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『思想地図2.0』は村上春樹を経由してBay Area色の強い雑種的“New Yorker”になるのだろうか。

『思想地図』Vol.4をようやく通して読んだ。

この本自体は、先日のフランス大使館シンポジウムを観覧しに行った際、登壇者が全員テーブルに置いていて、それが気になったため、積ん読になっていたのに手をつけて、ようやく時間を取ることができた次第。

個々の論考やインタビューの内容について、いろいろと思うところはあるのだが、通して読んでみての最初の印象は、

『思想地図』は“New Yorker”のようだ、

もっといえば、

『思想地図』は“New Yorker”のような文芸ジャーナリズムの「立ち上げ」と「突破」を行おうとしているように見える、ということ。

もちろん、そこにタイトルのように、

村上春樹や、
Bay Area的なものや、
雑種性、

といったものが「突破」のための推進力や、差異化の源泉になると感じている。

*

ということで、まずは、少しばかり、New Yorkerについて。

アメリカの雑誌の“New Yorker”では、フィクションとノンフィクションがバランスよく並んでいる:

各種文芸作品 (小説、詩、等)
各種作品批評 (小説、ノンフィクション、美術・芸術、映画、舞台、音楽、建築、等)
時評=政治経済のノンフィクション
科学解説ノンフィクション
スポーツノンフィクション
各種回顧もの=歴史解説ノンフィクション
エッセイ、オピニオン (Op-Edというカテゴリー)

小説であれば、新人の短編からベテラン作家の短編・中編までが掲載される。

作品批評であれば、小説やノンフィクションのような文芸批評から、美術や映画などの実作批評もある。実作については、ハイカルチャーの方に比重があるようにみえるが、一応、サブカルチャーやポップカルチャーまでもカバーする。時には、エミー賞をとったテレビ番組シリーズも扱う。

時事問題(Current Affairs)を扱う時評は、大きな社会問題ならたいていのことは対象になる。最近であれば、金融不況、アフガンやイラクへの米軍派遣、など。Wall Street やNYのミッドタウンが近いからか、題材としては、金融やビジネス・スキャンダルのようなものの扱いが比較的多い印象。

科学解説については、たとえばMalcolm Gladwellが科学エッセイを定期的に寄稿しているといえばイメージがわくと思う。

スポーツは、YankeesなどのBaseballが目立つ。

回顧ものについては、これもNYという土地柄のせいか、MOMAやMet(メトロポリタン美術館)などで扱っている芸術家や芸術思潮の回顧(retrospective)というものが多いように思う。もちろん、ブロードウェイも扱われる。

エッセイ、オピニオン、については、いわずもがな。

このように、New Yorkerは、純文学からパルプフィクションまで、現代アートからファッションシーンまで、オペラからヒップホップまで、つまりは、ハイカルチャーからサブカルチャーまで、ジャンル横断的、というか階層縦断的というか、かなり広範囲に扱う。

相当な文化的悪食といってもいい。

そして、その悪食=ガストロノミーっぷりが、文化的スノッブの代名詞を支えてきた。

悪食がスノッブを経由して美食家に見えてしまうくらい。

*

とはいえ、あえていえば、New Yorkerが比較的回避してきたようなものというのもあって、それは、スピリチュアルなものの扱い。

NYという場所がらからか、つまり、特定の宗教的なものに直接コミットするのを明言するのが憚れるところだからか、あるいは、NYの文芸文化を支えるのがユダヤ系の人びとであるからか、直接的にスピリチュアルなものを扱うのは何となく避けているように見える節がある。

とはいえ、実際にグリニッジ・ビレッジ界隈を歩くと、東洋趣味的なスピリチュアルな感じのする店は散見される。そういう場所を見ると、NYerも、他のアメリカ人同様、スピリチュアルなものに引かれる心性を有しているように思う。

