。

author: junichi ikeda

CONCEPT

FERMATは、コミュニケーションという社会の基底を与える領域の変化の徴候に照準しながら、未来のビジョンを描くことで、新たな何か=“X”、の誕生を促します。