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メディア論的視点から見た「iPad問題群」

先週末にアメリカで発売が開始されたiPad。主要な新聞や雑誌(のサイト群)では、この10年ほどAppleが新商品を導入するたびに行われてきたように、ユーザーから熱狂的に受け入れられている様子が多数報道されている。

その熱狂ぶりについては大手の新聞サイトを見てもらうとして、気になるのはiPadが商品として、コンピュータとして、実際、どれほど革新的なのか、というところ。もちろん、Appleの場合、「革新的」というのは、単に技術仕様が上がったというだけでなく、「いかにユーザーの利用体験を変えるのか」という問いへの、驚きを伴う回答が含まれなければならない。

そのようなiPadの革新性について、ベテランのギークがレビューを寄せている。


WSJのWalt Mossbergによるレビュー。

Laptop Killer? Pretty Close
【Wall Street Journal: April 1, 2010】

Steven Levyによるレビュー。

Apple iPad
【WIRED】


Mossbergは主に自身による試験的利用の結果経験したことをまさにレポートとして記している。一方、Levyは(昨日のエントリーで触れた)AltairとEd Robertsから書き始め、コンピュータ文化全体の変容の中でiPadの革新性を明らかにしようとしている。

いずれも具体的で面白い記事なので読んでみることを勧める。

で、以下では、そうしたレビュー内容を含め、iPadについてメディア論的な問題意識の下で、つまりは人々や社会への余波という点で、気になっていることを記しておく。


●バーチャルキーボードを含む文字入力様式について

書字様式は人々の思考や振る舞いを決めるという、キットラー的なメディア論(メディア史観)から見た場合、iPadはどのように位置づけられるのか。

ペンマンシップ → タイプライター → 指一本タッチスクリーン?

このあたりは、一足先にワープロ/パソコンの登場で、抜本的に日本語の書き方、というか、文字どおり日本語の文字の入力の仕方が抜本的に変わってしまった日本とは異なる文化的衝撃をもたらすのかもしれない。

欧米人の場合は先行してタイプライターによる「書き方」が定着していて、パソコンのキーボードも基本的にはそれを継承していた。日本語などアルファベット以外の文字、特に表音文字ではなく表意文字を利用している国と違って、キーボードはまさに打鍵すればそのまま文字群=単語や文章が打ち込めた。

それに対して、たとえば、日本の場合は、キーボードを含めてどのような方法で文字を入力するか、そして変換するか、ということがPCの導入期から問題とされてきていた。

たとえば、ローマ字変換を使うかカナ変換を使うかという入力方法の問題については、キーボードの軛から解放されたケータイではかなり自由度のある入力方法が採られた。文字セットとして絵文字が加えられるような事態も生まれた。つまり、通常の感覚でいえば、文字以上図未満、のような「符合」が文字として扱われるようにもなった。

また、日本語変換については、単なる辞書データからの一対一変換に止まらず、文節、文章単位での変換が軽いAI機能を伴いながら工夫された。手紙の冒頭の時候のあいさつを全て入力する人はもはやいないだろう。さらには、先日リリースされた「Google日本語入力」のように、ウェブ上でリアルタイムで打鍵される単語群をコーパスとして用いることで、従来であれば、しかるべき専門家によって用意された辞書データをラディカルに自動生成し、その変換順位を利用頻度に応じて提案してくるようなシステムまで開発されている。人々が現時点で最も共有している文字利用のされ方がその都度提示されるわけで、無意識とは言語によって構成されている、という見方をそのまま実践してしまったような感じすら受ける。そのような事態にまで至ってる。

(一部ではこうした利用変換装置を、まさにそれがプログラムであるが故にハッキングできることをいいことに、新しい言葉の組合せを生み出すような装置として生み出すまでに至っている。少なくとも今日の日本における「文字列接触経験」には大きな影響を与えている)。

日本語のような非アルファベット文字圏で、このようなラディカルな文字入力機構の変容があったのに対して、欧米、とりわけ、英米圏では、タイプライター時から文字入力様式自体は変わらず、従って、入力様式そのものを反省的に捉える必要はほとんどなかっただろう。