そういうスピリチュアルな温度は、うすーく、ひろーく、微温的な文化的土壌の一つとして、いわば苗床の一つのようにして、NYのポップカルチャーの中に散らばっている。

そして、そういう雰囲気をそれと気付かれずに切り出してくるのに有効なのが、文学的表現。

だから、NYerに寄稿されている短編小説などは、そういうスピリチュアルなものを扱うものが見られるし、そもそも、スピリチュアルなものを示唆する表象として、東洋的なものが(なかば戯画的に)引用されるし、その分、中国名、ベトナム名の作家、アジアをイメージさせる作家が、作品をNew Yorkerに寄稿していたりする。

*

多分、こういう雰囲気が求められつつあった80年代後半から90年代にかけて、NYにおいて、うまくNY的な文学テイストと東洋的スピリチュアルなものをつなぐブリッジ的な役割を果たし、結果的に特権的な場所を占めることができたのが、雑誌“New Yorker”を経由して世界的受容が広まった「村上春樹」なのだと思う。

つまり、New Yorkerにとっては語りにくかったスピリチュアルなものを、うまくNYerにも扱えるほどに表層的に、形式的に扱ったのが、村上春樹だったのではないか。

このあたりは、多分、『偽アメリカ文学の誕生』を記した都甲幸治による「村上春樹論」が射程に入れていることとも符合することだと思う。

都甲をはじめとして、最近の英米文学研究者の多くが指摘するように、アメリカの作家の中には、村上春樹的なトーンや主題を扱う作家が増えてきている。それは、Paul Austerの翻訳でも知られる柴田元幸も指摘するところで、アメリカにおいても、90年代以降、純然たるリアリズムが後景に退き、それに変わって、日本でいえば小川洋子や川上弘美のような、幻想と現実の間を文学的表現(想像力)で易々と接続してしまうタイプの作家が増えている。

しかし、これも多くの研究者が指摘するように、初期の村上春樹は、フィッツジェラルドのみならず、ヴォネガットやスティーブン・キングの影響も受けながら、つまり、アメリカでいえばパルプフィクション系の作品・作家からの影響も多分に受けていた。

だから、今のアメリカの作家が、村上春樹の影響を受けるというのは:

アメリカの中では容易には接続できなかったであろう、アメリカ文学の様々な断片が、村上春樹という作家を通じて、異種交配的に結合され、その結果できあがったハイブリッドな作品が、村上自身が東洋の国出身であるという「東洋的≒スピリチュアルな」外観と相まって、雑誌“New Yorker”と、その周辺にいるNYerの読者に見いだされた。

その村上的異種交配的なアメリカ文学(都甲によれば「偽アメリカ文学」)を受け止めた読者の中から、次代のアメリカ文学の書き手が生まれてきた。

こういうことなのだと思う。

そして、村上的なアメリカ文学が受容された背景には、

形式としての「異種交配的アメリカ文学」と、

その想像力がリアルに結実した「多文化主義的アメリカ」の中で生じる漠然とした不安(anxiety)を鎮めるために、緩く全米で浮上してきた「スピリチュアルなもの」とが、

うまく配合されていた、ということがあると思う。

*

・・・とここまで書いたところで思い出したのだが、
このエントリーは、村上春樹論ではなく、『思想地図』の話であった。

完全に脱線だ。

なぜ、この村上春樹論的なものに触れていたかというと、それは、

雑誌“New Yorker”というものは、非常に幅広いジャンルを扱う雑誌だが、一点、スピリチュアルなものを正面切って扱うことがあまり得意ではなかった。

そのため、文芸作品の中の主題として、スピリチュアルなものは間接的に扱われるわけだが、

その密輸入の初期において、村上春樹が、ポップでスピリチュアルなものとして受容するにあたってのハードルを下げた、という点で、一定の役割を果たしたのではないか。

村上の役割は、とにかくアメリカの文学作品を、アメリカの地域性、つまり、東部とか西部とか南部とか関係なく、ぐしゃっと一つの鍋に放り混んでしまって、そこでぐつぐつ煮込んでしまったこと。

そういう「ハイブリッドな文化性」を村上が提示したからこそ、当のアメリカ人のお眼鏡に適った作品になったのではないか。

で、こうした村上春樹の「ハイブリッド風味」と等価なものをもつ位置に、雑誌『思想地図』も位置づけることができそうな予感がする、というのが、このエントリーでとりあえずは言いたいこと。

