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一般意志2.0はなぜ「夢想」から始まるのか。

随分前に知ってはいたのだが、東浩紀が文化放送の大竹まことの番組に出演したポドキャストを、ようやく聞いた。

大竹まこと ゴールデンラジオ! (2009年11月13日放送)

興味のある人はググるか、iTunesで探してみてください。
といっても、さすがに、今更感は拭えないけれど(苦笑)。

(しかし、本論に入る前に断ると、もう二ヶ月近く経っているから、随分状況は変わっているのかもしれない。2ヶ月後に「ナマが命」のラジオを聴く、というのも、多分、大竹まことにしてみたら想定外なのだろうけど。)

基本的には10月末の「朝ナマ」出演以来の「一般意志2.0」の話をしたもの。

この大竹とのやりとりにはついては、ネットのかきこみなどをみたところでは、いろいろ批判があったり、そもそも東自身、若干落ち込んだ、ないし、失敗だった、と反省の弁をつぶやいていたようなのだが。

実際に放送を聞いた感じでは、とはいえ、いわれるほどひどいものでもなかったという印象だった。

媒体特性としてのラジオ、は、ああいうものだから、媒体ごとのトーン&マナーを予め了解しておけば、実は、それほど大変なことはない(だから、東浩紀にはめげずに主張を続けて欲しいところ)。

*

東は、朝ナマ直後に脱稿した『文学界』の彼のコラム欄で、10月末の『朝ナマ』について、彼自身の高揚感や彼周辺の熱気を伝えるような書き方で、その反響について伝えていた。番組内での他パネラー(含む司会者)の食いつきのよさ、番組中・後のTwitterでの反応の高まりなどについて、彼自身、睡眠不足のハイな状態を彷彿とさせるようなトーンで書いていた。それも、生々しさやすがすがしさが感じられる文体で。

たしか、その中に、「マスメディアってまだまだ意味があるじゃないか」というようなことを書いていた。つまり、「新聞やテレビってまだまだ(社会的影響力という点で)捨てたものじゃないじゃないか」、という感じで。

そういう高揚感に浸った後だから、ちょっとラジオのトーンの違いに戸惑ったというのが、上の文化放送の番組での出来事だったのだろう。

マス4媒体といっても、テレビ・新聞とラジオ・雑誌の間には、社会的影響力という点では大きな落差がある。テレビ・新聞が日本人の多くの人びと・世帯をカバーしていると信じられているのに対して、ラジオ・雑誌は随分前からそのカバー率が下がっている。メディアや広告関係者の実感からすれば、量の点でマスメディアと呼べるのはテレビ・新聞だけで、ラジオ・雑誌は随分前からセグメントメディア(「ターゲットメディア」と呼ぶ人もいる)の地位にある。それが実情。

もっとも、私自身、ポドキャストでこの番組に触れているわけだから、ネットの登場以後、ラジオ番組への接触の仕方が変わっているのもまた事実(なんといっても2ヶ月後なわけで(苦笑))。だが、こうしたウェブ側のリアリティに制作者側が追いついているかというとそれはまだ疑問。

大体、11月のポドキャストを1月に聞くのが可能という状況自体、たとえば濱野智史言うところの、ウェブの「同期/非同期」の特性が浮き上がってくるわけで。

書籍であれば、こうしたdelay(遅れ)のある接触は当たり前なのだから、裏返すと、「発言」のような音声コンテントも、書籍に準じた接触を行うようになっているということ。

*

さて、ラジオがカバーするセグメントは、主に「自動車利用者」と「商工・自営(+地域によっては、農業・漁業を含む)」。件の番組でパーソナリティの大竹まことが、「漁師の人びとにとって・・・」と引用していたのも、大竹が、パーソナリティは「リスナーの代弁者=集合身体」と思えばこそ。

そして、この「パーソナリティ=リスナーの集合身体」という習い性が、どこかで「市民の代表=政治家」と機能的にかぶるところがあるからこそ、直感的に、東浩紀が主張することに違和感を示していたのではないかと思う(だから、放送メディアは「カリスマ」的存在が大好き)。

つまり、「一般意志2.0」や「民主主義2.0」で期待されるシステムが、まわりまわって自分たち「メディア」の影響力の減衰にもつながりかねない、という直観から。

(裏返すと、『朝ナマ』は、「テレビ内テレビ破壊者」を自認する田原総一朗だったからこそ、東の意見に飛びついたのだともいえる・・・のだが、これは余談)。

*

ラジオの置かれている場所については、数年前に、ラジオも雑誌も、投下広告費という点で、インターネットに抜かれた、というのが、わかりやすい指標になる。

その点で、インターネットはまさに、セグメントメディアからマスメディアにならんとしているフェーズにあるわけだ。

ただ、同じ「マス」といっても、テレビ・新聞とインターネットでは、その印象が異なる。

その印象の違いがおそらくは、

(過去50年ほど実装されてきた) 「民主主義1.0」 と、
(IT系を中心にしばしばみかける) 「民主主義2.0」 との、

違いを産み出していくのではないかと思う。

ここで念のため記しておくと、東によれば、彼の用語法はあくまでも「一般意志2.0」であって、「民主主義2.0」は朝ナマの後、わかりやすさが優先されてひろまった表現だ、ということ。

