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ビッグデータを身近にするインフォグラフィックス

社会に流れるデータを拾い上げ、それらを近未来の行動の指標に利用しようとするビッグデータの時代を控えて、肝心なデータの解析結果を人びとへ首尾よく伝達するインフラとして期待されているのが、解析結果を効率よく伝えるためのコミュニケーション技術であり、なかでもビジュアル化技術である。

Winds of change
【The Economist: July 6, 2013】

上の記事は、The Economistの書評記事なので、そのようなデータのビジュアル化技術について触れた本を紹介している。

冒頭にあるように、そもそも棒グラフやパイチャートなども、そうしたデータの傾向を簡潔に示す方法として、1700年にスコットランドの技術者によって提案されたものだという。つまり、データの登場に応じて、それらを即座に理解するための方法も考案されてきたというわけで、そうした視覚理解方法の大々的な更新に取り組んでいるのが、現代のウェブ社会だ、ということだ。

この「データの視覚化」というテーマは、思いの外、裾野が広い。

この記事にもあるように、まず、データそのものの視覚化の方法が、基本的に「美学的」なものと「情報提示的」なものの混淆であることだ。つまり、「よりわかりやすく」「より美しく」という二つの開発軸が二重らせんのように絡み合いながら、具体的な表現方法を考案させ開発させていく。

そして、「よりわかりやすく」という方向は、報道というジャーナリズムのあり方をも少しずつ変えている。「データ・ジャーナリズム」と呼ばれるものだが、世の中の複雑な状況をデータに基づいて多くの人にとってわかりやすく伝える、そうした行為そのものが、ジャーナリズムの重要な役割になる、という考え方だ。

報道文という文体は、ヘッドライン→リード→本文、という形に、伝えられるべき情報に優先順位をつけ、まずは「わかりやすい一言」の断言として見出し(ヘッドライン)を与え、次に伝えるべき「イイタイコト」を冒頭の一文(リード)で示し、あとはその情報を支える細部の情報が記される。視覚的に逆三角形(逆ピラミッド)構造で示されるものだ。そうやって、一応、ひとつの記事にはひとつの伝達内容が込められている、という原則が貫かれる。

裏返すと、現行の報道文は、報道対象を前にして一刀両断すべき視座を確定させるところから始まる。そして、この一刀両断を支える「価値軸」が一定の傾向性を帯びるからこそ、報道の姿勢としてリベラルや保守、あるいはインテリ向きや大衆向き、といった色分けがなされることになる。

言ってしまえば、現行の報道は、大なり小なり、「はじめに書き手の価値観ありき」というフレームの下で書き始められることになる。そして、その書き手が個人の記者に帰着するのが、署名記事が中心のアメリカの報道であり、書き手が所属組織全体に帰着するのが、記者名を明かさない日本の報道ということになる(ちなみに、日本の場合、報道者の個性を際立たせたものは、メディア技術の特性から「顔」という、個人特定の中核イメージをも同時に伝播させてしまう、「テレビ・ジャーナリズム」であったといえる)。

こうした従来の、言葉の伝達を中心にした報道のあり方に対して、視覚イメージを中心に伝える報道が「データ・ジャーナリズム」ということになる。

したがって、当面は、言葉に表すには複雑すぎて伝えられなかったもの、あるいは極端に単純化(それは使用する語彙の制約にも繋がる)しなければ伝えられなかったものを、簡単に伝える、ために利用されるところから始まるのだろう。その上で、次のステップとして、従来の、価値観ありきで伝えられてきた報道内容についても、可能な限りフラットな形で伝える方法も現れるようになるのだろう。

だから、文字通り、事実を事実として伝えようとするのがデータ・ジャーナリズムということになる。

もっとも、既に表現方法の開発の部分で「美学的」要素が組み込まれているところからわかるように、「美的=情動的」要素が視覚化に当然伴うわけだから、手放しに、データ・ジャーナリズムは客観的だ、ともいえないだろう。ただ、現在においては、言葉や映像の制約を超えた事実の伝達方法の開発が行われていることを肯定的に捉えておいても良いと思う。

そして、裾野の広がりの三番目としては、こうしたデータ・ジャーナリズムを支えるには、広くデータの収集が必要になることであり、そのデータの供給源として浮上するのが政府という見方だ。いわゆる「オープン・ガバメント」ないし「オープン・ガバナンス」という考え方だが、その目的は政府が所有しているデータを公開するだけでなく、今後、公益性の高いデータの収集について政府がその役割を担うということでもある。つまり、気象情報や交通情報のような各種のローデータを政府が収集し、それらを一般に公開することで、ビジュアリゼーションを含むそのデータの利用方法については、民間の開発に委ねる、という方向だ。

そして、ビジュアリゼーション、という方法は、それが誰にとってもわかりやすい、という性質から、「あのデータも同じように視覚化してみたらどうなの?」という問いを人びとの間で呼び起こしやすいという性格もある。つまり、データ・ビジュアリゼーションが一般化すると、データの公開を求める動きも並行して生じやすいといえるのだろう。

データの視覚化、そのためのインフォグラフィックスの扱いは、こうした裾野の広がりをもった試みだといえる。ビッグデータがデータ解析に力点をおいたバズワードだとすれば、ビジュアリゼーションは、データ利用のインターフェイスに焦点を当てた言葉だといえる。両者がからみ合うことで、具体的にデータを利用する社会が生まれるわけだ。それは同時に、データ解析にせよ、ビジュアリゼーションにせよ、アルゴリズムが大きな役割を担う社会へと移行することを示唆している。

author: junichi ikeda

CONCEPT

FERMATは、コミュニケーションという社会の基底を与える領域の変化の徴候に照準しながら、未来のビジョンを描くことで、新たな何か=“X”、の誕生を促します。