*

『思想地図』が“New Yorker”の連想を呼んだ点はいくつかあって:

まず、第一に、雑誌“New Yorker”なみに、文化的悪食に努めていること。

上で紹介した“New Yorker”なみに、幅広いジャンルを取り上げようとしている。つまり:

芸術、文学、批評、政治、芸術思潮、創作思潮、・・・

といったあたりを精力的に取り上げている。

「想像力」がテーマのVol.4だけでなく、「アーキテクチャー」をテーマとしたVol.3まで加えると、建築やソフトウェアなどの、「工学」的制作物も対象に入ってくる。これは、結構な、ジャンル横断的で階層縦断的な、「悪食」だと思う。

第二に、『思想地図』Vol.4のかなり多くの部分を占めるのが、上述したように“New Yorker”と縁の深い村上春樹に関わるものであること。

これは、東の小説の『クォンタム・ファミリーズ』の主題の一つであったと思うが、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』が、セカイ系的想像力の起源であった、という指摘や、それに端を発した『1Q84』の読解座談会の様子を含めて、村上春樹的主題が随所にある。

簡単に言うと、

「村上春樹=セカイ系」仮説。

この仮説の下で、「セカイ系」的発想を、村上春樹を媒介にして、それこそ世界的=国際的な文芸思潮のほうに折り返すことがもしかしたらできるかもしれないし、そのための拠点として『思想地図』を戦略的(といっても、誰にとって「戦略的」かは不明なまま勢いで書いているが(苦笑))に位置づけることができるのかもしれない。

それは、このあいだのフランス大使館シンポジウムで池田剛介が、ショーン・ペンのショートフィルムの紹介を通じて指摘していた「セカイ系の徹底」ということにも関わるかもしれないし、あるいは、福嶋亮大による「偽史的想像力≒並行宇宙的・偶有性的想像力」とも関わってくることかもしれない。

なにより、少なくとも、村上春樹という「文学的世界通貨」をフックにすることで、日本的な想像力の現在を、非日本語圏の人たちにも形式的に伝えることができるのかもしれない。

「クール・ジャパン」とどんなに叫ぼうとも、そして、それを理解してくれる外国人が増えたことをどれだけ指摘しようとも、アメリカのエスタブリッシュメントと密着したハイカルチャーの世界では、日本文学というといきなり源氏物語や今昔物語にまで行ってしまう、という事実を留学中には痛感させられた。だから、村上春樹あたりを土台にして、ハイカルチャーとサブカルチャーを架橋する方策は、アメリカ人に対しても有効な方法論だと思うし、一定の文化的広がりを初期において、ある程度期待することができると思う。

*

さて、『思想地図』と“New Yorker”の連想を呼び込んだ第三のものは、抽象的になるが、その「ハイブリッド=異種交配」性にあること。

実は、アメリカの場合、異種交配については、アカデミックやハイカルチャーの部分においては、積極的であるのだが、その一方で、ポピュラーカルチャーの部分では、地域性や民族性、などの、個人にとってはいかんともしがたい「外部発生要因」に規定されるところがあって、アカデミックにおける寛大さに比べれば、相対的に窮屈であったりする。

とりわけ、文芸の都=NY、映像の都=LA(ハリウッド)、という、これもまたいかんともしがたいほど強固な、実際のビジネス上の制約がある。

そして、この、NYとLAという、あえていえばオールド・アナログ・メディアの二大文化拠点に対するカウンターとしてあるのが、このエントリータイトルに含めたSan FranciscoやSilicon Valleyを含む“Bay Area”地区。

いうまでもなく、“Bay Area”は、現在のWeb/Computer文化の中心地であり、かつてのカウンターカルチャー発祥の地。

そして、『思想地図』Vol.4の一つの「宣言」としてあったのが、最初にある中沢新一インタビューと、最後にある中川大地論考とによって支えられた、

かつての西海岸対抗文化的な、「ニューエイジ思想/生命主義」を、(それがスピリチュアルで怪しそうな似非科学じゃないのか、という通念を一旦取り払って)むしろ積極的に/肯定的に引き受けてしまおう、