「一般意志2.0」が、ルソーの時点にまで戻って、つまり、19世紀的な国民国家が浮上してくる以前にまで遡って、そこから私たちが関わる「統治体」の、別様のあり方を構想(夢想)することを狙っている以上、この「民主主義2.0」という表現は、東の立論の上では、迂遠であるだけでなく、ミスリーディングの可能性も含んでいる。なぜなら、一般意志は統治のあり方としてデモクラシー(民主制)を指定しているわけではないから。原理上は、立憲君主制や王制あるいは共和制でも、その統治体(≒政府)が一般意志を尊重して、日々の統治に勤しんでさえいればいいから。

このようなことを再確認した上で、ここでは、「民主主義2.0」の方を便宜上、利用しておく。それは、主に政治のことを考えるような人たちの間では、国民国家は大前提の上で、文字どおり、民主主義のことを主題にしているはずだから。そのような人たちにとって、「一般意志」に限らず、ルソーや、あるいは、ホッブズにまで遡ってしまうと、普通の人びとに投げかける言葉としては専門的に過ぎる=通じない、という判断も働くだろうから。

とにかく新しい政治システムが必要だという直観が働く人たちはそれなりの数いて、その人たちの間で想像されるのが、大なり小なり、ネットの存在を活用したタイプの政治システム。それが標語的に「民主主義2.0」と言われていると捉えておく。

*

さて、「民主主義2.0」がネットの存在を前提にしたものである以上、本質的なところで「民主主義2.0」的構想は「マスメディア批判」につながるところがある。

「批判」というと、「否定」、それも「全否定」ととる人が、当のマスメディア関係者には多い。というのも、マスメディアの語彙は「わかりやすさ」を追求するため、二分法的使用に陥りがち。そのため、デリケートな議論には適さないのは、上の大竹の語りでも明らか。問題は、当のマスメディア関係者がこの「わかりやすい語彙の罠」に囚われていることに時に無自覚であること(厄介なのは個人の健忘ではなく集団で健忘するところ)。だから、「批判」という表記ではなく、「民主主義2.0」同様、「2.0」という表記を使った方がいいのかもしれない。

つまり、

テレビ・新聞的なもの  「マスメディア1.0」
インターネット的なもの  「マスメディア2.0」

ここで「マスメディア」というのは、多くの人びとに影響を与えると想像されるメディアのこと。そのフェーズが、テレビ・新聞的なものからインターネット的なものに移行しようとしている。今のマスメディア(つまりマスメディア1.0)の人が好みそうな表現を使えば「マスメディアの主導権が、かつて新聞からテレビに移ったようにインターネットに移った」。マスメディア1.0的わかりやすさでいえば、「主導権=覇権争い」が、テレビ・新聞とインターネットの間で繰り広げられている、とでも形容するところ。

ただ、インターネット=マスメディア2.0では、「マスメディア」には質的な転換があって、それは、やはり「中心がない」こと。一般意志2.0における「集合知」のように、多数の人による、断片的な発言・言明が集積されていく場所として、インターネット=マスメディア2.0は了解されることになる。

だから、同じ「マス」といっても、マスメディア1.0とマスメディア2.0とでは、その規模が異なる。1.0(テレビ・新聞)の方では、最低限1000万というのがマスのイメージ。一方、2.0(インターネット)では、多分、オーダーが一桁、あるいは二桁変わって、10万から100万で十分「マス」と捉えられる(このサイズ感も雑誌出版に近い)。

*

唐突だが、私は、日本のYahoo! Japanのメディア事業的な位置づけは、ポータルとかウェブとかいう以前に、アメリカでいえばCableにあたると捉えている。つまり、従来の(地上波)テレビではカバーしきれなかった視聴者=利用者の意向をくみ取ってコンテントを提供する、という意味で。

もちろん、日本でもアメリカのようにケーブルやBSがあるけれど、その多くは既存のテレビ・新聞と事業的なつながりのある事業者がほとんど。いわば、「テレビ・新聞村」のメンバーによる事業展開がほとんどだった。

そうした、「テレビ・新聞村」の外側から、メディア事業に文字通り新規参入したのがYahoo! Japanだった。そこで、はじめて従来の「マスメディア」のテイストとは異なるものが「マス」に提供された。

同じように参入しようと思ったのがlivedoorや楽天だったが、ここでは、ウェブの特性である「ネットワーク外部性」の存在によって、淘汰圧力がかかり、結果的にYahoo! Japanの一人勝ち状態ができあがった、ということ。