だから、今回のタッチスクリーンはそうしたタイプライター文化からはみ出る文字入力経験を欧米の人々に与えるのかどうかはとても気になるところだ。


●クラウド化の促進効果について

iPadは、全体的にウェブ資源の利用に照準したガジェット。そして、ウェブ資源に照準するということは、コミュニケーション×メディア利用が中心になることを意味する。具体的にはe-mail, chatなどの個人間通信、Twitter, Facebook等のSocial Web、ブログやメディアサイトなどの閲覧/観覧、が中心になる。

その場合、Twitterが既にそうだが利用者が呟いたテキストは利用者の手元の機器ではなくTwitterのサーバーに直接蓄積される(だからこそ、ケータイからもPCからも、Windowsマシンからもマックからも任意にアクセス可能になる)。つまり、コミュニケーション×メディア利用が中心であるならば、iPadは入力/出力端末でしかない。関わったデータはウェブ側に存在する。こうしてクラウド化が徐々に当たり前になる。というか、ユーザーの利用資源の多くがクラウド的に提供されるものになる。

Cloud computingとSocial Webは、いわばハードとソフトのような、裏表の関係にあるので、両者は相互に利用を促すことになるのだろう。その時、従来マスメディアが確固たる存在として想定されていたときに主張されてきた「インタラクティブ性=双方向性」のような意味も溶解していくのだろう。双方向である以前に多方向であるし、クラウドを前提にすれば、いわば全方向に潜在的にリンクは張れる。つまりSocial Graph的な発想でメディア財の消費や生産を捉えることができる。

こうした動きが全面展開したとき、おそらくはマスメディアの意味することも変わってしまうはず。


●デジタルメディアにおける「外観」について

多くのメディアがiPadの発売とともに、新聞や出版などの活字メディア企業がiPadで商品を提供することになったことを伝えている。2009年は景気後退の余波から広告不況に突入し、多くの活字メディア系企業で新聞・雑誌・書籍の実売の低下とウェブを含めた広告収入の低下にあえぎ、活字メディアの将来が真剣に憂えられた年だった。そのこともあってiPadへのメディア企業の参加は、本格的なデジタルメディアへの移行=ビジネスモデルの転換と捉えられている。そして、報道ももっぱらどの会社がAppleと組んだとかいう話が中心になっている。

もちろん、そのような話も重要なのだが、そうしたデジタルへの移行が既定路線に見えるようになったところでむしろ気になってくるのは、iPadへの移行で、新聞や雑誌のiPad上の「紙面/誌面」はどうなるのか、ということ。

Web 2.0移行、多くのメディアサイトが技術やウェブインターフェースの設計ルールに最適化した結果、どこも似たような形のサイトになってしまい、少なくとも視覚的な印象レベルでは没個性的なサイトで溢れてしまった。ただでさえ情報が無料になっているように見える状況で、サイトそのもののコモディティ化に拍車をかけるような外観が相次いだ。

だから、iPadではデジタルになって初めて多様なメディア財の外観がデザインされるかどうかこそが鍵のはず。情報が溢れる中でどうやって人々の注視=アテンションを集めるか、そのための「外観」競争が、従来の雑誌文化のように展開するのかどうかは、iPadがメディアビューアーとして革新的であったどうかを後日決めるポイントであると思う。

*

以上、iPadについてさしあたって現在、メディア論的に気になっている点を記した。

もちろん、以上は単なる思いつき的アイデアで終わる可能性はある。反対に、iPadが普及していく中で、上とは異なる視点で捉えなければならない問題が生じる可能性もある。

従来のcomputingの様式を更新する動きとしてiPadには注目していきたい。

author: junichi ikeda

CONCEPT

FERMATは、コミュニケーションという社会の基底を与える領域の変化の徴候に照準しながら、未来のビジョンを描くことで、新たな何か=“X”、の誕生を促します。