という「宣言」であった。

いわば、今、現在、WIREDがBay Areaを中心に、なんだかんだいっても60年代的対抗文化の意匠をまとって、その後継機として活動しているように、

『思想地図』を通じて、その動きをもっと、アメリカ西海岸という地域性に囚われないところまで突き進めよう、

というところに、一つの可能性が見いだされているように感じている。

*

その意味では、今後発刊されるであろう『思想地図2.0』においては、WIRED.UKの動きが参考になるのかもしれない。

WIRED ブランドの雑誌は、日本では廃刊になったにも関わらず、イギリス(UK)のロンドンではいまだに元気にWIRED.UKを発刊し続けている。

その内容は、微妙にUSのWIREDとずれていて、一般的な特集としては、たとえば比較的に国際的には普遍的な動きとしてGoogleの動きをUK的にフィーチャーする一方で、たとえば“Digital Britain”のような特集をベタに行い、UKやEU(欧州)における、デジタル文化と社会の接点について、「現在を記述し未来を構想する」ことに力を入れている。

もちろん、西海岸的な、「科学への信頼」はWIRED.UKでも健在で、オックスブリッジのちょっと奇妙な研究や北欧や中欧のエコに対する取り組み(一見トンデモ本的構想もあったりするが)が紹介されている。

一言つけ加えておくと、UKには、“Nature”という自然科学における国際権威的なジャーナルがあるし、なにより、スティーブン・ホーキングやリチャード・ドーキンスのような、理科系ど真ん中の知の巨人をポピュラーにするだけの、科学ジャーナリズムの厚みがある。BBCの科学番組がそうした科学の最先端を一般に「啓蒙」することに一役買っているし、そうした番組のスタッフらが、書き手として良質の科学ジャーナリストとして活躍している(例えばサイモン・シンなど)。

いずれにせよ、こうしたWIRED.UK的な動きは一つの参照点になるだろう。

その一方で、WIREDブランドにはどうしようもなく西海岸的なテイストがつきまとうのも確か。

そこで、エントリータイトルのように、むしろ、文芸ジャーナリズム誌である“New Yorker”を乗り越えるという方向に照準する方がチャレンジングだが王道で、面白いのではないかと思う。

*

『思想地図』は既に第一期は終了が発表され、第二期の『思想地図2.0』については、東と宇野常寛らによる新出版社によって発行されることが発表されている。

第一期Vol.4 でその片鱗を見せた「ハイブリッドな想像力=構想力=夢想力」を是非とも臨界点まで突き詰めて、そして突破して欲しいところだ。

その点では、一読者として応援したいし、一種の読者共同体として何かできる方向はないのか、引き続き気にかけておきたい。

その一方で、あまりまだきちんと語られていないが、東浩紀と北田暁大との共同編集がとりあえずは解消される、という事実の含意・評価についても、その要素がある程度出そろったところで考えてみたいところだ。

しばしば言われるように、二人の考えの違いは彼らの共著である『東京から考える』の最後で示された、北田=ジョン・ロールズ路線と、東=リチャード・ローティ路線という、政治思想・価値軸における選択の違いから生じているようにいわれるが、それほど簡単にいいきれるものなのかどうかも疑問に思っている。

個人的に引っかかっているのは、確か、東の『クォンタム・ファミリーズ』の中でも触れられていた「2003-2005年問題」。つまり、この二年間に情報環境が大きく変わってしまって、そのリアルな社会への効果が、その5年後である現在において顕在化してしまい、それが言説レベルで二人の立場をより明瞭に分かつようになったのかもしれない、ということ。

もちろん、これはまだ見立てに過ぎないので、今後の様子を見ながら実際に判断していきたい。

いずれにしても、『思想地図2.0』はいろいろな意味で可能性を追求して欲しいと思っている。

2010年に注目したい動きの一つだ。

author: junichi ikeda

CONCEPT

FERMATは、コミュニケーションという社会の基底を与える領域の変化の徴候に照準しながら、未来のビジョンを描くことで、新たな何か=“X”、の誕生を促します。