上の表記でいけば、Yahoo! Japanは「マスメディア1.5」ぐらいの位置づけ。

マスメディア1.0に対するカウンターとしてスタートしたものの、ネットワーク外部性によって一人勝ち状態になり、結果的にサイズとしては「マスメディア1.0」に匹敵する大きさ(1000万単位)に達してしまった。そのため、Yahoo! Japanの悩みは、2.0の可能性を前にしたとき、半ば必然的にサイズを解体していく必要に迫られてしまうところ。

このマスメディア1.5の存在が、微妙に日本でマスメディア2.0へと飛躍するのを躊躇させている。

*

こういう状況だから、東が「一般意志2.0」の構想を、さしあたっては現実社会に対して無力な「夢想」と称しているのは、戦略的に正しいと思う。

「一般意志2.0」は「マスメディア2.0」に属する人びとからの言説による側面援護が必要だが、日本ではまだそこまで至っていない(もっとも、ウェブ学会周辺には、マスメディア2.0的メディアを産み出すようなポテンシャルをもっているようにも感じている)。

そうして「夢想」を紡いでいる間に、集合知の方の研究・実践はアメリカを中心に進められることになるし、そうこうしているうちに実際の社会の風景も変わっていく。だから、確信があればそれを記してしまえばいい。ただし、未来での再読を可能とするような様式で。裏返すと、current affairs(時評性)の磁場から距離を置ける様式で。

東が、ルソーを取り上げて、同時代人からは「文筆家」として見られ(そして、それで生計を立て)、後世からは「思想家」と捉えられる生き方を指摘している。多分、彼が小松左京を取り上げる視点もそうなのだろう。というか、『ミステリーズ』の連載の中で彼が書いていることは、小松左京を「思想家」として再発見しようという試みでもあるのだと思う。

もちろん、東自身もそのような存在でありたい、という希望の表明かもしれないが。

前にも少し触れたけど、私が、東浩紀に注目しているのは、彼が、50年前だったら優秀な官僚(選良!)になってもおかしくない人物であるにもかかわらず、自身の関心の赴くままに動くことをよしとして、結果的に、日本社会では希有なadvocateの地位を占めているように見えるから。

ただ、日本では、上のようなマスメディア1.0の、あえていえば抑圧的な言説の布置があるので、同時代のadvocateとして活躍するには、いささか「悪い場所」にいることになる。

なぜなら、マスメディア1.0に書き物を寄せる、学者、官僚、新聞記者、などの選良は、たいていの場合、社会を俯瞰する観察者として「パターナリズム」を体現する存在としてあるから。パターナリズムは定義上、父性的=抑圧的な振る舞いを呼び込みがち。

一方、advocateの本場たるアメリカでは、学者、官僚、新聞記者、のいずれも自らがadvocateの立場を取ることも多い。それが、時にアメリカのマスメディア=ジャーナリズムを、党派的なものにする(つまり不偏不党ではない)のだが、それは、同時に、アメリカのマスメディアを、単なる決定事項が伝えられるメディア=回覧板ではなく、多くのadvocacy(それは、学者、政府関係者、NPO関係者、interest groupの人びと)が意見の善し悪しの鎬を削る闘技場=アリーナに変えている。

そして、個人的には、集合知のイメージの原型の一つである「予測市場」自身、こうした、党派的なマスメディア的状況が事実としてあったからこそ、その党派的なやりとりを、少数の選良による発言から、一般の人びとの多数の参加という極限にまで引き延ばそうとした結果、考案されたアイデアではないかと思っている。

つまり、予測市場を開発してみようという発端の契機・欲望として、アメリカの党派的な、闘技場的なアリーナとしてのマスメディア=ジャーナリズムがあったのではないか、と。

だから、アメリカでは、このまま、マスメディア2.0の到来を言祝ぐところまで行ってしまうのではないかと思うし、その時、東が夢想する「一般意志2.0」は、アメリカ(あるいはカリフォルニア)でこそ、あっさり実現してしまうのかもしれない(その時は、「トクヴィル2.0」とでも言っていいと思うけど)。

ちょうど、ジュネーブ出身のルソーの記した一般意志(1.0)が、フランス革命という場で現実化したように。

*

集合知のひな形である予測市場は、それに「市場」とついているとおり、もともとは金融や株式などの市場のアナロジーから開発されていった。

今日の経済活動の根幹にあるデリバティブなどの金融工学的商品の取引市場はまだそれが本格稼働してから実は30年ぐらいしか経っていない。つまり、「市場」を市場として制御する技術はまだまだできて日が浅い。にもかかわらず、足下のサブプライム不況のような、全人類的な災厄を引き起こした。それくらい、短期間に「世界」に普及し、世界のルールを書き換えた。

この事実を踏まえれば、類似の「数理的背景」をもつ予測市場≒集合知≒一般意志(2.0)が実装されるのも、そう遠くない将来なのかもしれない。

だから、さしあたって「夢想から始める」ことが許されるし、
「夢想から始める」ことが望ましくなる。

author: junichi ikeda

CONCEPT

FERMATは、コミュニケーションという社会の基底を与える領域の変化の徴候に照準しながら、未来のビジョンを描くことで、新たな何か=“X”、の誕生を促します。